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難解な科学の概念をアートに翻訳するピアニスト、ルーカス・ロスとは何者なのか?

量子物理学やスーパーバグといった科学的なトピックを、パフォーマンスアートで伝えられないか? そんな野心的なプロジェクトを続けるのがスイス出身のルーカス・ロスだ。しかも、職業はピアニスト。なぜピアニストが科学でパフォーマンスアートを? 科学の複雑な概念を、どうアートに翻訳しているのか?「量子もつれ」をテーマにした日本での公演を機に来日した彼に話を聞いた。

量子物理学や人工知能など、科学の複雑な概念をパフォーマンスアートとして発表しているピアニスト、ルーカス・ロス。Photo: Asuka Ito

量子物理学に人工知能、スーパーバグ(超多剤耐性菌)。肉眼で見えなかったり、直感的にわかりづらかったりするす概念をパフォーマンスアートで伝えている人物がスイスにいる。

名はルーカス・ロス。職業はピアニスト。拠点とするバーゼルは美術館を多数擁し、世界最大級のアートフェアであるアートバーゼルの開催地でもあると同時に、世界的な製薬や農薬、化学系の企業のお膝元でもある。

彼の代表作《Tinguely Entangled》は、量子コンピューティングの基礎を分かりやすく紹介するパフォーマンスアート。量子物理学の中心的概念である「重ね合わせ」「エンタングルメント」「コヒーレンス」「トンネリング」を、映像とライブミュージック、舞台、ビジュアルアート、また物理学者たちの語りによって伝える作品だ。

なぜロスは科学でパフォーマンスアートをつくるに至ったのか?  科学の複雑な概念を、どうアートに翻訳しているのか? 今年、《Tinguely Entangled》の日本初公演のために来日した彼に話を聞いた。

──量子物理学をパフォーマンスアートで表現するというアイデアの斬新さに驚かされます。プロジェクトはどのようにして始まったのでしょうか?

父が物理学者で、幼い頃から物理学に触れて育ったんです。ただ、私自身は残念ながら物理学の才能には恵まれず、ピアニストとしてのキャリアを選びました。

プロジェクトが始まったのは全くの偶然からです。スイスの物理学会議でコンサートを行った際、スイス連邦研究能力センター(NCCR)傘下で量子に特化した研究をするNCCR SPINという機関のメンバーと話をする機会がありました。彼らは一般の人々に研究内容を説明するアウトリーチ活動をしていて、「音楽と研究を組み合わせられないか」と提案されたんです。

私自身、量子計算という複雑なテーマを、専門家でない人々にも分かりやすく伝えることに興味がありました。量子の重ね合わせやもつれ、環境ノイズ、量子コヒーレンスといった概念は、数式では理解が難しい。でも、音楽や視覚芸術を使えば比喩的に表現できると考えたんです。

──《Tinguely Entangled》は10の章に分かれていますが、どう量子物理学を表現しているのでしょうか?

それぞれの章が、量子物理学のなかの異なる概念をテーマとしています。どの章も構成は同じで、まず司会者が概念を説明し、その後、音楽、演奏、ダンス、ビデオアートなどで芸術的に表現するというかたちをとりました。

例えば、量子もつれ[編註:粒子同士に強い結びつきができる現象。量子もつれになると、ペアになった粒子同士はどんなに遠く引き離されても、呼応し合う。例えば、片方の状態が変化すると、もう片方も瞬時に状態が変化する]を表現する章では、2人のフルート奏者と2人のクラリネット奏者に、まず近くで同じリズムとハーモニーで演奏してもらいます。その後、彼らは会場の離れた場所に移動します。お互いの姿も音も聞こえなくなっても、同じリズムとハーモニーで演奏を続けるんです。これは量子もつれの状態を象徴しています。

また別の章では量子トンネル効果を表現するために、カーテンのようなサイドスクリーンを用意しました。ミュージシャンたちがそれを通り抜けることで、電子が壁を突き抜ける様子を表現したんです。

とても楽しそうに、物理学がいかに複雑で難しいかを説明するロス。

──パフォーマンスアートとしては前例のないテーマだと思いますが、全体をどう構成していったのでしょうか?

量子物理学やNCCRが研究する量子コンピューターの全体像がわかるよう、NCCR SPINのディレクターたち、そして一緒に脚本を手がけたNCCR SPINの研究者、ヘンリー・レッグと議論を重ねました。私の作品は視覚芸術家や音楽家、作曲家、科学者、そしてアウトリーチの専門家である私のコラボレーションで生まれます。音楽の世界から出て、他の人たちと話すのは楽しいですよ。

全体は、いい意味でのソープオペラのように仕上げました。量子ビットがコンピューター内でどのように移動し、どんな動きをし、それをどう測定するのか。さらには量子コンピューティングが向かう先を、1時間のパフォーマンスに落とし込みました。

──バーゼルでの初演のチケットは早々に完売したそうですね。

はい。学生時代の私にとって、物理は退屈なものでした。数式ばかりで、機械的だった。でも、量子物理学のレベルになると、物事が私たちが慣れ親しんでいるそれとは全く異なる振る舞いをします。すべてが奇妙に思える。そして、人は奇妙なものが好きなんです。

例えば、量子物理学の世界ではコインが裏であると同時に表であるということが起こり得ます。直感に反するかもしれませんが、私たちの世界では実際にそうしたことが起きている。なんでそんなことが可能なのか? どうしてそんなことが起こるのか? 好奇心をそそられ、もっと知りたくなる。それが人を惹きつけるのです。

ロスと共に脚本を手がけたNCCR SPINの研究者で、パフォーマンス当日にナレーターを務めたヘンリー・レッグ(写真左)。

──ロスさんは量子物理学に限らず、さまざまな科学的概念をテーマにしたパフォーマンスアートを手がけていらっしゃいます。

はい。例えば、2024年はAI作曲と人間の作曲を聴き比べるゲーム形式のショーを行いました。来年は抗生物質耐性、いわゆるスーパーバグの問題を取り上げる予定です。スーパーバグは抗生物質に耐性をもった細菌株のことで、いま世界で静かに進行中のパンデミックとも言えます。

このスーパーバグを、私たちはダンスパフォーマンスで表現することにしました。大規模なダンスアンサンブルを通じて細菌が細胞を攻撃する様子や、抗生物質が細菌を殺す過程、耐性菌の発生などを表現しています。

どのプロジェクトにも共通して言えることは、科学的な正確さを保ちつつも、観客の感情に訴えかけ、ショーの後も考え続けてもらえるような表現を見つけることです。バーゼルはNCCRのうち、量子物理学を専門とするNCCR SPINと、抗生物質を研究するNCCR AntiResistの拠点でもあります。多くの知識と経験が蓄積されているこうした研究機関と密に協力できることもプラスに働いています。

──ちなみに、ロスさんはピアニストであり作曲家でもありますが、なぜパフォーマンスアートという表現を選んだのでしょうか?

私はインタラクティブな体験が大好きなんです。クラシック音楽のバックグラウンドがあるので従来型のコンサートもたくさん経験してきましたし、コンサートホールで静かに聴く音楽も大好きです。ただ、時に時代遅れな感じがして、現代的なトピックを扱いにくいといったデメリットも感じました。私が目指しているのは、観客をもっと深く作品に巻き込める新しい芸術形態。それを模索するうちに、いまのパフォーマンスアートにたどり着きました。

──表現としての面白さと科学的な正確さのバランスはどう保っていますか? 複雑な概念をパフォーマンスに落とし込もうとすると、途中で抜け落ちてしまう要素もあるのではないでしょうか。

おっしゃるとおり、多くの情報を削ることになります。科学用語をそのまま使っても、一般の人々には理解できません。また、科学者も含めて専門家は細部にこだわりがちですが、それではすべてが重要に見えてしまいます。私の役割は、外部の視点から「これは本当に面白い」というポイントを見つけ出し、1つの要素から5分や10分の作品を作り上げることです。

最初は何を取り上げるべきか決めるのに苦労しましたが、経験を重ねるごとに理解が深まっています。例えば、来年の抗生物質プロジェクトでは、細菌間のコミュニケーションを遮断するという新しい治療法に注目しています。この一文だけでも10分の作品が作れますが、その背後には膨大な科学的詳細があります。しかし、1つの強力なイメージを作り出すには、シンプルさが鍵なんです。

《Tinguely Entangled》日本初公演の会場となったのは東京大学 弥生講堂アネックス。生演奏とプロジェクションマッピングによるパフォーマンスが披露された。© Ayako Suzuki

──難しすぎる概念を前に、途中で匙を投げたくなることはありませんか?

私はインターネットが大好きなんです。ウィキペディアで1行目に知らない用語を見つけたら、まずその単語をクリックして内容を読み、またわからない単語を見つけてはそのページに飛ぶという作業を延々と続けていられます。そうして理解が追いついたら、最初のページに戻って2行目まで読み進めるといった具合です。

科学者のように細かな追求をせず、大まかな理解を得るだけでいいことは私の特権だと思います。創造性を発揮し、文章からインスピレーションを得るだけでよいのですから。専門家をインタビューして、わかるまで質問をし続けることもよくあります。そうするうちにインスピレーションが湧いてくるのです。

時には「このテーマでこの方向に行っても、芸術的にはあまり得策ではない」と感じることもあります。そういう時は「ぼくには理解できないから、ここで止めよう」と意図的に手をとめます。

在日スイス大使館科学技術部と理化学研究所 量子コンピュータ研究センターが共催した3日間のシンポジウム「Swiss-Japanese Quantum Symposium 2024」の最終日に上演された《Tinguely Entangled》。ヘンリー・レッグに加え、シンポジウムに参加すべく物理学者であるロスの父(写真中央)も来日した。

──そうはいっても、内容をシンプルにしすぎると科学者たちと喧嘩になったりしませんか?

意見が食い違うことはありますね(笑)。でも、止めどきが大切です。そもそも科学はまだ発展途中なので、科学者同士で意見が対立することだってあります。議論はいくらでも拡げられるし、そこからさらに発見が続くのです。

ただ、私たちのパフォーマンスアートは「観て終わり」ではありません。例えばバーゼルで《Tinguely Entangled》を開催する際には、コンサートの後にレセプションを開き、60〜70人ほどの科学者に参加してもらいます。科学者たちは一目で分かるような服装をしているので、観客は自由に彼らに質問できるんです。例えば、「さっきの重ね合わせについて、もっと詳しく教えてください」といった具合に。

私たちの目標は、まずアートを通じて人々に考えてもらうこと。そして、その後で彼らの好奇心を満たす機会を提供することです。アートは科学と観客をつなぐフィルターのような役割を果たしているんです。このプロセスを通じて、芸術と科学のコラボレーションが生まれるのだと私は思っています。

Photo: Asuka Ito Text: Asuka Kawanabe Edit: Naoya Raita

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