アートと禅と美と散歩──ハロルド・アンカート × 両足院副住職・伊藤東凌の対話

ACKに合わせて、ベルギーで生まれ育ち、現在NYを拠点に活動するハロルド・アンカートが京都祇園の両足院で日本で初めてとなる個展を開催した。ともに1980年生まれ、両足院の副住職・伊藤東凌とアンカートが、アートについて、美について対話した。

禅寺建仁寺の塔頭寺院・両足院の副住職・伊藤東凌(左)とアーティストのハロルド・アンカート(右)。両足院にて。

ベルギー出身、NYを拠点に活動するアーティスト、ハロルド・アンカートが、ACKの開催に合わせて京都で日本初となる個展を開催した。「Bird Time」と名付けられた本展は、京都祇園にある禅寺建仁寺の塔頭寺院・両足院(1358年建立)を会場に、2017年からアンカートの作品をコレクションしているZOZO創設者でARTnewsのトップ200コレクターにも選ばれている前澤友作率いる現代芸術振興財団が主催を務めた。両足院はこれまでも、KYOTOGRAPHIEほか様々なアートイベントの舞台となってきたほか、ヴァーチャル両足院と題した仮想空間でアート作品を展示するなど、禅の思想を広げる活動の一環として、積極的にアートを取り入れてきた。日本の寺院としては非常にプログレッシブと言えるこうしたコラボレーションを推進しているのは、両足院で生まれ育ち、現在副住職として日本だけでなく欧米各地でも禅教育に注力する伊藤東凌だ。

奇しくも同じ1980年生まれのアンカートと伊藤に今回の取り組みについて話を聞くべく両足院を訪れると、静謐な空間から望む美しい庭園(京都府の名勝庭園にも指定されている)が、雨に濡れて光っていた。アンカートの作品はどこに展示されているのだろうかと見渡すと、まるでずっと前からそこにあったかのように、鴨居と天井の間の欄間にあたる全ての空白(それぞれ横90cm×縦45cmくらいだろうか)が、彼の作品で埋められていることに気づく。アンカートほどの長身ならばすぐに目に入るかもしれないが、そうでもなければ、視点を意識的に上げないとそこに作品があることすら目に入らないかもしれない。床の間に掛けられた二つの作品を含め、それほどまでに控えめな様子で、空間に馴染んでいる。作品を見るというより、作品がわたしたちを見ている──そんなふうにも捉えられる雰囲気だ。

──両足院はこれまでも、KYOTOGRAPHIEほか様々なアートの展示に空間を開放してきました。でも今回のハロルドさんの展示は、従来のように空間全体を用いたような構成ではありません。伊藤副住職は今回の展示をどんなふうにご覧になっていますか?

伊藤:昨年、ハロルドさんが下見のために初めて両足院にいらっしゃったんですが、中に入ってものの15分ほどでこの展示のアイデアを提案してくれたんです。これまでのどんな展示より早かった(笑)。すごいなと思いました。

ハロルド:それには理由があって、アーティスト、とくに絵画を手がけているアーティストにとって「壁」の存在は非常に重要です。壁がないと展示できませんから。しかし両足院を含め、日本の伝統建築は襖で区切ることはできてもそれらを開け放てば一つの大きな空間になるので、いわゆる壁がない。中に入ってすぐにそれについて考えることになったわけですが、そのとき、襖と天井の間にある空間(編注:欄間)に目が留まりました。空間と一体化するようにそのサイズに合わせた作品を制作すれば解決できる、そう思ったんです。

伊藤:ハロルドさんと一緒に何面あるか数えたんですが、33面に作品を飾れることがわかりました。仏教において33という数は聖数とされていて、永遠を意味しますが、それと同数だったんです。

──33枚をたった1年で描き上げたということですね。

ハロルド:はい。私は絵を描くのがすごく早いんです。

──例えば展示するための仮設の壁をつくりそこに掛けることもできたと思いますが、なぜそうしなかったのでしょうか?

ハロルド:伊藤さんから、両足院は日常的に人々が訪れ、瞑想したり禅の思想を学んだりする場所だと聞きました。そうした両足院の役割やそこでの人々の日常の行為が作品によって遮られるのではなく、私のアートを目指してここに来る人もそうでない人も、いつも通りに過ごしながら、たまたまアートを鑑賞することができる、というような状況を作りたかったんです。空間によって作品の見え方は変わりますが、空間よりも作品が優先されるべきであるとは私自身、考えていません。それがたとえギャラリーのホワイトキューブであったとしても、サイズも違えば、それぞれの空間特有の個性がある。それを尊重した展示にしたいといつも思っているんです。

──その意味で今回の展示は非常に成功していると言えますね。作品があまりにも空間に馴染んでいたので、最初、両足院にもともと備え付けられた意匠かと思ったくらいです。

ハロルド:両足院を初めて訪れたとき、入り口にあった木製の丸窓に目が留まりました。私はこれまでも、キャンバス上に丸窓のようなシェイプを描き、その中に自然などのモチーフを描いた作品を制作しているんですが、両足院と自分の作品との偶然のつながりを発見し、丸窓を今回の作品にも取り入れようと決めました。ただ、最初にここを訪れた後に伊藤さんに送ったスケッチでは、背景をもっとカラフルな色で彩っていたのですが、そうすると、やはり絵が目立ち過ぎてしまって空間のリズムを打ち壊してしまう気がして、最終的には両足院の壁の色に近いベージュや淡いブルーなどを採用しました。とはいえ、実際に設営してみないとどんなふうに空間と呼応するかわからないので、いざというときには背景を塗り替えられるよう、今回は画材も持参したんです。

──まるで襖の上にも丸い窓があって、そこから異なる世界へと誘われているような錯覚を覚えます。

ハロルド:そう、それらの窓は、まさに異世界への入り口です。丸窓の中に描いている景色に特別な意味はなくて、現実の体験とイマジネーションが融合したものです。私の作品には、木や炎、氷山といったモチーフが繰り返し登場します。今回も、過去に描いた自然のモチーフなどを繰り返し引用しています。

伊藤:異世界という話が出ましたが、私たちがアーティストとコラボレーションするのは、まさに異なる世界や視点、発想に出会えるからです。禅というものは、そもそも特定の形を持ちません。もちろん、受け継いでいくべき伝統があり、そのための実践にも様々な決まり事があるのは確かですが、思想そのものは非常にフルイド(流動的)です。だからこそ、私たちは自分の境界のようなものをいつも打破していかなければいけない。アーティストたちとのコラボレーションは、まさにそうした境界を自分では想像もできない方向に押し広げてくれる重要な経験となります。今回のハロルドさんの作品や展示方法にも、ものすごくインスピレーションを受けました。これまで誰も、そんな空間の使い方をしてきませんでしたから。

ハロルド:禅の教えというのは、「手放す」ということですよね。自覚しているか否かに関わらず、皆、自分のやり方やこだわりみたいなものがある。それらを手放していくという禅の考え方に、私もアーティストとして学ぶところが多いと感じます。

──ハロルドさんが過去にNYTのインタビューで「何か新しいことをやろうとする考え自体、すごく馬鹿げている(The idea of wanting to do something new is pretty stupid)」と話していたのが印象的でした。「新しさ」はあなたにとって、さほど重要ではないということですか?

ハロルド:全く新しいものなど、この世界にあるのでしょうか? 私は「新しいもの」よりも、他とは「違うもの」に興味があるんです。たとえば、すでにある色と色を混ぜ合わせると違う色になります。目の前に広がる景色もどう切り取るかで違う風景が見えてきたりします。そして、そうした「違うもの」というのは、計画して生まれるものではないと思っています。私は散歩が好きなのですが、決まったルートを歩くことも、ゴールを目指して歩くこともありません。アーティストの仕事も、そういうものだと思っています。

伊藤:私も毎日、1万歩以上歩いています! 歩くことが日々の大切な日課なんです。

ハロルド:まったく同じです! 私はスタジオに行くときに車を運転する以外は、大抵、自分の足で立っています。絵を描くときも、散歩するときも、いつも自分の足を使う。スタジオでアイデアが降りてくるのを待っていても何も浮かびませんが、いつもとは違う道を散歩していたり、寄り道したときに、偶然アイデアが見つかったりする。技術はそれを実現していくために必要なもので、それを学校で教えてもらったりするわけですが、本当にそれを手に入れるためには、日々の実践が不可欠なんだと思います。

──先ほど、ハロルドさんは自分が描く風景や自然のモチーフには特別な意味はないと話していましたが、私たちが今座って話している場所から見えている美しい庭は、ハロルドの目にどんなふうに映っているのか興味があります。

ハロルド:私はいつも、無数の色の集まりとして風景を見ています。何かを描写しようとするとき、多くの人が見ているものの輪郭を線で囲おうとしますよね。でも実際には、「線」なんてものは自然の風景には存在しません。セザンヌなどの画家もそうだったと思いますが、私にはこの庭も多様な色として映っています。

伊藤:すごく面白いですね。

──最後に、非常に漠然とした質問で恐縮ですが、お二人にとって「美しいもの」というのはどういうものですか? 非常にパーソナルな価値観なので、定義はできないと思うんですが。

ハロルド:難しい質問ですね。先ほどの「新しさ」にも通じますが、本当に美しいものって、あらかじめ計画したり設計したり、操作したりすることで生まれるものではないと思います。床に落ちている枯れ葉が窓から吹き込んだ風によって動くさまは美しいし、それが枯葉でなくゴミであっても美しいと感じるかもしれない。ふと窓の外に目をやったときに、二つの雲の関係性に美を感じるかもしれません。でも、美しいものを作ろうとした途端に、美しくなくなってしまう。コントロールしようとしてもできないものだと思います。少なくとも私にとっては。

伊藤:美しいという言葉は、「感動」という言葉に言い換えられるのかなと思うんです。そして、何かを見たり聞いたり触れたりして「感動する」というのは、人間の様々な感情の中でも特に上位に位置するもの。私はよく、様々な悩みや苦しさをどう乗り越えたらいいかと相談を受けるのですが、思うに、身近に美しいと感動できるものがあることは、そうした感情に飲み込まれないための処方箋であり、解毒剤みたいなものだと思います。

Photos: Hirotsugu Horii Text & Edit: Maya Nago

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