身体なき身体、作品なき額縁、用途なき建築。第81回ホイットニー・ビエンナーレに見る新たな潮流の胎動

第81回ホイットニー・ビエンナーレが、ニューヨークホイットニー美術館で開幕した(8月11日まで)。各時代の世相を映し出してきたこの芸術祭に、今回、どんな作品が集まったのか。US版ARTnewsのシニアエディターがレビューする。

ホイットニー・ビエンナーレ2024に展示されたスザンヌ・ジャクソンの作品。Photo: Christopher Garcia Valle for ARTnews

第二の人生が与えられたミニマリズム

その時々のアメリカの姿を鮮烈に映し出すことがホイットニー・ビエンナーレの目指すところだとすれば、今年、その実現は特に難しかったのではないだろうか。ガザをはじめ各地域で起きている軍事衝突への批判の高まりや、保守派主導の議会やポストコロナの不安定な生活に対する国民の怒りを反映しなければならないのはもちろんのこと、11月に控えた大統領選挙がこの国のありようを大きく変え得ることを示す必要があったからだ。

しかし、2024年の企画を行ったキュレーターのクリッシー・アイルズとメグ・オンリは、そうした課題を直接的に扱わず、別の方向へ舵を切ることを選んだ。3月20日から一般公開が始まった今回のビエンナーレでは、声高な政治的主張よりも、身体の流動性について考察したコンセプチュアル・アートに重点が置かれている。結果として、ここ数回のホイットニー・ビエンナーレの中で最も挑戦的で、2017年以降で最高のものになった。

「Even Better Than the Real Thing(本物よりも、もっと良い)」と題された今年のホイットニー・ビエンナーレは、ときに過剰と思えるほど派手な作品を全面に押し出していた前回と前々回とは一線を画し、特にミニマリズムを彷彿とさせる作品が目を引く。ミニマリズムとは、人々の目を楽しませることを拒み、工業製品のような無機質なフォルムを列や格子状に整然と並べたスタイルで知られる芸術運動だ。

チャリス・パーリナ・ウェストン《un- (anterior ellipse[s] as mangled container; or where edges meet to wedge and [un]moor)》(2024)Photo: Christopher Garcia Valle for ARTnews

半透明のスモークガラスを下向きに傾けて、鑑賞者の頭上に吊るしたチャリス・パーリナ・ウェストンの彫刻作品もその1つ。作品そのものと同様、イタリックの書体やスペースを不規則に用いた《un- (anterior ellipse[s] as mangled container; or where edges meet to wedge and [un]moor)》(*1)という長いタイトルも、不可思議で掴みどころがない。


*1 「ずたずたにされた容器のような前方の楕円、あるいは、端と端が接触して楔のようになり、固定(から解放された)状態になる」の意。

この彫刻は、2022年にクイーンズ美術館で開催されたウェストンの個展にも登場していた。そのときはより大きなバージョンの作品が展示室の入り口を塞いでいたが、ホイットニー美術館では展示室の壁の一部を遮断するように設置されている。その様子は、無機質なオブジェでホワイトキューブの一部を切り取ったミニマリストたちを思わせる。

キャロリン・ラザード《Toilette》(2024)Photo: Christopher Garcia Valle for ARTnews

キャロリン・ラザードの《Toilette(トワレット)》(2024)にも、ウェストン作品との類似点を見出せる。これは薬棚を使ったレディメイド作品(*2)だが、薬の代わりにワセリンが詰め込まれている。背中合わせに並べられたキャビネットは、アメリカにおけるミニマリズムの代名詞的存在であるドナルド・ジャッドの冷徹なオブジェの列を連想させる。しかし、日常の保湿ケアに使われるワセリンを入れることによって人間味を加味したラザードの作品は、洗練されてはいるが冷ややかさとはかけ離れたものだ。ウェストンとラザードの作品は、ミニマリズムに第二の人生を与えたと言えるかもしれない。


*2 大量生産された既製品を用いた作品。

「身体なきボディアート」が呈する問題意識

今回のビエンナーレに並ぶ作品の多くは、すっきりしていて、概ね無彩色で、垢抜けている。その代表と言えるのがジェス・ファンのエレガントな彫刻で、彼自身の背骨と脚の筋肉、内臓をCTスキャンして3Dプリンターで成形している。身体のパーツを模した抽象的なオブジェは波打つようなガラスで覆われており、内臓は壁に埋め込まれてほとんど見えない。また、再利用された布に描かれたハーモニー・ハモンドの謎めいたペインティングは、治りかけの傷を覆う包帯を思わせる。白い帯の向こうをよく見ると、燃えるような赤い絵の具が垣間見える場所もある。

ホイットニー・ビエンナーレ2024に展示されたハーモニー・ハモンドの作品。Photo: Christopher Garcia Valle for ARTnews

多くの来場者が利用する中央階段の吹き抜けには、ホランド・アンドリュースの《Air I Breathe: Radio(私が呼吸する空気:無線)》(2024)が展示されている。これは、カラスの鳴き声のような反響音とブーンという重低音で構成されたサウンドアート作品で、アンドリュースが自分の声をエフェクターで加工して作った音が、時に神がかり、時に奇妙に響きわたる。音は階段の中央に吊るされた複数のスピーカーから聞こえてくるのだが、連なったスピーカーは、上から見るとどことなく背骨のようだ。なお、来場者も利用できる美術館の貨物用エレベーター内でも、これの関連作品が流れている。

これらの作品が予感させるのは、新しいボディアートの誕生だ。1960〜70年代には女性アーティストを中心に、自らの腕や脚、性器を画題や素材として扱った作品が数多く制作されていた。今回展示されているのは、それとはまったく異なるタイプのものだが、アーティストの身体と作品が切り離せないことを示そうとしていた当時のボディアートと似た問題意識が、今、再びアーティストの間で共有されるようになっているように思える。

現代版のボディアートでは腕や脚や性器が姿を消し、建築的な形態や布地、あるいは、身体のパーツに似ているだけの日用品へと置き換えられている。もしかしたら、これは身体に関する個人の決定権が失われつつあることへの反応、つまり、人工妊娠中絶を選択する女性の権利を連邦政府が保障したロー対ウェイド判決が覆されたり、(性別移行医療の制限など)反トランスジェンダー的な法律が各地で制定されたりしている昨今のアメリカ社会の流れを受けた変化なのかもしれない。

一方で、これらの作品の表現は意図的に曖昧で、作り手たちは時代性を表す問題を扱うことにはあまり関心がなさそうに思える。彼らの作品は直接的に肉体を表現することなく、いくつもの異なる身体的状態を伝えている。ある意味で、身体のないボディアートだと言ってもいいだろう。

ホイットニー・ビエンナーレ2024に展示されたB・イングリッド・オルソンの作品。Photo: Christopher Garcia Valle for ARTnews

ただし、アーティストたちが作品を制作する上で身体性を排除しようとしているわけではなく、むしろその逆だ。たとえば、カリン・オリヴィエが2021年に手がけた美しい立体作品を見てみよう。乱雑に積まれた色とりどりのローブの上に、海辺で拾ったブイを吊り下げた作品に付けられた《How Many Ways Can You Disappear(あなたは何通りの方法で消えることができるのか)》というタイトルは、人々の体が深い海に飲み込まれてしまっても、存在の痕跡は残り続けることを示唆している。

皮肉と矛盾に満ちたこの芸術祭では、身体なき身体、作品なき額縁、用途なき建築などのモチーフが繰り返し登場する。そして、パラドクスに満ちた作品は、見る者に苛立ちを与えようとしている。ニキータ・ゲイルの《TEMPO RUBATO(自由なテンポで)》(2023-24)は、その最たるものだろう。そこにあるのは鍵盤を塗装していない自動演奏ピアノで、音が出ないような細工が施されている。鍵盤が互いに擦れ合う音だけが聞こえる中、照明が明るくなったり暗くなったりして、決して現れることのない音楽家を待ち構えている。

《TEMPO RUBATO》のような作品は、鑑賞者の期待に沿うようなパフォーマンスを演じることを拒み、ひいては鑑賞者のまなざしを拒絶している。これは、今回の参加作家の多くに見られる「自分たちを抑圧しようとする構造や制度への参加を拒む態度」に相通じるものだ。キュレーターのアイルズとオンリが、今年のホイットニー・ビエンナーレに黒人とトランスジェンダーのアーティストを多数起用したのは偶然ではないだろう。

ホイットニー・ビエンナーレ2024に展示されたメイヴィス・ピューシーの絵画。Photo: Christopher Garcia Valle for ARTnews

退廃的な美を通じて表現されるトラウマ

このミステリアスで難解な展示を解き明かす鍵があるとすれば、それはホイットニーからほど近いチェルシー地区で長年にわたり活動していたジャマイカ生まれのアーティスト、メイヴィス・ピューシーの絵画かもしれない。ホイットニー・ビエンナーレのメインセクションのアーティストの中で唯一の物故者であるピューシーは、重なり合うようにして打ち付けられた雨戸や板、窓枠の絵を描いた。1970年代に制作されたこれらの作品では、建材の間に開口部はあるものの、その奥は彩度の低い色面として描かれ、内部の様子は分からない。彼女の作品は、荒廃の状況を覗いてみるよう鑑賞者を誘惑するが、決してピューシーが思い描いた世界にアクセスすることはできないのだ。

ホイットニー・ビエンナーレでテーマとして取り上げられることは稀だが、当然ながらアメリカの国外には広大な世界が広がっている。しかし、イスラエル・ガザ戦争やロシアのウクライナ侵攻、コンゴの危機、スーダンで続く内戦への明確な言及はここでは見られない。「ジェノサイド」という言葉を含むデミアン・ディネヤジの彫刻と、1937年の南京虐殺を再現したダイアン・セヴリン・グェンの印象的な映像作品を除けば、世界各地の紛争を直接的に想起させる作品はない。

しかし、その欠落を理由にこのビエンナーレを批判するのは不当だろう。というのも、参加作家の多くはアメリカ国外の生まれで、彼らは意識的にそうした選択をしているように思えるからだ。ミニマリズム的な作品が多い印象のアメリカの作家たちと異なり、海外生まれのアーティストたちは、過去と現在のトラウマを、不穏さよりも退廃的な美を通して表現する傾向にある。

マヤ・ルズニッチ《The Past Awaiting the Future/Arrival of Drummers》(2023)Photo: ©Maja Ruznic/Brad Trone/Courtesy Karma/Collection of the artist

ニューメキシコ州を拠点に活動する画家マヤ・ルズニッチは、家族とともに戦争で荒廃したボスニアから逃れ、オーストリアの難民キャンプで過ごした日々を、緑の海に独り迷い込んだ人物を描いた《Deep Calls to Deep(深淵への深い呼びかけ)》(2023)を通して振り返っている。また、チリ人アーティストのセバ・カルフケオは、自らのルーツであるマプチェ族(南アメリカ南部に住む先住民)の伝統を取り入れた映像作品《TRAY TRAY KO(トレイ トレイ KO)》(2022)を出展。森の中を歩き回る人物が身に着けている青く長い布は、すぐそばの川に沿うようにして引きずられ、伐採業者が金儲けのために痛めつけている土壌をやさしく撫でるように流れる。

ドミニカ共和国の首都、サント・ドミンゴ生まれの振付家リヒア・ルイスの映像作品《A Plot, A Scandal(陰謀、スキャンダル)》(2023)は、この地で奴隷にされていた人々が1521年に起こした反乱を描いている。その中でルイスは恍惚としたように踊り、十字を切ったり、舌を出したりしながら、解き放たれたように回転している。

セバ・カルフケオ《TRAY TRAY KO》(2022)のスチール写真。Photo: ©Seba Calfuqueo/Photo Sebastian Melo/Courtesy the artist

会期中に変化する作品はアメリカについて何を語るのか

数は少ないが、固定的な状態からの解放を実現した出展作もある。静的な展示が大部分を占める今回の展覧会で異彩を放っているのが、80歳代になった今が絶頂期であるように見えるスザンヌ・ジャクソンの作品だ。ここでは、ジャクソンが「アクリルにアクリル」と呼ぶ、ジェル素材にアクリル絵の具を混ぜ込んで作られた抽象的な絵が、天井と壁のフックからいくつも布のようにぶら下がっている。古い網やピスタチオの殻、細切れになった郵便物などのゴミが散りばめられた絵は、会期中に徐々にたるみ、あたかも皮膚の表面のようにリアルタイムで老化していく。

あえて未完成のまま展示されている作品もある。JJJJジェローム・エリスの作品のために用意された壁は、プレス内覧日には真っ白だったが、そこには会期中少しずつ楽譜が書き込まれていく。また、ロータス・L・カンの展示室では、巨大な写真のフィルムが天井からいくつも吊り下げられている。フィルムは定着されていないので、時間が経つにつれて少しずつ感光・現像が進行していく。現在は杏のようなオレンジ色をしているその表面は、来週にはまったく違う色合いに変化するかもしれないし、100年後には真っ白になっているかもしれない。

ホイットニー・ビエンナーレ2024に展示されたロータス・L・カンの作品。Photo: Christopher Garcia Valle for ARTnews

太陽の光がさんさんと差し込む6階の窓際には、エディ・ロドルフォ・アパリシオの《Paloma Blanca Deja Volar / White Dove Let Us Fly(白い鳩よ、私たちを飛ばせてくれ)》(2024)がある。この作品では、光や熱に反応して変形するよう加工された巨大な琥珀の塊の中にニューヨークとアパリシオの故郷であるロサンゼルスの白人活動家に関する書類が埋め込まれている。書類は琥珀の中で時間と共に少しずつ位置を変え、白人活動家の見解を記した文章は、その言葉を読み取ろうとする批判的な目に晒されることになる。琥珀はビエンナーレが開催される数カ月の間に徐々に形を変え続けるが、私が通りかかったときもすでにいくつかの破片が床に落ち、来場者に踏みつけられていた。

さて、ここで質問。これらの作品はアメリカについて何を語っているのか? 1つ言えるのは、アメリカの歴史は定まっているとは言い難いということ。その内容はアパリシオの作品のように、いくらでも変化する可能性がある。2つ目は、建国の父や自由の女神のような、いかにもアメリカ的なもの、つまりこの国の文化の核を成す物語は、それらにほとんど無関心な世代にとっては大した意味を持たないということだ。

キヤン・ウィリアムズ《Ruins of Empire II or The Earth Swallows the Master’s House》(2024)Photo: Christopher Garcia Valle for ARTnews

この非愛国的な態度は、キヤン・ウィリアムズの彫刻作品《Ruins of Empire II or The Earth Swallows the Master’s House(帝国の廃墟II あるいは大地に飲み込まれた支配者の家)》(2024)によって、これでもかというほど明確な形で表現されている。 ホワイトハウスの北側部分を土で模したこの作品は、美術館のバルコニーで沈みかけているように見える。そばには、やはりウィリアムズが手がけたトランスジェンダーの黒人活動家マーシャ・P・ジョンソンのアルミニウム彫刻もあるが、ジョンソンは同じフロアに展示されているトルマリンによる映像作品にも登場している。

抑制されたトーンの作品が多い今回のビエンナーレで、ウィリアムズの作品はその直接的な表現と、はっきりとアメリカ的な主題に取り組んでいる点で異質だ。現時点では数少ないハズレ作品の1つだが、風雨にさらされるにつれダイレクトさが薄れて見え方が変わるかもしれない。

同じくアメリカ的モチーフを取り入れた作品でも、ゴミで埋め尽くされたセル・セルパスのインスタレーションに見られるボロボロの星条旗の方が好感を持てた。1階にあるこの作品で、旗は隅に追いやられたユニット家具の上に乗せられ、周囲にはバーベルや横に倒れた消火栓、半分に割れた鏡、テントの骨組みに挟まったバランスボールなどが散らばっている。今のような憂鬱な時代において、星条旗があるべきところはこんな場所なのかもしれない。

雑多なものがそこら中に投げ捨てられているセルパスのインスタレーションは、羽目を外して遊んだ夜が明けた後の光景のようだ。このビエンナーレの文脈で言うと、コロナ禍が一段落し、平穏な日常がいくらか戻ってきたときの浮かれた日々への哀歌のようにも感じられる。それも今や過去のもので、パーティは終わってしまった。しかし、その中にいる間は確かに楽しかったのだ。(翻訳:野澤朋代)

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