クローネンバーグ監督の最新作「クライム・オブ・ザ・フューチャー」。過激な表現から紐解く、現代アーティストの体を使ったパフォーマンス
「ザ・フライ」(1986)や「ヒストリー・オブ・バイオレンス」(2005)など、独特の作風で知られる映画監督のデビッド・クローネンバーグ。その最新作が5月のカンヌ映画祭でお披露目された。プレミア上映では過激でグロテスクなシーンが話題になったが、実はこの映画にはパフォーマンスアートの要素がいくつも埋め込まれている。
最新作「クライム・オブ・ザ・フューチャー(*1)」で、クローネンバーグはボディホラー(*2)に回帰したようだ。観客は序盤でいきなり度肝を抜かれる。ヴィゴ・モーテンセンが演じるソール・テンサーという男が胸を切り開かれ、高速でメスを動かす機械が胃を引っ張り出し、内臓が露わになるのだ。
*1 クローネンバーグは1970年に同名の映画を監督している(邦題:クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立)。
*2 ホラー映画の1ジャンル。人間の肉体が暴力や病気、乗っ取りなどによって激しく損傷を受けたり、変形、変容したりする。
その周りを歩き回りながらライトが点滅するぐにゃぐにゃの機械を操作し、手術をコントロールしているのはソールのパートナー、カプリス(レア・セドゥ)だ。医療目的ではない手術を受けるソールは、快楽か苦痛か、あるいはその両方のためか、うめき声をあげながら身もだえしている。
はたして、この手術は芸術と解釈できるのだろうか。少なくとも、映画の中の世界では芸術とされるらしい。自らをパフォーマンスアーティストと呼ぶカプリスにとって、ソールは単なる素材やアシスタントではない。一方のソールも、自分は共同制作者で、自らの臓器は作品だと考えている。
なんだか訳が分からないと思うかもしれないが、「クライム・オブ・ザ・フューチャー」には現代アートの文脈があちこちにちりばめられている。アーティストが自分の体を素材とし、血を抜いたり皮膚を加工したりする、強い痛みを伴うボディアートやパフォーマンスアートから着想を得ているのだ。
アートフォーラム誌のインタビュー記事で、クローネンバーグは評論家のエイミー・トービンに、こう語っている。「20年前にこの映画の脚本を書いた頃は、いろんなパフォーマンスを見せるアーティストが山ほどいた。そういう作品を実際に作ろうと考える人がいて、それを見たいと思う観客が存在することを知り、発想を自由に広げられるようになった」
自分の体を素材にパフォーマンスを行ったオルラン
オルラン《Le Baiser de L’artiste(アーティストのキス)》(1977) Photo Patrick Batard/Sipa USA via AP
「クライム・オブ・ザ・フューチャー」は近未来が舞台だ。そこでは人体が変容し、痛みをほとんど感じない人間もいる。それゆえ、アテネの路地では性的な冒険を求めるカップルがナイフを振り回し、ソールとカプリスの地下パフォーマンスには熱狂的なファンがついている。登場人物たちが繰り返すのは、「外科手術はパフォーマンスアートの一種になった」というフレーズだ。
現実の世界でも、新しい人体のあり方を提示するために手術を受けたアーティストたちがいる。その過程で、彼らは性別の二元性やジェンダー規範に疑問を投げかけてきた。
たとえば、フランスのアーティスト、オルランは手術で額に弓形のしこりを作り、今もそのままにしている(映画の中でカプリスも同じような手術を受けている)。一般的に美容整形の目的は見た目をより美しくすることだが、オルラン自身は肉体を改造することで、世間が魅力的だとする容姿から遠ざかりたいと言っている。
オルランは2019年にアートネットニュースにこう語った。「自分の体を素材にすることには政治的な意図がある。かつての私がそうであった女性、今の私がそうである女性、これから私がなる女性、そして全ての女性のために、今まで与えられなかった自由を獲得するためのパフォーマンスだから」
体を切る、穴を開ける、縫うといった行為は、ヴィト・アコンチやジャン・ホァンなど、60年代後半以降の様々なアーティストによって行われてきた。しかし、この映画に最も大きな影響を与えたと思われるのは、70年代のフェミニストによるアートだ。
5月のカンヌ映画祭でプレミア上映される前から、登場人物のカプリスはジーナ・パーネというフェミニストのアーティストと比較されていた。パーネのパフォーマンスは、あまりにも肉体的負担が大きく、最終的に彼女は自分の体を素材にするのをやめた。
たとえば、1974年の《Action Psyché(アクション・プシュケー)》では、何度もまぶたと腹を切りつけ、傷口から血が滴るままにしている。彼女の究極の目的は、「麻酔をかけられたような社会」に到達すること。つまり「クライム・オブ・ザ・フューチャー」が描く世界のように、並大抵のパフォーマンスでは観客が動じないほど、痛みに満ちた社会を感じさせることだった。
互いの体を「創作物」にしたマリーナ・アブラモヴィッチとウーライ
マリーナ・アブラモヴィッチのパフォーマンス《Rhythm 0(リズム0)》(1974)に使われた道具 Photo Marius Becker/picture-alliance/dpa/AP Images
「クライム・オブ・ザ・フューチャー」には、新しい肉体を作ろうと企む革命集団が出てくる。内部にはどうやらスパイがいるようだが、政府にとってその集団がどんな存在なのかは判然としない。ある場面では、連邦捜査官が国立臓器登録所を訪れる。彼はシャツを持ち上げて胸の肉塊を指差し、これはデュシャンのような芸術作品かと尋ねる。しかし、その場にいた人物は、誰も答えを返すことができない。
このシーンが示唆しているのは、肉体はアートになり得るということ、そして肉体をアート作品に作り上げるのは自然の力だけでなく、人間でもあるということだ。この点で、チームで創作活動をするカプリスとソールの関係は、有名なパフォーマンスアートの2人組、マリーナ・アブラモヴィッチとウーライを思わせる。
アブラモヴィッチは、ウーライと組んで作品を発表するようになる前の70年代前半、自分の体を使った暴力的なパフォーマンス、「Rhythm(リズム)」シリーズで世界的に知られるようになった。《Rhythm 10(リズム10)》(1973)では、20本のナイフを使って、広げた手の指の間に素早くナイフを突き立てていくゲームを行い、その途中で何度も自分を刺している。《Rhythm 2(リズム2)》(1974)では、緊張病(*3)患者に使われる薬を服用し、激しい発作を起こした。
*3 反応や動きがない、長時間同じ姿勢を取るといった精神・神経症状のある疾患。
シリーズの過激さは《Rhythm 0(リズム0)》(1974)で最高潮に達した。この作品ではメスやハサミなど様々な道具が用意され、観客にはそれを使ってアブラモヴィッチの体に何をしても良いとの指示が出された。パフォーマンス中、観客の1人がアブラモヴィッチに弾が装填された銃を突きつけるという事態も起きている。
アブラモヴィッチがウーライと一緒に行ったプロジェクトには、これほどショッキングなものはない。2人のパフォーマンスは、恋愛と芸術のコラボレーションを奇妙な形で融合させたものと言える。1977年の《Breathing in/breathing out(吸って/吐いて)》は、2人が鼻孔を塞ぎ、交互に相手の口の中に息を吐いて、気を失う寸前までそれを繰り返すというものだ。呼吸を交わす2人は、自らの身体を使って相手を変容させる。苦痛が増していく中で互いに作品を創造し、相手が創造した作品を利用してまた創造するのだ。
「クライム・オブ・ザ・フューチャー」で、カプリスとソールは「新しいセックス」と称し、外科手術によって関係を結ぶ。シーンの中では、2人が服を脱ぎ、機械によって何度も体に穴を穿たれる。こうした場面は、異様でエロティックな性質を持つ《Breathing in/breathing out》の影響を感じさせる。
腕に耳を作ったステラーク
ステラーク PA Wire/PA Photos
映画の中で最も印象的なシーンは、ソールが「耳男」というアーティストのパフォーマンスを見に行くところかもしれない。耳男は、その名の通り、腕、胸、脚、頭に耳がついていて、目と唇を縫い閉じられている。彼は小さな下着だけを身につけ、不気味な音楽に合わせて体を激しく揺らしている。
この耳男のパフォーマンスは、オーストラリアのアーティスト、ステラークによる《Ear on Arm(腕に耳)》という作品を参照しているようだ。この作品は、実際に機能する第3の耳を腕に作るというものだが、医学的に非常に難しいのに加え、国によってはこの種の手術に対する厳しい規制があるため、完成まで10年以上もかかっている(第3の耳にはインターネットにワイヤレス接続される小型マイクが埋め込まれた)。ステラークは、この耳に何が聞こえているのか、インターネットや携帯電話を通して聞いてもらいたいと述べている。
このパフォーマンスを、デジタル時代に大きく変容する体についての考察だと捉えるステラークは、次のようにも書いている。「今の時代に重要なのは、単なる体のアイデンティティではなく、その接続性だ。移動できるとかどこにいるかということではなく、インターフェースが重要という意味だ。私のプロジェクトやパフォーマンスにおける人工器官は欠落の印ではなく、むしろ過剰性の症状と言えるだろう」
評論家のエイミー・トービンはインタビューでステラークについて質問したが、クローネンバーグは答えをはぐらかしている。だが、映画を見る限り、ステラークの作品は高く評価されてはいないようだ。耳男のパフォーマンスの途中で、ソールはビジネスウーマン風の女性に声をかけられる。彼女は耳男のパフォーマンスを下手くそなコンセプチュアル・アートだと言い、アーティストよりダンサー向きだと切って捨てるのだ。(翻訳:野澤朋代)
※本記事は、米国版ARTnewsに2022年6月3日に掲載されました。元記事はこちら。