シュルレアリストたちが目指した「革命」とは。政治との関わりを紐解く
「革命のためにさまざまな陶酔のエネルギーを獲得すること。シュルレアリスムの全ての書籍や活動は、これを中心に動いている。それこそが、この運動を最も特徴づける企てと言えるだろう」
──ヴァルター・ベンヤミン「シュルレアリスム:ヨーロッパ知識人層の最後のスナップショット」
一般的に、シュルレアリスムから連想されるのは主に視覚的な現象だ。この運動が始まって1世紀が経過した今でも、シュルレアリスムといえば、サルバドール・ダリやルネ・マグリットを筆頭とする、この運動の最も著名な画家の作品とほぼ同義とされている。彼らの絵と同じくらい有名なのは、フロイト心理学への傾倒だろう。フロイトの心理学は、治療の道具としてではなく、無意識の奥底にある抑圧された衝動や欲望を探るための手がかりとして使われた。それに比べ、今日ではあまり知られなくなっているのが、シュルレアリスムとマルクス主義政治の関係だ。その関係は、情熱のこもったものでありながら常に緊張をはらみ、結局は失敗に終わっている。
シュルレアリストの最初期の活動は文学に関するものだった。フィリップ・スーポーと、シュルレアリスム運動の指導者だったアンドレ・ブルトンは、「自動書記」の実践によって構文や超自我の監視下から思考を解放することを目指した。シュルレアリストたちが集団として試みていた他の実験と同様、これは手段であって目的ではない。ブルトン、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、ピエール・ナヴィルといった運動の創始者たちは、パリ・ダダの残照をより体系化された運動に構築し直すことで、社会に対する全面的な反乱を目指していた。彼らが企てたのは、性的抑圧やブルジョア的な道徳観、国家主義的神話、宗教的ドグマ、そしてそれらを促進・維持する言語学的な拘束を根底から覆すことだった。
「シュルレアリスム革命」と「革命に奉仕するシュルレアリスム」という、2つの機関誌のタイトルが示しているように、革命はこの運動にとって付随的な比喩ではなく、推進力であり究極の目的だった。それを達成するため、シュルレアリストたちは運動の形而上学的な野心を、徐々に、断続的に、そしてしばしばぎこちない形でマルクス主義的唯物論と融合させるようになったのだ。
なんといっても、1917年のボルシェビキによる帝政ロシアの転覆という形で、マルクス主義は、少なくとも一度は既存の秩序に対する革命に貢献していた。シュルレアリスム運動の発足を告げる宣言の中では、「夢の全能性」とともに、「私欲のない思考」が、運動の代表的指針だとされていたが、それよりも共産党の信条が優先されることが度々起きるようになった。ブルトン自身も、1927年にフランス共産党に入党。在籍したのは短期間だったが、シュルレアリスムが掲げる「全面的な破壊」の理想を、革命的マルクス主義の全体主義に適合させようとした。だが、それが可能だというのは彼の幻想に過ぎず、この実験は各方面から反感を買うことになる。
しかし、この試みの失敗こそ、20世紀のカルチャーポリティクスの歴史における重要な一章として注目に値する。それは、今日広く流布している、無害化された商品としてのシュルレアリスムよりも、はるかに複雑なものだ。美術史の殿堂入りを果たした作品群の影に隠れてしまっているが、シュルレアリスムには別の一面があった。それは、反ファシスト、反植民地主義を訴えるアクティビストとしての側面だ。たとえば、ブルトンはトロツキーやディエゴ・リベラと協働し、多くのメンバーはスペイン内戦に関与している。さらに、定量化はしにくいものの、実存主義やシチュアシオニスト(*1)理論への貢献も挙げられるだろう。
ある意味、シュルレアリスムは、その影響力を拡大させ、ついには世界の隅々まで浸透すると同時に衰退したと言えるだろう。表面上はスキャンダラスな作品が世界中の美術館に展示されるようになって、その視覚的な方法論は後期資本主義文化に速やかに吸収されていった。アンゼルム・ヤッペの研究書『ギー・ドゥボール』(1992/99)によれば、この運動の第二次世界大戦後の衰退は「残酷なまでに明らかだった。なぜなら、ブルジョワ的芸術の神殿においても、広告の世界においても、シュルレアリスムが歓迎されるようになっていたのだから」
シュルレアリスムの即興的な要素は、当時台頭していた、一般に非政治的とされるアメリカの抽象表現主義の中に吸収されつつあった。ブルトンはまさに同じ時期、1952年に「当世にはびこる体制順応的な考えとの最終的な決別」を宣言している。しかし、彼の言葉は後進の世代には響かなかった。シチュアシオニスト・インターナショナルの前身であるレトリスト(*2)のグループは、その機関誌「ポトラッチ」で、「アンドレ・ブルトンやジョセフ・マッカーシー(*3)のようなブルジョアの審問官」と非難している。
シチュアシオニスムの最も辛辣な理論家であるギー・ドゥボールは、1958年にシュルレアリスムを評して「徹底的に退屈で反動的」であり、「ブルジョアの無力さ」と「芸術的ノスタルジー」の両方に囚われていると評している。実のところ、ブルトンは精神的・社会的解放の手段としての視覚芸術への愛着を捨てず、1960年まで展覧会の開催に協力していた。
その一方で、ブルトンは同じ年に「121人宣言」に名を連ねている。「アルジェリア戦争における不服従の権利に関する宣言」という副題が付けられたこの宣言のもと、121人の知識人がアルジェリア独立のための不服従を擁護。これは、以後10年間のフランス左派の活動を先取りするものだった。ブルトンらのアクティビズムは、やがて学生運動や新左翼によるアジテーションに取って代わられ、急進的な政治の領域でシュルレアリスムは時代遅れになっていく。それでも直接的な行動のインパクトは強く、その余波は今も美学を超越して存在している。
フロイトとマルクスを融合しようとしたフランクフルト学派の試みの中には、それ以前のヴィルヘルム・ライヒによる試みと同様に、シュルレアリストによる先例を見出すことができる。特に顕著なのは、一方で実証主義に対抗しながら、他方ではファシストの神秘主義にも対抗しようとする傾向だ。共産主義は、階級間の対立がない社会的ユートピアを約束するが、個人の非物質的なあこがれや欲望はどうなるのか? また、集団的な儀式や愛国心という万能薬とは別の、人間が持つ神話への希求はどうなのか?
メディア論の研究者で活動家でもあるステファン・ダンコムは、2007年の著書『Dream: Re-imagining Progressive Politics in an Age of Fantasy(夢:ファンタジーの時代における革新政治の再考)』の中で「ファンタジーとスペクタクルはファシズムの所有物となった」とし、左派に対して「人々の夢を重んじる政治を構築」するよう呼びかけている。彼がこう語る時、意図的かそうでないかは別として、シュルレアリスムに依拠している。
植民地の文化史に関する現在の言説や、今も残る人種差別的な遺産にも、シュルレアリスムの残響が見出せる。ロンドンのテート・モダンで開催中の「Surrealism Beyond Borders(国境を越えるシュルレアリスム)」展で強調されているように、この運動の国際的、そして反帝国主義的な志向は、キューバからカイロ、日本にまで分派を生みだした。20世紀前半のヨーロッパの前衛芸術家集団の中ではおそらく唯一、設立当初から積極的に反植民地主義の立場を取り、一貫してそれを維持したグループだったろう。
シュルレアリスムが政治の領域に進出したきっかけは、1921年から27年にかけての第三次リーフ戦争だった。フィリップ・ペタン元帥がモロッコのベルベル人に加えた軍事攻撃に反発したシュルレアリストたちは、共産党と共同でリュマニテ紙にこれを批判するエッセイを発表。フランスの植民地博覧会のボイコットを先導した12人のシュルレアリストは、「殺人的人道主義」(1932)という論説の中で次のように宣言している。
「ヨーロッパを解体し、アフリカをミンチ肉のように粉砕し、オセアニアを汚染し、アジアの全域を荒らしながら醜く膨れ上がったフランスにおいて、我々シュルレアリストは、これまで延々と続いてきた植民地主義による帝国主義戦争を、内戦に変えることに賛同する。我々はプロレタリアートとその闘争のための革命に精力を注ぐことを決意し、植民地問題、ひいては人種の問題への立場を明確にする」
12人の署名者の中には、ブルトンやポール・エリュアール、ルネ・クルヴェルやイヴ・タンギーのような有力者と並んで、マルティニーク出身の作家で、妹のシモーヌとともにシュルレアリスム初の黒人メンバーとなったピエール・ヨヨット(1900年頃-1940)がいる。彼らの同国人で、ネグリチュード運動(*4)の共同創設者であるエメ・セゼールは、1967年のインタビューの中で、シュルレアリスムは「フランス語という言語を爆破した武器だった。それは何もかもを揺るがした」と詩人のルネ・ドゥペストルに語っている。
シュルレアリストたちの関心は、「人種問題」だけでなく、植民地主義に対する文化的・政治的闘争にあり、彼らは自分たちの採用していた戦略を、有色人種の前衛グループにも推奨した。「植民地問題」をより広い階級闘争に結びつける方法論は、アントニオ・グラムシの「南部問題」をめぐる議論から、アフリカやアジアにおける脱植民地化運動まで、さまざまな言説との共通点を持ち、また、それらを先取りするものだった。
その一方で、大多数が白人だったシュルレアリストたちは、比喩的にも文字通りの意味でも、「原始的」なものを不当に我が物にしていた。ブルトンの個人コレクションには、アフリカやオセアニアの仮面や彫刻が無数にあり、彼はさまざまな文書や展覧会でその「野蛮」な素晴らしさを宣伝している。マックス・エルンストやアルベルト・ジャコメッティのような著名なシュルレアリストたちも、儀礼の道具などで使われている表現を拝借し、本来の用途や起源を無視して、形だけ自らの作品に取り入れている。
こうした主流派のシュルレアリストたちに比べれば、ドキュマン(Documents)誌の周辺にいた「反体制的」な一派は、異文化に対してもう少し深い見方をしていたと言える。ブルトンの強権的な姿勢に反発したジョルジュ・バタイユやミシェル・レリスなどが中心となり、人類学や民族学の研究を用いて、暴力、犠牲、神聖さという非合理の力を探究していたのだ。だが、こうした解放的な力に対する称揚は、本来それを実践していた(不特定多数の)人々に向けられるのではなく、フランスの知識人の仲間うちで共有されたにすぎない。ヨーロッパのシュルレアリストたちは、非西洋の無名の職人たちを称賛することで、彼らの代弁者となり、来るべき非ブルジョア世界の預言者を自称したのだ。
同じく問題なのは、性に対する態度だ。彼らは、家族や一夫一婦制という窮屈な制度からの解放を訴えていたものの、それは男性目線で異性愛的な、従来の規範に則った視点に立脚していた。同性愛嫌悪に囚われていたブルトンの因襲的な考えを反映し、シュルレアリスムの性規範への挑戦は、同性間の欲望を排除するものだった。また、女性アーティストも数多くこの運動に加わるようになっていったが、男尊女卑的な傾向を覆すことはできなかった。なぜなら、運動に参加していた実際の女性である彼女たちの存在はさておき、「女性」という美的カテゴリーは、呪術的なフェティッシュ(物神崇拝)として機能していたからだ。
女性は未開の自然に近い「原始的」な存在であり、合理主義的(かつ無味乾燥な)知性よりも、原始的で身体的な直感が備わっているとされた。女性のシュルレアリストは、より高い霊的能力を備えるとみなされたり、そうした力の象徴として扱われたりしたとしても、男性のシュルレアリストのような社会的、職業的権力を得ることはなかった。ブルトンが目指した性革命の「全面的な転覆」は、その前提において全面的ではあり得なかったのだ。
それでもなお、シュルレアリストたちが信じていたのは、個人の解放を目指す運動は、集合的な解放につながるということだ。彼らの考えでは、現実と夢の間の距離を埋める詩人や芸術家は、性別や人種に関係なく、全ての人に心の充足感を得る手段を与える。どんなにささやかな方法であっても、精神的に貧しくなった近代を再び輝かせることは潜在的に政治的な行為だと考えたのだ。このような行為の最初期のものは、物質よりも心に働きかけるものだった。学者で作家のモーリス・ナドーは『Documents Surréalistes(シュルレアリスト文書)』(1948)の中で「シュルレアリスム革命の直接的な意味と目的は、物理的で明白な秩序を変えることではなく、人々の心の中に興奮を生み出すことだ」と主張している。
だが、トロツキーが1925年に発表したレーニンの伝記のフランス語訳を読んだブルトンは、それに心を奪われてしまう。心理的扇動という漠然とした概念は、完全な形ではないものの、次第に国際共産主義運動、特にスターリン主義と決別した一派のものと結びついていった。1934年の講演「シュルレアリスムとは何か」の中でブルトンは、シュルレアリスムは「プロレタリア革命による人間の開放」のための基礎を築いたと述べている。これについて、美術史家のロバート・S・ショートは、1966年に書かれた重要な論文「シュルレアリスムの政治 1920-36年」のなかで、次のように述べている。
「ファシズム、ブルジョア的な道徳規範、死刑、報道、精神病院からプロスポーツにいたるまで、シュルレアリスムが反旗を翻した対象は共産党のそれと似ていたが、その範囲は共産党をはるかに超え、社会構造のあらゆる分野にわたった」
シュルレアリストたちは、明確にマルクス主義的な立場を取っていたにもかかわらず、正統派の共産主義者たちからは冷ややかな目で見られていた。それは、ブルトンの露骨なトロツキー主義的スタンスだけが理由ではない。個人のエロティシズムの力を用いて社会の中にユートピアを実現しようとするブルトンの「内的モデル」は、個人の欲望を社会的利益に従属させる共産主義の本質に反していると、党員たちは考えていたのだ。
シュルレアリスト自身が認めているように、彼らの目指した革命は「主観的理想主義」に基づいていた。画家のアンドレ・マッソンは、「シュルレアリスムが、もし個人主義を集合的に経験することでないとしたら、それはいったい何だろう?」と問いかけている。ブルトン、アラゴン、エリュアールはそれぞれ別のところで、自分が好きな活動は「眠ること」、つまり夢を見ることだと宣言している。弁証法的唯物論とはかけ離れているこの指向は、単に社会主義を願望したり想像したりするのではなく、実際にそれを建設せよという命令に対する唯我論的で反革命的な裏切りとも解釈されかねない。
また、ブルトンは社会主義的な理想を説くのは得意だったが、フランス共産党支部から与えられた仕事に関しては無残に失敗している。イタリアのガス産業に関する統計を報告書にまとめるよう指示されたものの、その職務を果たそうとさえしていない。1933年までには、彼を含むほとんどのシュルレアリストは党を除名されている。
その後、彼らは自分たち独自の問題を追求した。たとえば、シュルレアリストが公言していた夢への傾倒は、調査研究として形になっている(彼らが発表した無数の公式調査の一つだった)。虚無的なアナキズムと急進的な個人主義を標榜するダダの中から生まれながらも、シュルレアリスムは、生産主義ではないにしろ、より生産的な活動に力を注ごうとした。その中には、前衛雑誌というよりは科学雑誌のような定期刊行物に掲載されていた夢分析がある。単なるボヘミアンのたまり場ではなく、真面目な職場として機能していた「研究局」が、こうした記事をまとめた機関誌「シュルレアリスム革命」を編集していた。
シュルレアリスム運動は共産党と対立しながらも、共産党の観念的で不寛容な姿勢を真似ることになる。運動の長い歴史の中で、ブルトンはさまざまな人物を追放、破門した。彼は1934年の時点においても、自らの講演「シュルレアリスムとは何か」の中で、シュルレアリスムの主要な関心事の一つ目は意識と無意識との関係の探求で、二つ目は「我々が追求すべき社会的行動」だと述べている。アラゴンは結局、シュルレアリスム運動のメンバーであることをやめ、共産主義者として行動することを選んだ。だが、前衛芸術の仲間たちと袂を分かちながらも、アラゴンは、彼らが目指すものとの共通項を探し続けた。一方のブルトンは、ナチズムの脅威とスターリン主義の強硬さを批判し、1938年にトロツキーと共著で『自立した革命芸術のために』を発表した。メキシコのディエゴ・リベラもこれに連署している。
「今この時代における芸術の至上命題は、意識的に革命の準備に貢献することだと我われは信じている。しかし芸術家は、解放のための闘いの社会的内容・個人的内容を内面化し、その意味とドラマを自分の神経で感じ取らない限り、また、自ら進んで己の内面世界を芸術的に生まれ変わらせようとしない限り、それに奉仕することはできない」
シュルレアリスムは何年もの間、モダニズムの美的な自律性と、ソビエトの権威が厳格さを増しながら要請するリアリズムの間で難しい舵取りを迫られた。それは危険だらけの道のりで、左からも右からも攻撃されるものだった。
だが、そのジレンマは、多くの点で好都合でもあった。ロバート・S・ショートの考えでは、シュルレアリスムは「議論によってではなく、矛盾によって」前進していた。そして、その矛盾の言語、より正確にはパラドックスの言語は、マルクス主義革命の唯物論的な運用には使えないかもしれないが、その弁証法的なメタファーのためには利用できる。シュルレアリスムがキュビスムのコラージュ技法を取り入れ、その内容と手法を絵画、映画、写真、フォトモンタージュへと広げたこともその一例だろう。フィリピンの活動家で知識人のE・サン・ファン・ジュニアは、「シュルレアリスムとアバンギャルドについてのアントニオ・グラムシの考察」(2003)という記事の中で、「革命のクロノトープ(*5)は本質的に、対照、対立、不均衡を融合した変容のコラージュ、より正確にはモンタージュである」と書いている。
シュルレアリストたちは、イタリアの画家ジョルジョ・デ・キリコの街並みや、マックス・エルンストのコラージュ的絵画のように、本来の文脈から切り離され、新たな枠組みの中で捉えられた物体の持つ暗示力に魅了されていた。シュルレアリスムが時折「デペイズマン」(dépaysement:直訳すると、国を無くすこと、故郷を追われること)と呼んだ、この物理的な切り離しは、意味の破壊の可能性、ひいては社会的・政治的帰結の破壊の可能性を予見していた。自動記述の衝動がイデオロギー的なプラグマティズムとは相入れなかったとしても、不調和──またはカタクレシス(*6)、あるいはパラプラクシア(*7)、およびそれらの同義語──の視覚的帰結は、政治美学の領域において何らかの可能性を秘めていたのだ。
アラゴンがシュルレアリスムから距離を置きつつも、共産主義者だったドイツのアーティスト、ジョン・ハートフィールドによる反ナチス的なフォトモンタージュを「革命的な美」と賞賛したことは偶然ではないだろう。1935年にハートフィールドがパリで展覧会を開いた時期には、共産党の指導者たちはシュルレアリスムに全面的に反対していた。なぜなら、その美学は大衆には響かず、その話法はコミュニケーションの可能性を故意に否定することで成り立っていると考えたからだ。
ハートフィールドはシュルレアリストではない。だが、第一次世界大戦直後のベルリンで彼はダダを取り入れ、シュルレアリスムの手法も数多く採用していた。ナチスのプロパガンダの皮肉と不正を非難するため、彼はマスメディアから切り取ってきた写真を再構成し、視覚的な遊びやイメージの重ね合わせ、縮尺の著しい変更によって、写真のもともとの意図を覆そうとした。絵画的なモダニズムの表現性を否定したハートフィールドは、合理的な共同体を是とする共産主義の側に立っていたが、見慣れたイメージを新たな文脈に置き換える挑発的な作品で、シュルレアリスムのデペイズマン(*8)の手法を取り入れたのだ。
共産主義の雑誌「AIZ(労働者画報)」に掲載された1929年の彼のフォトモンタージュ《Der Schlafende Reichstag(眠る国会議事堂)》では、ドイツの国会議事堂の上に眠そうな議員が座っている。この人物は創造的(かつ革命的)な夢を見ているというよりは、怠惰な居眠りにふけっているように見える。この作品と、牛が草を食む背景にパリのオペラ座が幻影のようにそそり立つマグリットのフォトモンタージュは、根底にある発想としてはそう遠くないだろう。アラゴンは「ジョン・ハートフィールドと革命的な美」(1935)の中で、シュルレアリスムの詩は、「それ自体が目的」となっているが、それと対照的にハートフィールドが作り出すイメージは、「大衆のための芸術(それはすばらしいものだが、解せないほど批判の的となっている)が、どのようなものになり得るかを示唆している」と書いている。
1930年代半ばにはもう、共産主義インターナショナルの中にシュルレアリスムの居場所はなかった。だが、シュルレアリストたちの視界から革命が消えることはなかった。ソビエト連邦が社会主義リアリズムをコミンテルンの公式の表現方法と定めたのと同じ1934年、ヨヨットは、「シュルレアリスムの反ファシズム的意義」という小論のなかで、マルクス主義とフロイト主義の潜在的な相乗作用について見事な考察を行なった。共産主義は経済的困窮からの解放を可能にするかもしれないが、それだけでは不十分で、人々の「精神的な苦悩」につけこんだファシズムのように、「本質的に感情的で、観念的な革命」も起こす必要があるというのが彼の論点だ。
もし、労働者のための解放的、平等主義的、非国家主義的な運動がこうした観念的なニーズに応えないなら、集合的な夢の代用品として作られたスペクタクルを利用する、より専制的なプログラムがそのニーズに応えるだろう。1世紀近く経った今、私たちはヨヨットとその仲間たちが経験したのと同じような政治的苦境に立たされている。世界的なファシズムの脅威が再び民主主義の前に立ちはだかる今、経済的貧困や、それを解決するためのイデオロギーの純粋性を保つことだけが問題なのではない。より大きな問題は、不合理かつ反動的な勢力に再び利用されつつある、人々の心に漂う閉塞感なのだ。(翻訳:野澤朋代)
※本記事は、Art in Americaに2022年4月7日に掲載されました。元記事はこちら。