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ローマ帝国滅亡の歴史を塗り替える大発見。中央イタリアの畑の中に豊かな文明の跡

13年にわたる発掘調査で、476年に滅亡したとされるローマ帝国が、その末期にも繁栄を保っていたことを示す有力な証拠がイタリア中部で見つかった。

ローマのピンチョの丘から見る夕日と教会のドーム。Photo: Getty Images

2010年以来、ケンブリッジ大学西洋古典学部のインテラムナ・リレナス・プロジェクトは、農耕地だったように見える場所で調査・発掘を行ってきた。しかし、米ポピュラー・メカニクス誌が伝えるところによると、ここには古代ローマ時代に栄えた都市、インテラムナ・リレナスがあった。

インテラムナ・リレナス・プロジェクトのリーダーで、この件の研究リポートを書いたケンブリッジ大学のアレッサンドロ・ラウナロはこう語る。

「私たちが調査を始めたのは、大きな発見の見込みはないとされ、誰も発掘しようと思わないような場所でした。イタリアでは珍しいケースです」

同大学のウェブサイトによると、インテラムナ・リレナスは中央イタリアに版図を広げようとする古代ローマが紀元前312年に設立した植民市で、政治的にも軍事的にもローマとの関係が深かった。

この地域の調査は13年前に、約24ヘクタールの土地を深部レーダーと磁気で測定することから始まった。その研究目的は、「共和制から帝政に至る古代ローマ時代のイタリアで起きた、広範な変化を反映した都市と地方の長期的な関係」とされている。

ラウナロは今回の発見をこう説明する。

「土地の表面には壊れた陶器のかけらがあるだけで、建物の痕跡も何もなかったのです。しかし、私たちが発見したのは人里離れたような場所ではありませんでした。それどころか、900年もの間さまざまな変化に適応し、繁栄した都市だったのです」

インテラムナ・リレナス研究の鍵は陶器だった。ラウナロによれば、この遺跡に他の土地から持ち込まれた輸入陶器がないことから、従来この都市は2世紀までには衰退したと考えられていた。しかし、裕福な人々が使用した輸入品ではなく、一般市民が使用していた陶器に注目した考古学研究者のチームが明らかにしたのは、この場所が紀元3世紀まで繁栄を続け、2000人近くの住民が住んでいたということだった。紀元前46年には、ユリウス・カエサルがこの地を訪れたこともあるという。

インテラムナ・リレナスは、ラツィオ地方とカンパニア地方を結ぶラティーナ街道、そしてリーリ川という2つの重要な交通路が交わるところに位置していた。発掘調査の過程では倉庫と見られる大きな建物も見つかっており、ここが港湾都市であった可能性を示している。また、神殿、3つの浴場、1500人ほどを収容できる屋根のある劇場の遺構も発見された。ラウナロは、「劇場は都市にとって重要なステータスシンボルで、富や権力、野心を誇示するものだった」と語る。

その後、6世紀には廃墟となったが、これはランゴバルド人の侵略に起因すると見られている。別の場所に耕作地を求めた市民はインテラムナ・リレナスから必要な資材を運び出し、残ることを選んだ者と新しい住民は、廃墟を農耕に適した土地に変えるため、かつて街のあった場所を瓦礫や土で埋めた。

近代になり、新しい農法によって埋もれていた遺構に損なわれた部分はあるが、それが中央イタリアの畑の中に眠っていた豊かな文明を発見する一助になったとも言えるだろう。(翻訳:石井佳子)

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