訃報:ミニマリズムを率いたアーティスト、桑山忠明が死去
ニューヨークを拠点に、メタリックで静謐なモノクロ作品で高い評価を獲得してきたアーティスト、桑山忠明が死去したことをアートフォーラム誌が報じた。91歳だった。
1932年に名古屋で生まれた桑山忠明は、東京藝術大学で日本画を学んだ後、1958年にアメリカに移住。抽象表現主義の黄昏と、ポップアートとミニマリズムの黎明期の中、ダン・フレイビン、サム・フランシス、ドナルド・ジャッド、ケンゾー・オカダ、フランク・ステラなど、同時代のアーティストらと親交を持った。1961年には、当時の気鋭の才能をいち早く紹介していたニューヨークのグリーンギャラリーで個展を開催。このとき発表された《Untitled: Red and Blue》をはじめとする抽象画で、桑山は和紙で包んだ板の上に粉絵の具を膠で溶いた絵の具を塗り、日本画からの脱却を試みた。
その後、60年代半ばには独自に作ったメタリックの溶剤を用いたスプレーペイントを開始、80年ごろには油彩へと関心が移り、その後もベークライト、マイラー、チタンなど様々な材料やアプローチを実験しながら作品を進化させてきた。
1964年、アート・イン・アメリカの名物企画の一つである「New Talent」に選ばれた際、桑山は同誌8月号にこんな言葉を寄せている。
観念、思想、哲学、理性、意味、作家の人間性さえも、私の作品には一切入り込まない、そこにはただ芸術そのものがあり、それにつきるのである。(Ideas, thoughts, philosophy, reasons, meanings, even the humanity of the artist, do not enter into my work at all. There is only the art itself. That is all.)
また、2021年9月から2022年2月にかけて天王洲のWHAT MUSEUMで開催された大林コレクション展「Self-History」に合わせて行われたインタビューで、桑山はアーティストとしての信念を以下のように語っている。
「やっぱりね、この世になかったものを生み出さなければいけない。アーティストというのは、作り出すものなんです。(中略)作るものがなくなるということは絶対にないと思います。(中略)でも、前と同じことを続けていては意味がない。やっぱり進まなければいけない、なかったものを作り出すというのは」