愛と憂鬱、怒り、そして驚き──「AIのエモーション」を探求するアジア系アーティストたち
AI自体の進化と同様、AIを用いたアートも単なる画像や動画の生成を超えた表現へと領域を広げている。その中で注目されるのが、AIをエモーショナルな側面から捉えようとするアジア系アーティストたちだ。US版ARTnewsでは、最新デジタル特集号「AIとアートの世界」のために、4人のアーティストを取材。彼らの作品とその人種的、文化的背景との関係を探る。
機械学習を用いて「愛」を表現
アメリカという国において、非白人に対する偏見や差別は今なお根深い。その中で、アジア人たちはこれまで長い間、黙々とタスクをこなすロボット、あるいは感情のないサイボーグとして大衆文化の中で記号化されてきた。それゆえに、AIとアジア人を同時に語ることは、そうした先入観やステレオタイプを助長するか、よくて使い古されたテクノ・オリエンタリズムに関する言説を蒸し返してしまう危険性がある。
しかし、この記事で紹介するアジア・太平洋諸島系アメリカ人(AAPI)やアジア系移民の4人の現代アーティストたちは、こうした議論に新たな地平を切り開こうとしている。彼らは、実験的かつ情緒的な方法でデジタルツールを受け入れ、作品の中で展開しながら、人間とテクノロジー双方の足枷となる固定観念を覆そうとしているのだ。
ニューヨークを拠点とするマルチメディア・アーティストのワンシュイ(WangShui)は、「Foreigners Everywhere(外国人はどこにでもいる)」というテーマを掲げた第60回ヴェネチア・ビエンナーレで、2024年の新作《Cathexis I, II, III(カセクシス)》(*1)を発表した。このシリーズは、模様が刻まれたアルミニウムのパネルをアルセナーレ会場のアーチ型の窓に嵌め込んだ作品で、そこから自然光が差し込む様子は、半透明のアラバスター(白色の鉱石)を思わせる。ワンシュイはこのパネルに手作業で細長い蛇を彫り込んでいるが、それはデータのメタファーだという。
*1 カセクシスとは精神分析理論で使われる言葉で、精神的エネルギーが特定の活動・観念・物・人などに向け続けられることを言う。
ワンシュイはこう語る。
「蛇の細部に意識を向けると、そのウロコが粒状のデータとして立ち現れ、表面全体を覆うモザイク状のパターンとして認識されます。私たちは常に、私たちの文化を構成しているデータにズームインとズームアウトを繰り返しているのです。それを高い解像度で理解し、それによって成り立っている構造を把握するために」
ワンシュイがヴェネチア・ビエンナーレに出品したもう1つの作品《Lipid Muse(脂質のミューズ)》(2024)にも蛇が登場する。この横長の立体作品には、バックエンドで実行されるマルチチャンネルシミュレーションによって明滅する何千ものLEDライトがついている。蛇が脱皮した後の抜け殻のようにも見えるさまは、まるでそれ自体が生命を持っているかのようだ。
プログラマーのブランドン・ルーツとカコ・ペゲーロと共に制作された《Lipid Muse》では、ワンシュイが「quantum love(量子愛)」と呼ぶものが機械学習を使って表現されている。そしてその愛は、周波数や振動によって暴力や抑圧などを飲み込む力を持つという。ワンシュイの作品が息づくアルセナーレの展示室に恋人の姿はないが、そこにいる者は不思議な感覚に包まれる。まるで愛する人がついさっきまでそこにいたかのような、まばゆい印象が部屋に残っているのだ。
ヴェネチア・ビエンナーレの展示では、人体そのものを表現したくなかったというワンシュイは、常に過渡的で重層的な状態を視覚化する方法を見出してきた。たとえば昨年、ミュンヘンのハウス・デア・クンストで開かれたヨーロッパでの初個展「Window of Tolerance(寛容の窓)」では、《Certainty of the Flesh(肉体の確実性)》(2023)と題されたマルチチャンネルのライブシミュレーションが展示された。LEDパネルに映し出されたこの作品は、リアリティ番組の形式を取っている。そこに登場するのは半透明のメタリックな皮膚を持つAIのアバターで、ワンシュイの言葉を借りれば、自分の身体性を「うまく制御」しようと奮闘し、最終的に「人体の形を解体」してしまう。
カテゴリー分けされた属性という考え方を回避するために使われる方法の1つが、ニューラルネットワークを使った実験だ。人の属性は「私たちを型に押し込める」とワンシュイは指摘する。テキサスで生まれ、幼少期は宣教師の両親とともにタイで暮らしたワンシュイにとって、他人の思い込みに合わせて自己を演じなければならないプレッシャーは、西洋の精神分析の伝統におけるフロイト的な自我と結びついている。ワンシュイは、AIを使うことによって「自我の回避」というより大きな目的を目指しながら、演技を必要としない自己表現の手段を得られるのだ。ちなみに、「カセクシス」も、フロイトの提唱した概念を指す言葉で、外的な対象に執着し、本能的エネルギーを消耗することを意味している。
AIシステムで「人種的メランコリー」を探求
やはりフロイトが論じたメランコリー(あるいは無意識の悲嘆)という心理状態は、文化理論家のアン・アンリン・チェン、批評家のデビッド・L・エン、心理セラピストのハン・シンヒが1990年代半ばにアジア系アメリカ人を対象に行ったケーススタディにおいて、1つの枠組みとして取り上げられている。エンとハンは共著の中で、自分たちの研究対象の人々は、達成不可能な白人性という理想を手放せないことでメランコリー状態にあると書いている。この枠組みによると、メランコリックな主体は入手不可能な対象を自我の中に取り込み、それと両義的な同一性を維持しているという。
ニューヨークを拠点に複数の表現媒体で制作活動を行うアーティストで、研究者でもあるモー・コンは、この春、ブルックリンのアートNPOスマック・メロンで「Swift Island Chain(スウィフト諸島)」という展覧会を開き、こうした人種的メランコリーを探求した。暗い展示スペースにはオフィスにあるパーティション付きデスクの形をした3つの彫刻が置かれ、それぞれのパーティションには「EVERY YEAR(毎年)」「NEW SWIFT(新しい燕)」「DRIFTING IN(漂ってくる)」など、占いのような短いフレーズがレーザーで切り抜かれている。周囲の壁には踊るような筆致の文章が書かれた紙の作品が貼られ、鳥の排泄物が混ざったバイオセメントでできた小ぶりの置物がところどころに配置されていた。
ヴェネチア・ビエンナーレに展示されたワンシュイの作品と同様、パンデミック後のオフィス空間を思わせるコンの不気味なインスタレーションに、肉体を持つ人の気配はなかった。コンはその意図をこう語る。
「私は、作品に直接人物を取り入れるのではなく、人間の活動の痕跡を表現したいのです」
この展覧会では3種類のAIシステムが使われている。データエンジニアのメンユー・チェンと共同で開発された1つ目のシステムは、漢詩の一節を3通りに英訳し、翻訳で失われる言葉のニュアンスについて考えさせるもので、それぞれの訳文は3つのパーティション付きデスクに筆記体で刻まれている。
2つ目のシステムは訳文に点数をつけるよう設計されており、それぞれのデスクにデジタル時計のようなフォントで点数が刻まれている。「Every year / New swift / Drifting in」という訳には、081という点数が示されていた。掲示板サイトRedditのアジア系移民労働者のスレッドに接続されたこのシステムは、AIに感情を持たせようとしたコンの実験の産物だ。異国で不満を抱えながら働く労働者たちの言葉遣いや構文をシステムに学習させることで、コンはネット空間における個人的体験の吐露と古典的な漢詩の双方に見られる修辞的な微妙さを比較している。
3つ目は「習字作品」を作るシステムだ。コンはこのシステムが紙に書いた作品を壁に貼ることでAIのトレーニングをパロディ化している。AIを訓練するために人が行う繰り返しの多い単純作業を表したこの作品は、パーティション付きデスクにレーザーで刻まれた機械的な文字とは対照的だ。これらの作品に内在するAIの特性をコンはこう説明する。
「AIの仕事の特徴は、その速さです。一瞬で結果が出るので、人々は背後でなされている膨大な計算について意識することなく、そのスピードを当然のものとして期待するようになるのです」
2月に私がスタジオを訪れたとき、コンは台頭しつつあるAI技術がアメリカ社会におけるアジア系移民労働者のステレオタイプ──反復的な単純労働を安く、効率的に、無感情にこなす──をすでに受け継いでいると指摘した。コンは、感情表現に長け、漢詩のような非西洋文学を読みこなすAIを育成し、言語や文化的伝統の違いを超えようとする際に失われるものを意識させることで、この人種的メランコリーの悪循環を断ち切ろうとしているのだ。
AIが「怒りの罵倒」を発するパフォーマンス作品
「Swift Island Chain」展の会期が終了する直前の4月13日、ニューヨークを拠点に活動する2人のアーティスト、ティアニ・スンとフィエル・グヒットが、コンのインスタレーションを舞台に《Workloop(ワークループ)》(2024)というAIを用いたパフォーマンスを行った。サウンドとパフォーマンスをベースにしたプロジェクトを共同制作しているスンとグヒットは、文字がくり抜かれたパーティションで区分けされたデスクスペースに、コンピュータとモニター、椅子を設置。そこに黒いブーツを履き、シャツとブレザーに身を包んだ2人が登場し、ジャズ調のピアノ演奏が流れる中、自分たちが構築した自動回帰的な機械音声と対話するロールプレイを行った。リアルタイムで話しかける2人に対し、このシステムは事前に訓練された会話をもとに答えを返す。
休みなく稼働するシステムを模倣するかのように、2人のアーティストはパフォーマンスの間中、せわしなく動き回っていた。彼らは1カ所に長く留まることはなく、展示スペースを横切ったり、互いにすれ違ったり、柱に寄りかかったり、座ったりし続けるので、観客は何回同じ動作が繰り返されたのか分からなくなる。このパフォーマンスの後、スンはこう語った。
「労働の多くは繰り返しによるものです。職場の規範や権力構造もまた、反復によって確立されていきます」
共同制作を始めた当初、スンとグヒットは時間性と画像技術に関心を抱いていたという。そして2年ほど前、2人は現代人が時間をどのように体験しているかをAIというレンズを通して批評的に描けるのではないかと考えた。今年2月にニューヨークの(今はなき)ヘレナ・アンラザー・ギャラリーで行われた《Warmer Layers(もっと暖かい層)》(2024)もそうだが、彼らのパフォーマンスでは観客席の赤ん坊の声やエレベーターの音といった上演中に周囲で発生するさまざまな音声をマイクで拾い、それらをAIがスペクトログラムとして読み取ってライブで合成する。そこで生成されるのは、マニフェストと童話をミックスしたパロディのような、脈略のない文章だ。
「私は灼熱の光線を防ぐ盾。私はあなたの繊細な肌を守る鎧(中略)私はあなたの日焼け止め、サンスクリーン、UVカット。昔々、トーストを焼くことをこの上なく愛していたトースターがいた」
こうしたパフォーマンスの目的をグヒットはこう説明する。
「私たちは人々に、生成の瞬間を体験してほしかったのです」
コンが言っていたような、すぐに結果を得たいせっかちな現代人への批評も《Workloop》には込められている。あるシークエンスで、スンはコールセンターのボットを演じながら、クレームの電話をかけてきたAIと会話をする。その内容は、購入した赤ワインの味に重厚さが足りないとか、トースターがトーストを焼くのに時間がかかり過ぎるなど些細なものだ。こうしたクレームを繰り返しAIに「転送」すると、それは次第に怒りを募らせ「ふざけているのですか? 最低最悪のカスタマーサービスですね」と語気を荒げていく。スンはAIを訓練するときに、話しかけたり詩を読み聞かせたりして、自分の声色や抑揚、語調を覚えさせていた。そのため、皮肉なことに、このやり取りで彼女を罵倒する機械の声は、気味が悪いほど彼女にそっくりだ。
テクノロジーは、「スムーズで、完璧で、シームレス」であるべきと考えられているとスンは言う。この言葉は、アジア人労働者のステレオタイプに関するコンの説明にも通じる。「だからこそ、独自のモデルを構築し、不完全なものを作ることが重要だったのです」とスンは付け加えた。グヒットも、制作している中で、作品に使えそうな望ましい結果はなかなか出てこないと明かす。うまくいきそうだと思った矢先に、「何か意表をつくようなことが起きる」からだ。
AIを使って即興で作品を作り、その中で起きる異変を受け入れるこのパフォーマーたちの姿勢には、テクノロジーと私たちの関係性を超えた寄り添いの気持ちが感じ取れる。スンとグヒットにとって、こうした姿勢は他のメディウムを扱う場合と何ら変わらず、ごく自然に身についたものだという。グヒットはこう続けた。
「粘土や絵の具を使ったパフォーマンスなら、画材が飛び散ればそれを使って何かをするでしょう。それと同じです」
(翻訳:野澤朋代)
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