アーティストを起業家として支援! 投資からマネジメントまで担う「アート界のYコンビネーター」が始動

テック業界ではお馴染みの、起業家を支援し、ビジネス拡大を促進する目的で資金投資やノウハウ提供を行うアクセラレータープログラム。これをアート界に応用しようと立ち上がったのが、インバージョン・アートだ。アート界のYコンビネーターを目指す彼らの戦略とは?

インバージョン・アートが提供するアクセラレータープログラムの第1期参加者、イモ・ンセ・イメによる《And I'll be there with you》(2021)。Photo: Courtesy of Imo Nse Imeh

アーティストが育っていくための「第3の道」

シカゴを拠点に活動するアーティスト、マリア・ギャスパーは、10年以上にわたり受刑者の声を拾い上げる作品を制作してきた。2018年に発表したプロジェクト《Radioactive: Stories from Beyond the Wall》は、アメリカ最大規模のクック郡刑務所で、2012年から受刑者とともに継続してきたワークショップの集大成となる作品だ。公共空間で発表されたこのプロジェクトでは、ワークショップで制作されたアニメーションを刑務所の北側の塀に投影すると同時に、録音された受刑者たちの語りを会場だけでなく、塀の向こうに広がる街中にも聞こえるようにした。

ギャスパーが20年以上のキャリアの中で取り組み、次第に重層的になってきたプロジェクトは、通常NPOからの資金提供を受けて実現される。しかし、そうした団体から支援を受けるには複雑な手続きが必要で、決して簡単なことではない。彼女はそれ以外の資金調達の手段として、作品を買ってくれるコレクターを見つけたいと考えてはいるものの、作家とコレクターを仲介するギャラリーシステムの透明性の欠如に不安を感じてもいる。

ギャスパーはこう打ち明けた。

「頭がいいし、才能もあるアーティストの友人たちと付き合っていて分かったのは、(ギャラリーとの)取り決めはとても不透明だということです」

そんなとき、キャリアを次の段階へと進めるためには別の選択肢もあることを知ったという。最近運営が開始された、アーティストのためのアクセラレータープログラムのパイロット版だ。アクセラレーターというのはアートの世界ではあまり馴染みがないが、シリコンバレーなどテクノロジーの世界では広く普及しているスタートアップ育成プログラムのことを言う。

これは起業家のためのブートキャンプ(新兵訓練)のようなもので、参加者は新しいビジネスを立ち上げ、軌道に乗せるために必要な物事について、それぞれの分野の専門家から指導を受けられる。数あるアクセラレータープログラムの中で最も有名なYコンビネーターは、20年にわたる歴史の中で、日本でもお馴染みの空部屋シェアプラットフォームのAirbnb(エアビーアンドビー)やNFTマーケットプレイスのOpenSeaといった有名企業を含め、何千もの企業を輩出している。

テック業界の起業家、ジョーイ・フローレスがアーティストを支援するためのアクセラレータープログラムを作れないかと思いついたのは2020年のことだった。フローレスはその10年ほど前にYコンビネーターのプログラムを経て、ミュージシャンのためのオンライン・ラジオ・プラットフォーム、Earbits(イヤビッツ)を立ち上げた経験がある。1人のアーティストを1つのスタートアップとして捉えるならば、テック系スタートアップへの投資とアーティストへの投資には共通点があるとフローレスは考えた。

US版ARTnewsの取材に彼は、「以前からYコンビネーターのような会社はファインアートの世界でも役に立つはずだと思っていたので、具体的な仕組みについて考え始めたんです」と語った。

そこでフローレスは、共同設立者のジョナサン・T・D・ニールとインバージョン・アート(Inversion Art)を立ち上げた。同社はこれから3カ月間のアクセラレータープログラムに参加するアーティストを募集し、アート界のベテランと異業種の専門家からなるアドバイザリーチームが、参加アーティストとともに目標達成のための戦略を立てる。そして、3カ月間のプログラムが終了した後も、5年間にわたるスタジオマネジメントのサービスを提供(延長も可能)。これには、経理、マーケティング、法務、在庫管理など幅広い業務が含まれる。インバージョン・アートは、スタジオマネジメントのサービス受託期間中にアーティストが得たすべての収入(作品販売やコミッションワークの売り上げ、美術館から支払われたアーティストフィーなど)に対して15パーセントの手数料を取る仕組みだ。

マリア・ギャスパー《No Justice Without Love》(2023/04/04) Photo: Ford Foundation Gallery

アーティスト・レジデンシーとの類似点と相違点

6月に発表された声明によると、同社は数人のアーティストと2年間のスタジオマネジメントおよびキャリアプランニングの契約を結ぶとともに、アーティストと専門家をつなぐ窓口担当のスタッフを雇用したという。本格的なアクセラレータープログラムは、来年の立ち上げに向けて準備が進められている。

ギャスパーは、インバージョン・アートとギャラリー、それぞれの長所と短所を比較してみたという。インバージョンの手数料が15パーセントであるのに対して、一般的なギャラリーは50パーセントほど。しかし、インバージョンの条件はもう少し複雑だ。同社は、アクセラレータープログラムの参加アーティストから作品を買い取ることに同意する。その購入額は、プログラムに参加する前年にアーティストが得ていた収入の30パーセント相当で、最高10万ドル(約1400万円)までとする。同社は少なくとも5年間は作品を保有し、売却時には10パーセントのリターンをアーティストに保証する。さらにインバージョンは、その後8年間にわたり、50万ドル(約7000万円)を上限に、市場価格の15パーセント引きの価格でアーティストから作品を購入する権利を持つ。

フローレスによれば、この取り決めは同社の成長に不可欠なものだという。「私たちは作品を株式のように捉えています。従来のアクセラレーターがテック系スタートアップの株式を買うように、アーティストの作品を購入するのです」

インバージョンのプログラムは、アーティスト・レジデンシー(*1)に似たところがある。レジデンシーのプログラムは、作家が能力を発揮するために必要なスペースとリソースを提供し、終了後も継続的に支援が得られるコミュニティへのアクセスを提供する。たとえば、1968年から続いているハーレム・スタジオ美術館のレジデンシーからは、デイヴィッド・ハモンズやケリー・ジェームズ・マーシャル、ミカリーン・トーマスケヒンデ・ワイリーなど、現代アート界の大スターたちが数多く生まれた。さらに、同プログラムの卒業生であるワイリーやタイタス・カファーは、それぞれ独自のレジデンシーを立ち上げてもいる。


*1 アーティスト・レジデンシー/アーティスト・イン・レジデンスとは、アーティストが一定期間ある場所に滞在して制作活動を行うプログラムのこと。

このようなプログラムを経ることによって、アーティストは制作面で成長できるだけでなく、有名プログラムの参加者として箔をつけ、人脈を築いた状態でアート市場に参入できる。Yコンビネーターでは、そこで得られる知識や経験に加え、登竜門としての性格に魅力を感じて毎年何千人もの起業家たちが応募するが、インバージョンもアーティストに同じような場を提供したいと考えている。アーティスト・レジデンシーと違うのは、レジデンシーが通常は無料の短期プログラムで、継続的なキャリア支援やスタジオマネジメント支援は行っていない点だ。

「アーティストも起業家である」という意識変化

既存のアート界でも、インバージョンと似たプログラムは存在する。それは、ニューヨークニューミュージアムが運営する文化インキュベーター、NEW INC(ニュー・インク)で、アート、デザイン、テクノロジーの分野にまたがるプロジェクトを支援するツールやメンターシップ、ビジネス面のスキル養成などのプログラムをアーティストに提供する。というのは、昨今アーティストにも起業家的素養が求められるようになっているからだ。NEW INCでディレクターを務めるサロメ・アセガは、「個々のアーティストがビジネスを成功させるために必要とする、ありとあらゆる要素」を洗い出し、その運営をサポートしていると語る。

最近NEW INCのプログラムを修了したアーティストには、5月に第1回LGグッゲンハイム賞を受賞したトランスメディア・アーティストのステファニー・ディンキンズや、キンフォークというNPOなどが含まれる。キンフォークは、これまで過小評価されてきた歴史的事件や人物について、AR(拡張現実)を使って学べるカリキュラムを開発しており、ARアプリの中ではこうした歴史上の人物のモニュメントも作成できる。

NEW INCやインバージョンのプログラムは、アート界で起きつつある意識の変化を反映している。最近は、ダニエル・アーシャム村上隆のように、起業家としての顔も持つ著名な現代アート作家に似た手法を使うアーティストが増えてきているのだ。ニューヨーク大学でビジュアル・アート・アドミニストレーションを教える助教授で、『The Story of NFTs』の共著者でもあるエイミー・ウィテカーも、「最近のアーティストたちは、自らを起業家として捉えることに抵抗がなくなってきています」と話す。

インバージョンの共同設立者であるジョナサン・T・D・ニールいわく、ファインアートの世界では作家をビジネス主体として捉える視点がまだまだ欠けているという。これは従来通りのアーティストであろうとなかろうと、全てのクリエイターに当てはまる。「アーティストが自分のスタジオをビジネスとして成立させるために成長戦略を練ったり、経済的成功を目指したりする姿勢は、美術の修士プログラムでは冷淡な目で見られることがほとんどだ」と、ニールは説明する。

つまり、ニューヨークのサザビーズ・インスティテュート・オブ・アートのキュレーターで、同校のコンテンポラリーアートの修士プログラムを率いるキャシー・バティスタが言うように、「才能豊かなアーティストの中には、ビジネス面でのサポートが必要な人が大勢いる」のだ。

ギャラリーは、「アーティストを支援し、作品を世に広めてくれる頼りになる存在だ。だが、常にそういう役割を果たしているかというと、そうも言えない」とニールは指摘する。また、2022年にアドバイザーとしてインバージョンのプロジェクトに加わった画家のエンリケ・マルティネス・セラヤは、ギャラリーが「スタジオ運営のための具体的な知識やノウハウ」をアーティストに教えてくれることは稀だと述べた。

見極めが難しいアーティストに投資するタイミング

ブルックリンに拠点を置くアートコンサルタント会社、Ilèkùn Waを経営するアーティスト、ジェレマイア・オレインカ・オジョは、2022年にアドバイザーとしてインバージョンのプロジェクトに加わった。アーティストのキャリアをビジネスのように捉える同社のアプローチに可能性を見出したのだ。彼はこう語る。

「そうすることで、全ての関係者が力を合わせて、アーティストのキャリアを持続可能で収入を見込めるものにできるのです」

2021年初頭、オジョはIlèkùn Waを通して、ナイジェリア系アメリカ人の画家でアフリカン・ディアスポラ美術の教授でもあるイモ・ンセ・イメを支援し始めた。しかし、作品の需要が爆発的に高まるにつれ、イメはオジョが提供できる以上のサポートが必要になってきた。そこでオジョはイメにインバージョンのパイロットプログラムを紹介。ニールの支援もあり、イメは最近ピッツバーグのオーガスト・ウィルソン・アフリカン・アメリカン・カルチュラル・センターで個展を開催している

オーガスト・ウィルソン・アフリカン・アメリカン・カルチュラル・センターで2023年2月から5月にかけて開催されたイモ・ンセ・イメの「The Hope of Radiance」展。Photo: Courtesy of Imo Nse Imeh

イメも、冒頭で紹介したギャスパーも、10年以上のキャリアがあり、競争の激しいアート界のレジデンシープログラムに応募するような新進アーティストではない。インバージョンは、「実績のない人をインキュベートしたり、支援したりする」ことは目的としていない。そう語るのは、同社に投資しているベンチャーキャピタル、マジック・ファンドの共同設立者であるマット・グリーンリーフだ。彼によると、インバージョンは「少なくともフェローシップを受けたことがあるか、すでに1度は個展を開いたことのあるアーティスト」を受け入れたいと考えているという。

フローレスは当初、「投機的なリスクを取らずに、できるだけ早い段階からアーティストを助けられる設計にできないか」と考えていた。だが、アーティストに投資するタイミングを見極めるのは難しい。気まぐれなアート市場では、ほとんどのアーティストのキャリアパスには紆余曲折が付きもので、安定した成功を手に入れるまで数十年かかることもある。

テレビやラジオの金融番組の司会者で、数多くの著作がある金融教育専門家のアルヴィン・ホールは、「アーティストを市場に送り出し、長期的にキャリアを築く手助けをするプラットフォームは、時にシナリオが存在するという思い込みに囚われていることがある。だが、クリエイティブな業界の市場では変数が多すぎて、必ずしも思い描いたシナリオ通りに物事が進むとは限らない」と語る。ホールは、リー・フリードランダーやキャリー・メイ・ウィームス、ローナ・シンプソンなど、膨大な数の作品を所有するアートコレクターでもある。

リスクをある程度回避するため、インバージョンはプログラムの参加メンバーを選考する際に、1期ごとに分散投資のポートフォリオを組むのに似たアプローチを取る。これにより、個々のアーティストにすぐ結果を出さなければというプレッシャーがかからず、人気作家ばかり優遇するギャラリー的なやり方も回避できる。

それによって、「すぐには売れない野心的な作品」に取り組んでいるアーティストでも、「知名度を上げることができ、インバージョンはコレクションから収益を上げることができるはずです」とフローレスは語る。

アクセラレータープログラムによる好循環を期待

Yコンビネーターが起業家のアイデアや技術に投資するのと同様、インバージョンもハリウッドのエージェンシーのように、ファインアートの世界の才能、あるいは「長編映画の制作やファッションブランド」に投資するのだとバティスタは言う。

投資を求める起業家に、ベンチャーキャピタリストが真っ先にする質問は、「果たしてあなたのビジネスはスケール(拡大)できるのか?」というものだが、インバージョンも当然この質問への答えを用意している。ニールによれば、同社はアーティスト支援のサービスを、ゆくゆくは「スタジオマネジメントのためのテックプラットフォーム」へと成長させ、アーティストの儲けに対して12~15パーセントの手数料を取るプランを描いているという。そして、数百人のアーティストに直接投資しつつ、最終的にはそのプラットフォームを通して数千人のアーティストにサービスを提供したいと考えている。

文化事業の資金調達を支援するアーツ・ファンダーズ・フォーラムのディレクター、メリッサ・カウリー・ウルフは、「他分野で成功したテンプレート」をアートの世界に導入するインバージョンのような事業は、アーティストの作品の価値を上げ、彼らのキャリアアップに貢献することで、より大きな力をアーティストに与えられるのではないかと期待する。

インバージョンのパイロットプログラムに参加した画家のイメはこう語った。「足元を見られて損をするのはいつもアーティストの側だという不安を、私たちは常に抱いてきました。インバージョンのような仕組みを通してお互いを知ることができれば、皆にとって良い結果が生まれるはずです」(翻訳:野澤朋代)

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