「直す」よりも「正体を知る」こと──森直義が語る、絵画修復士の本当の仕事【アートなキャリアストーリー #3】
アート業界は、実に多様な専門家に支えられている。「アートなキャリアストーリー」は、業界に携わる様々な人々のキャリアを辿っていく連載。第3回は、森絵画保存修復工房の代表・森直義に、葉山にある工房で絵画修復という仕事の醍醐味を聞いた。
修復よりも重要なのは「調査」
──まず、絵画修復士というお仕事の内容を教えていただけますか?
絵画の修復といっても、この仕事は必ずしも修復をするわけではないんです。経年変化でニスが真っ黄色になった作品を洗浄して鮮やかに蘇らせることもあれば、そのまま何も手を加えずに現状維持することも。美術館からの依頼で、展覧会に出品される作品の状態をレポートするだけの仕事もありますね。
基本的には、依頼された作品の状態を調査して、計画書を書き、適切だと考える処置を依頼者に提案してから実際の作業に入ります。こうしたプロセスの中でももっとも重要なのは、「調査」です。作品の「正体」を見極める仕事といえます。
──作品の「正体」を見極めるとは?
私たちが知りたいのは、その作品の「正体」は何かということなんです。それを知るためには、様々な方向から調査することが大切です。
まずは、物理的な正体を突き止めること。その際に基本になるのは光学調査です。紫外線や赤外線を使って作品を調べるんですが、作品によっては、この工房ではなく別の施設を利用してX線をとることもあります。そして、作品の歴史を調査することも「正体」を知る上で不可欠です。
──歴史的な調査というのは?
たとえば今、フィンセント・ファン・ゴッホのある作品を調査中ですが、作品が制作されたときゴッホが誰かに宛てた手紙に書いた内容や、当時彼がどんな本を見て勉強したかなどを研究します。こうした歴史資料から得られる情報が科学調査を裏付けて、はじめて意味のある生きた情報になるのです。
見る力を磨かなければ、修復のゴールは見えてこない
──修復することになった場合、どのような状態にするのが理想ですか?
私たちが目指しているのは、作品を「元の状態」に戻すことではありません。修復をして綺麗にするということは確かにありますが、作品が描かれてから時間がたって、味わいも出ている中で、どの時点の状態に戻すことを是とするのかは議論が必要です。この「修復の着地点」を決めるのが、非常に難しいんです。絵画には、物質的な「資料的」側面だけでなく「美的」な要素も加わります。正しい「修復の着地点」を判断するためには、修復家ができる限り多くの作品に触れ、美的な判断力を養っていくことが必要だと思います。
──技術だけでなく、作品を「見る」力を育むことが大切なんですね。
たとえば今、東京で「マティス展」が開催されていますが、これほどまでに初期のアンリ・マティスの作品を網羅的に見ることができる機会は多くありません。とにかく多くのマティス作品を見ることで、「ああ、そうか」と少しずつジャッジできるようになってきます。感覚的な話ですが、「見る力」が蓄えられていくんです。
つまり、その作品の正体がわからなければ、どこを修復していいのかもわからない。それがわかるようになるためには、何よりもまず「見る」ことが大事です。修復自体は科学的なものですし、そのメカニズムも技術も、学校で学ぶことができます。でも、繰り返しになりますが、この仕事は技術だけではできません。美的判断力も磨かなければ、ゴールは見えてこないんじゃないかと思います。
──森さんは、そもそもなぜ修復士を目指したのですか?
大学時代は、日本で美術史を専攻していました。同時に、自分でも絵を描いていましたが、文献をたくさん読んで歴史を辿る作業はあまり得意ではなく、次第に、より物質的な側面のある修復の世界に惹かれていきました。そして留学も考えていたので、卒業後はベルギー・ブリュッセルにある国立ラ・カンブル視覚芸術高等専門学校で修復を学びました。この学校には、建築科や美術科のほかに修復科もあったんです。
──本格的に仕事を始めたのは、日本に戻ってからですか?
そうです。日本に帰国したのは39歳のときで、その年に工房を立ち上げました。
作品から感じる歴史──絵画を修復する過程で
──これまででもっとも印象に残っている仕事は?
初期の仕事で特に印象に残っているのは、展覧会でのクロード・モネ《印象・日の出》の点検の仕事です。額のガラスが汚れていたので、絵を額からとり出すことになったんです。
──モネの《印象・日の出》といえば名画中の名画。額から出す機会というのはめったにない経験ですね。
作品を額から出して、絵の表面だけでなく側面や裏側、木枠などまで調べると、モネがこの作品をどんな絵具を使って、どのように描いたのかがわかるんです。ホテルの窓から夜明けのル・アーブル港を描いたということは知られていましたが、額から出してくまなく見ていくと、モネが、生乾きの絵の具の上にすばやく絵の具を塗り重ねる「ウエット・オン・ウエット」という手法で、かなり短時間でこの油絵を仕上げていたことがわかりました。
ちなみに、晩年のモネの代表作である《睡蓮》は、これを描いた当時、モネはすでに老齢で体力がなくなっていたため、「ウエット・オン・ウエット」ではなく「ウエット・オン・ドライ」という絵具を乾かしてから塗り重ねる手法を採りました。《印象・日の出》の額を外して見たからこそ、《睡蓮》の技法との違いがリアルにわかり、とても興奮しました。
──森さんにとっての歴史的発見とも言えますね。
私は普段、どちらかというとボーっとしているんですが、仕事で作品を前にすると目が覚めるんです(笑)。その面白さがあるから、この仕事を続けられているんだと思います。
──ほかにも仕事の楽しさを感じるときは?
前出の「マティス展」のためにポンピドー・センターのスタッフと仕事をしていたんですが、彼らと修復について対面で議論するのは本当に楽しかった。今はオンラインで実際に顔を合わせることなく仕事ができる時代ですが、人間同士が直に会って話し合うという経験には、オンラインでは手に入れられない価値があります。人間と人間の意見や感覚の交換こそ、この仕事の醍醐味だと思います。
──ゲルハルト・リヒターなど現代アート作品の展覧会コンサヴェーション(作品点検など)も多く手掛けられています。古典作品を修復するときと、技術的な、あるいは心持ち上での違いはありますか?
現代アートにもいろいろありますが、たとえばリヒターの作品を見ると、彼が美術史をよく学び、そこから得たさまざまな要素を自身の作品に取り入れていたことがわかります。絵の具の重ね方にしても、モネなどの印象派の作品を本当によく勉強していて、それをアップデートしています。
アーティストは、同時代からのインスピレーションだけで制作しているわけではないんです。この仕事では、リヒターが過去の美術をどう解釈したか、あるいは過去の作品そのもの、その色彩や形状をどのように見てきたかということが、よく感じられました。現代アートは多様です。古典と現代というふうに区分して見ることは、あまり意味がないと思います。
──ところでここ数年、環境活動家が美術品を攻撃する「アートアタック」が波紋を呼んでいます。どのようにこの問題を考えていますか?
活動家たちはよく検討して、アタックする絵画を選んでいます。必ずガラスのある絵画を選んでいるので、絵画に直接ものを当てるよりは実害は少ないのです。ただ、だからといって美術品を傷つけていい訳ではもちろんない。一方、昔は絵画はガラスで保護されていなかったので、破られたり切り裂かれたりした作品も多かったんです。もちろん、一般の鑑賞者にはわからないように修復されてきましたが、紫外線で見ると傷があるんです。その点、今は絵画をアクリルなどで保護するのが一般的なので、作品の安全は確保されますが、ガラス越しに見るので質感を感じ取ることは難しくなってしまいます。どちらがいいか、簡単には判断できない問題ですが。
──今後の絵画修復業界はどうなっていくと思いますか?
今の日本は、アメリカやイギリスに比べて美術館などに保存修復士としての職位が少ないという現状があります。なので、この仕事をしている方は、個人で活躍したり、工房を立ち上げたりといった方がほとんどです。こうしたわれわれを取り囲む状況も、仕事の内容も少しずつ変わっていくと思います。ただ、美術品をモノとして調査・修復する仕事は、モノがある以上、今後も変わらず必要な仕事だと思います。
Text: Naomi Yumiyama Photos: Miyu Terasawa Editor: Yuya Yamazaki