21世紀の「健康」を支えるのはアートだ!【アートと社会の方程式 #1】

いま、アートは社会とどのようにつながっているのだろうか? 世界中のイノベーション・リサーチを起点に企業のブランド開発を手がけるHengeのファウンダー、廣田周作がアートと社会の“方程式”を解き明かす本連載、初回は「美術館とウェルビーイング」をテーマに、美術館が医学研究をもとにどうやってアートと健康を紐付けようとしているのか読み解く。

Photo: REUTERS/Aflo

いま、アートが社会や人間へ及ぼす影響や、その有効性が注目されています。本連載「アートと社会の方程式」は、これからのアートが社会とどのように関わり、どのような価値をもたらしうるのか考えていくもの。第一回は「アートと健康」をテーマに、健康へのフォーカスを進めている美術館や博物館の動きを掘り下げていきたいと思います。

言うまでもなく「美術館」とは美術品を収集・保管・展示する施設を指しますが、近年はその役割も変化しつつあります。ミュージアムショップの設置やカフェ/レストランの運営、あるいは子ども向けワークショップの開催をはじめ、美術館は多くの機能をもつようになり、さまざまな目的をもった人々が集まる場となっているからです。こうした動きを経て、近年社会における美術館の役割も変わろうとしています。

とりわけ現在美術館が注力しはじめているのが、健康やウェルネス、ウェルビーイングに関わる取り組みです。近年アートとウェルビーイングに関する研究が進んでいったことで、美術館/博物館が積極的にウェルビーイングを施策のなかに取り入れているわけです。

アートは健康にロバストなインパクトを与える

以前からアートと健康に関する調査や研究は行われてきましたが、なかでも大きな影響力を与えたのが2019年11月に発表されたWHOによる報告書『What is the evidence on the role of the arts in improving health and well-being? A scoping review』です。このレポートのなかで、WHOはアートが健康に寄与すると結論づけています。

これまでもさまざまな地域や自治体でアートとウェルビーイングをつなげるような取り組みは行われていたのですが、必ずしも両者の関係が決まったガイドラインのもとで定義づけられているわけではなく、ときには関係性が曖昧なものもありました。アートの有効性が信じられている一方で、一貫した政策へ落としきれないことが問題となっていたんですね。

そんななか、WHOのレポートはこれまでの研究から得られたエビデンスから「アートは精神と身体双方の健康にロバストなインパクトを与える(a robust impact of the arts on both mental and physical health)」と言い切ったことでアートと健康をつなぐような流れを加速させたと考えられます。このレポートは約900本の文献を参照したもので、これまでも言及されることがあった精神疾患との関係性をはじめ、非伝染性の疾患や神経疾患の予防や治療効果の有効性にも言及されています。個人や地域、国レベルでアートと健康をしっかりと結びつけていくことがレポートのなかでも奨励されており、実際にこのレポートを経て美術館や自治体はもちろんのこと、政治家もアートを政策に落とし込みやすくなったと言われています。

WHOのレポートは、これまで行われてきた研究を統合し構造化することで統合的なストーリーを描いたところが面白い点だと言えるでしょう。病気の“予防”になることは直感的にもなんとなく理解できますが、神経痛を和らげるなど「治療に効果がある」と証明されたのは非常に面白いですね。

Photo: Benjamin Elliott/Unsplash

歌やダンスの効能を問う研究も登場

もちろん、これまでの研究でもさまざまな取り組みが行われてきました。たとえばキングス・カレッジ・ロンドンは20年にわたってアートと健康の関係性に関する研究を進めています。2012年には研究者と臨床医を含めた専門チーム育成への投資を行い、2014年には「芸術、健康、ウェルビーイングのための全政党議員グループ(The All-Party Parliamentary Group for Arts, Health & Wellbeing, APPGAHW)」を結成しています。同年にはCultureCase.orgというウェブサイトを立ち上げ、アートや文化が健康とウェルビーイングに与える影響について、世界中からレビューを集める取り組みを進めています。

APPGAHWが2017年に発表したレポート『Creative Health: The Arts for Health and Wellbeing』は、両者の関係について全国的な意識の高まりを調査し、政策や実践を進めるための提言を行うものとして注目されています。そして2019年にキングス・カレッジ・ロンドンはユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)とともに新たな研究プロジェクト「SHAPER」を結成しました。

これは史上最大規模の研究グループとされており、身体的・精神的健康に対するアートの影響を論じるものです。医学研究の支援などを行う民間団体Wellcome Trustから200万ポンド(現在のレートで約3.6億円)の助成を受けたことも大きな話題となりました。その後も2021年に同プロジェクトはBreathe Arts Health Researchとともに、COVID-19の感染拡大に伴うロックダウンによって対面セッションを行えない女性たちに向けたオンラインプログラム「Melodies for Mums」を発表するなど、活動を続けています。

もっとも、キングス・カレッジ・ロンドンのプロジェクトにおける「アート」は絵画や彫刻などに限らず、歌唱やダンスを含むものでもあります。「Melodies for Mums」のような産後うつに対する歌唱の研究や、パーキンソン病に対するダンスクラスの有効性、美術館訪問の有効性など、広範なテーマを扱いながら、ウェルネスやウェルビーイングへの寄与はもちろんのこと、病気の治癒にも貢献する可能性を研究している点がその特徴といえるでしょう。

「Melodies for Mum」は10週間の対面式グループ歌唱プログラム。週1回のセッションを通じて、感情的・精神的なウェルビーイングの向上が図られている。VIDEO COURTESY OF BREATHE ARTS HEALTH RESEARCH

20世紀は運動、21世紀は文化

こうした動きに後押しされるようにして、美術館がウェルネスやウェルビーイングを取り入れる動きも進んでいます。比較的早い段階から施策に取り組んでいるのは、カナダのモントリオール美術館です。同美術館は2018年にカナダ医師会(MdFC)と提携し、患者の回復を促進する手段のひとつとして、美術館への訪問を医師が処方箋に書けるようになりました。薬を出すのと同じように、美術館へ行くことを、医師が治療の一環として患者に推奨できるようになったわけです。

このプロジェクトの第一段階を通じて、モントリオール美術館の常設展と企画展への入場チケット(大人2名と17歳以下の子ども2名まで入場可)を医師ひとりあたり50枚まで処方箋として発行できるようになりました。美術館の訪問が「処方」として扱えるようになったことはもちろん、患者本人だけでなくその家族も入場できることで市民と文化の関わりも促進されたといえそうです。

「20世紀における運動のように、21世紀には文化が健康へ寄与することになると私は確信しています。スポーツがフィットネスへ貢献したように、文化的な体験が健康とウェルネスへつながっていくのです」

当時同美術館のチーフキュレーターを務めていたナタリー・ボンディルはプロジェクトの発表に際し上記のように語っていました。現代のわたしたちにとって運動と健康の結びつきは疑いようのないものだと思いますが、フィットネスという言葉が健康とつながる重要な概念だとされたのは20世紀のことです。薬だけではなく運動も重要だと言われるようになり、運動を通じて健康を促進するような流れが生まれたわけですよね。同じように、21世紀は文化と健康の結びつきが強まっていくとしたら面白いですよね。

13,000平方メートルの展示スペースを誇るモントリオール美術館は、カナダ最古の美術館として知られている。Photo: Look/Aflo

美術館がウェルビーイングへ注力

カナダ医師会の副会長エレーヌ・ボワイエは『Montreal Gazette』誌において、こうした取り組みは副作用が生じない処方であり、美術館の訪問はコルチゾールとセロトニンのレベルを高め、ホルモンの分泌を促すと主張しています。運動によってもホルモンは分泌されますが、高齢者になると運動すること自体が難しくなっていくもの。他方で美術館は年齢を問わず訪れられるため、高齢者に対しても処方できる点が魅力的だと考えられます。

モントリオール美術館とカナダ医師会の取り組みは、ほかの国や地域にも影響を与えています。2022年にはベルギー・ブリュッセルのブルグマン大学病院の研究チームが6カ月間の試験的プロジェクトを開始し、同病院の患者は、友人や家族と一緒にブリュッセルの文化施設を5回まで無料で訪れられるようになりました。これは薬物療法やセラピーといった既存の処方に加えられるもので、比較的軽度の燃え尽き症候群やうつ病、不安症を対象としたものだそうです。

他方で、フランスではパレ・ド・トーキョーがアートを通じたウェルビーイングへの貢献やソーシャルインクルージョンを目的としたケアセンター「HAMO」をつくろうとしています。700平方メートルの敷地内にはワークショップやミーティング、アーカイブのためのスペースが設けられており、定期的にウェルビーイングに資するプログラムが実施されていくそうです。

具体的なプログラムの内容はまだ明らかにされていませんが、精神科医やアートセラピストといった専門家たちがクリエイティブなアクティビティやウェルビーイング、ヘルスケアに焦点をあてたワークショップを開催するとされています。アートセラピストが常駐するウェルビーイング施設が文化施設の中につくられるのは初めてのことだそうです。

ヨーロッパ最大規模の美術館のひとつとして知られるパレ・ド・トーキョーには、HAMOのみならず、ギフトショップやレストランなどさまざまなスペースが設けられている。Photo: HEMIS/Aflo

美術館は社会へ開かれてゆく

もっとも、現時点ではすべての国でこうした取り組みが進んでいるわけではありません。たとえばイギリスではそもそも無料で入れる美術館が多いので入場券を処方する仕組みは広がりませんでしたし、それぞれの国における美術館やアートの位置づけによってその取り組みの内容も変わっていくはずです。あるいは、アートとウェルネスは古くからつながっていると考えることもできるかもしれませんが、西洋医学やサイエンスの領域のなかで、アートの効能が測定可能なものとして扱われ、制度化されたことは大きなインパクトをもっているといえるでしょう。

アートと健康の関係が研究されていくと同時に、美術館が従来の役割を超えて市民のウェルネスやウェルビーイングにも貢献する場とされるようになった背景には、コロナ禍の影響もあるはずです。実際にブリュッセル市のプログラムは、ロックダウンによって失われてしまった社会のつながりを取り戻すことを目的のひとつとして掲げており、文化施設を社会へ再び開いていくことが期待されています。

特に日本では、良かれ悪しかれ美術館は社会から隔絶された特別な場として捉えられることもあったかもしれませんが、研究を通じてアートと健康のつながりが分析・言語化されていくなかで、むしろ美術館こそがアートと健康をつなぐ重要な拠点となっていくことも考えられます。これからの美術館は、測定可能な役割を担う場所として、社会にもっと開かれていくのです。

Edit & Text: Shunta Ishigami

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