「デ・キリコは誰にも似ていない」── 謎めいた絵でシュルレアリスムに影響を与えた独創性の源泉
夢の中のように現実感のない風景や静物を描いたジョルジョ・デ・キリコ。彼の独特な画風はどこからきたのか。また、その絵画は周囲にどんな影響を与えたのか。4月27日から東京都美術館で開かれる「デ・キリコ展」(8月29日まで、その後神戸市立美術館に巡回)を前に、ほかの誰とも違う作品を残した彼の足跡を辿る。
デ・キリコが描いた「心が見ている現実」
誰もいない街の広場は、人間のありようについて何を語ることができるのだろう? ジョルジョ・デ・キリコは、1911年から1917年にかけて制作した一連の不思議な作品で、その問いを突き詰めていった。当時のヨーロッパで見られたどの作品にも似ていない彼の絵は、パリのキュビストによる高尚な抽象画や、カラフルで力強い動きを追求したイタリア未来派の実験とはまったく異質なものだった。
この時代のデ・キリコの作品は、フランスの詩人で批評家のギョーム・アポリネールから「形而上絵画」と呼ばれた。そして、何らかの現実を表現するのではなく、方向感覚の喪失と当惑、不吉さと掴みどころのなさ、傷心と孤独が同居する夢のような情景を提示する謎めいた絵は、シュルレアリストたちを大いに魅了し、彼らが推進した芸術運動の土台となった。
イタリア・トリノにあるカステッロ・ディ・リヴォリ現代美術館は、デ・キリコの重要作品10点を含むチェルッティ・コレクションを管理している。同館のキャロリン・クリストフ=バカルギエフ館長はUS版ARTnewsにこう語った。
「デ・キリコは、現実を具象的に描写する代わりに、心が現実をどう見ているかを表現した絵を初めて描いた画家です。彼のラディカルさはそこにあります。彼の作品は、どこか遠いところから世界を眺める心の状態を描く、メタ的な具象画と言えるでしょう」
以下、ジョルジョ・デ・キリコの仕事とその変遷を見ていこう。
フィレンツェで受けた啓示が生んだ画風
人の気配のないがらんとした広場の絵で知られるデ・キリコだが、その特徴的なスタイルを確立するまでにはある程度時間がかかっている。1888年にイタリア人の両親のもとギリシャで生まれた彼は、アテネとミュンヘンで絵画を学び、1910年にはフィレンツェに住んでいた。サンタ・クローチェ広場のベンチに座り、ゴシック様式の教会やダンテの像を眺めていた彼に芸術的ブレイクスルーが訪れたのはその頃だ。そのことについて、彼は後にこう書いている。
「あたかも初めてその風景を見るような奇妙な感覚を覚え、心の中に絵の構図が浮かび上がってきました。今でもこの絵を見るたびに、その瞬間がよみがえります。しかし、その瞬間は説明が難しい不可解なもので、そこから生まれた作品もまた、私にとっては謎なのです」
デ・キリコの芸術的覚醒は、自分の心理状態と外界との隔絶に気づいたことから起きたと解釈するのが批評家のマウリツィオ・ファジョーロ・デラルコだ。デラルコは、1982年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された回顧展の図録に寄せた小論にこう書いている。
「目に見えるものをそのまま受け入れず、それを超越していく。それこそが形而上絵画の本質だ」
同じ頃、デ・キリコはドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの著作を読み始め、大きな影響を受けていた。1911年には、弟アンドレア(間もなくアルベルト・サヴィニオと改名。作家・劇作家・作曲家として活動)が暮らしていたパリに転居したが、当時の彼は少し前に患った腸の病気から完全に回復しておらず、フィレンツェで啓示を受けた後も、ほとんど絵を描いていなかった。
そんな中でも、1910年にイタリアで制作した《秋の午後の謎》などの作品を1912年のサロン・ドートンヌに出品し、高評価を受けている。その直後から彼は制作を本格的に再開し、数カ月後には自らのアトリエで30点の絵画を並べた展覧会を開催。それを見たアポリネールの展評によって、デ・キリコは一躍時の人となった。アポリネールは作品をこう評している。
「この若手画家の芸術は内面的かつ頭脳的で、近年台頭している画家たちの芸術とは何の共通点もない。マティス風なところや、ピカソ風なところは一切なく、印象派にもまったく似ていない。デ・キリコの独創性には指摘に値する新しさがあり、彼の非常に鋭く、非常に現代的な感覚は、概して建築的な形で表現されている」
「夢の記述」とも言える独自のスタイル
1911年から1915年まで続いたデ・キリコのパリ時代は、彼のキャリアの中で最も実りの多い時期だと考えられている。彼はしばしば、憂いを帯びた黄色いトーンで街の広場を描いたが、そのほとんどが空虚でひっそりしている。人の気配といえば、長い影が伸びる人物が遠くに数人見えるくらいで、あとはポツンと立つ彫像や、モダニズムの彫刻家コンスタンティン・ブランクーシを思わせる顔のないマネキンが飾られた回廊が無限に続く。
また、彼の作品には、繰り返し登場するモチーフがいくつかある。たとえば、大きなピンクのゴム手袋、塔、煙突、柱廊、時計、大理石彫刻の断片、絵画の中の絵画、時間帯にそぐわない長い影などだ。
20世紀初頭のイタリアの批評家、アルデンゴ・ソフィチは1914年にこう書いている。
「デ・キリコの絵は、今日私たちが『絵画』という言葉で表すものとは異なっている。それは夢の記述だと定義できるのではないだろうか。(中略)ちょうど眠りに落ちようとするその瞬間、私たちの記憶が時として脳裏に映し出す光景の広大さ、孤独、動きのなさ、静止の感覚を彼は見事に捉えている」
こうしたモチーフを組み合わせた奇妙な光景は、何かの予兆のようだ。あるいは、コロナ禍における都市封鎖を予見したかのようにも思える。カステッロ・ディ・リヴォリ現代美術館のクリストフ=バカルギエフ館長は、ロックダウン時に街の様子をこう表現していた。
「今のトリノを歩いていると、まるでデ・キリコの絵の中を歩いているような気分になります。無人の街、誰もいない広場。そこにどんな意味があるのでしょう?」
ニーチェから受けた影響と形而上絵画
第1次世界大戦が始まって数カ月後の1915年、デ・キリコはパリからイタリアに戻り、軍に召集された。北イタリアのフェッラーラに駐屯した彼は、そこでも熱心に制作に励み、1917年頃には同じイタリア人画家のカルロ・カッラと形而上派を正式に設立。カッラは既に、1910年代以降のデ・キリコの画風を自らの作品に取り入れていた。
この形而上派に少なからぬ影響を与えたのが、スイス出身の象徴主義の画家アルノルト・ベックリンだ。物や場所などモチーフの奇妙な組み合わせで見る者を当惑させるベックリンの作品にデ・キリコが出会ったのは、ミュンヘン留学中だとされている。そして、もう1つのインスピレーションの源がニーチェだった。絶大な影響力を持つその哲学的著作、『ツァラトゥストラかく語りき』に感銘を受けたデ・キリコはこう書いている。
「芸術作品が真に不滅なものになるには、人間の限界を完全に超えなければならない。理性や常識を徹底的に排することで、作品は夢や子供の心理的態度に近づくことができるだろう」
デ・キリコはさらに、ニーチェの著作を通じてギリシャ神話にも影響を受けていた。たとえば、英雄テセウスが迷宮に住む怪物ミノタウロスを倒してから外に脱出できるよう、彼に糸を渡したとされるクレタ島の王女アリアドネは、少なくとも7点のデ・キリコ作品で広場に立つ像として登場する。前述したMoMAの回顧展図録でデラルコは、「ニーチェの著作の中で、この神話は知識と結びつけられており、ひいては謎とも結びつけられている」と説明している。その後アリアドネは、デ・キリコに感化された数多くのシュルレアリストたちの題材にもなった。
古典主義への関心とシュルレアリスムに与えた影響
1919年から1980年代初頭までの間、研究者たちの多くは、デ・キリコが同時代の作家よりも古代ギリシャ・ローマやルネサンス美術からたくさんの着想を得たと考えていた。デ・キリコ自身も手紙の中でそのように書いているが、本当のところはよく分からない。もしかしたら、それは自分の芸術をより謎めいたものに見せるための演出だったのかもしれないのだ。実際、デ・キリコが自分の人生や作品について頻繁に嘘をついていたのは有名な話で、たとえば1912年のサロン・ド・パリに出品した際には、出生地をギリシャではなく、かつて暮らしたフィレンツェと記している。
デ・キリコが古典主義を信奉していたという固定観念を覆すきっかけとなったのが、1982年のMoMAの回顧展だ。同展を企画したウィリアム・ルービンは、デ・キリコの芸術をこう解釈している。
「それは古典主義の賛美というより、古典主義に対する批評だと言えます。(中略)古典主義を破壊し、それを裏返しにすることで、彼は現代特有の不安や倦怠感を表現しているのです」
確かに、デ・キリコの作品の多くには目まいがするような視点の移動がある。彼が絵画の中で提示しているのは、幻想的な都市風景というよりも、ギリシャ・ローマ様式の建築を傾斜させたり歪めたりすることで生み出されるどこか不吉で挑発的な描写だ。この点を研究者のローラ・ローゼンストックは、「こうした仕掛けによって、常につきまとう当惑と不安感が醸し出される」と分析している。
シュルレアリストとの決別
デ・キリコはシュルレアリストではなかったが、彼がその芸術運動に与えた影響は絶大だ。そのために、シュルレアリスム運動の準メンバーだったと誤解されることも少なくない。1924年に『シュルレアリスム宣言』を書いた批評家アンドレ・ブルトンは、後にデ・キリコの《トビアの夢》を同運動の象徴として選んでおり、シュルレアリストたちの集合写真の背景にもこの絵が写り込んでいる。ちなみに、2017年にニューヨークのサザビーズで920万ドル(直近の為替レートで約13億8000万円)の値がついたこの絵は、オークションで落札されたデ・キリコ作品の中で最も高額なものの1つでもある。
シュルレアリストのゴッドファーザーとされるデ・キリコだが、その関係は長くは続かなかった。1925年頃にはシュルレアリストたちは彼と交流を断ち、1917年以降に制作された作品を見下すようになる。しかし、デ・キリコは、1978年に死去するまでずっと絵を描き続けた。1940年代以降には、誰もが知るかつてのスタイルで絵を描いては昔の日付を書き込み、コレクターらを混乱させている。
作家性(オーサーシップ)について考えさせられるこうした彼の行為については、ピクチャーズ・ジェネレーション(*1)に影響を与えたと解釈する向きもある。しかし、アーティストや批評家、キュレーターの多くは、シュルレアリストたちと同様、デ・キリコの晩年の作品にはそれほど重きを置いていない。
*1 70年代半ばから80年代かけて台頭した、写真や映像を使った作品で知られるアーティストたち。広告やメディアに溢れるイメージを引用し、作家性や真正性についての問題を提起した。
(翻訳:野澤朋代)
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