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「衝突」ではなく「愛し合う」──芸術と科学の融合について考察する「PST ARTプロジェクト」

現在ロサンゼルスとその周辺では、ゲティ財団が5年ごとに主導する大規模プロジェクト「PST ART」が行われている。今回、同プロジェクトの60を超える展覧会の共通テーマは、「アートとテクノロジーは対立するのか」という問いかけだ。最新技術からビンテージマシンまで、幅広い題材を扱った作品の見どころを紹介する。

カーラ・ロメロ《Three Sisters》(2022) Photo: Courtesy Cara Romero (Chemehuevi)

先祖代々の知恵をAIに学習させた「コーヒー占い」

「あなたに挨拶するため、過去から現在へとやってくる声があります」

私のカップを見てくれたコーヒー占いマシンの「予言」はこう始まった。これは人工知能による影響を探る展覧会、「All Watched Over by Machines of Loving Grace(全ては慈愛に満ちた機械に見守られている)」(2025年2月23日まで)の展示の1つで、装置自体はいたって地味な外見をしている。

REDCAT(ロイ&エドナ・ディズニー/カルアーツ・シアター)で開かれている同展の冒頭を飾るこの作品を制作したのは、カリフォルニア州グレンデールを拠点に活動するアルメニア系のアーティストで、研究者や著述家としても活動するマシンカ・フィランツ・ハコピアンだ。オスマン帝国による大虐殺が起きた1915年以降、アルメニア人は世界各地へと離散した。ハコピアンは、そのコミュニティで母から娘へ伝えられてきたコーヒー占いをAIに学習させ、この装置を開発している。

コーヒー占いマシンはシンプルな箱型で、銀色の表面には暖色系の幾何学模様が映り込んでいる。それは、ハコピアンがコラボレーションしているダリア・エルサイードとアンドリュー・デミルジャンによるインスタレーション、「SWANA(南西アジアと北アフリカ)未来派キッチン」を隙間なく覆っている壁紙やテーブルクロスの模様だ。

ハコピアンは今年5月、自らがフェローを務めるアイビーム(Eyebeam、デジタルアート作家を支援するNPO)の講演会で、アルゴリズムによる予測モデルで西洋的な知のシステムに対抗する新たな方法の開発をテーマに講演を行った。昨今は、先祖の知恵を頼る代わりに検索バーに質問を書くことが当たり前になっている。そんな時代にAI占いは、過去から来た声と話し、過去から来た声を通して対話する方法を提示する。イノベーションに取り憑かれた現代文化を支配する個人主義よりも、コラボレーションを優先させるのだ。

マシンカ・フィランツ・ハコピアン《ԲԱԺԱԿ ՆԱՅՈՂ (One Who Looks at the Cup)》(2024)、ダリア・エルサイードとアンドリュー・デミルジャンとのコラボレーション。Photo: Yubo Dong

「カップを見る者」と名付けられたこの作品、《ԲԱԺԱԿ ՆԱՅՈՂ (One Who Looks at the Cup)》(2024)の向かいの壁に展示されたステファニー・ディンキンズの作品も、先祖代々の知恵をAIに学習させたものだ。この《Not the Only One(N'TOO [1人ではない])》(2023-継続中)には、インタラクティブなヒューマノイドアバターが登場する。それは、ディンキンズ家の3世代の女性が語るオーラルヒストリーのデータセットでトレーニングされた深層学習AIで、壁に取り付けられたスクリーンに、青みがかった銀色の巻毛を持つ黒人女性の実物よりやや大きい頭部が浮かんでいる。

神託を受けるようにスクリーンに近づくと、コンピュータで生成された彼女の目が私の目を捉える。その視線は、私の顔をスキャンしているようだ。画面の下のマイクに「こんにちは、あなたのお名前は?」と話しかけると、彼女はまばたきをし、眉をひそめ、考え事をするように前後に揺れた。「私が言ったのは……」、合成音声はそう話し始め、それから私には理解できない何かをつぶやいた。プレッシャーで凍りついたような《N'TOO》の様子は、発展途上の新技術によくある故障や、先端メディアを取り入れた展覧会には付きものの不具合を体現している。それと同時に、ぎこちなくこちらの反応を窺うような「間」が、彼女に人間らしさを与えている。それを見ていると、「機械も間違うのか、私たちと同じだ」と思わずにはいられない。

この「All Watched Over」展は、ゲティ財団が手がける5年に一度のプロジェクト「PST ART」の一部だ。「Art & Science Collide(アートとサイエンスの衝突)」をテーマに掲げる今回のPST ARTで行われる60以上の展覧会の中でも、同展は群を抜いて見応えがある。会場のREDCATに並ぶ作品は、メディアが強調しがちな実体のない亡霊のようなAIとは対照的で、ハコピアンの言葉を借りれば、はっきりとした形を持ち、確かにそこにある近未来を垣間見せてくれる。シニカルでディストピア的な言説が世間に溢れる中、この展覧会は希望に満ちており、楽観的ですらある。

先住民的フューチャリズムから捉えたテクノロジー

これまで長い間、欧米における主流派の議論では、新技術を未来志向的な態度と結び付けて捉えてきた。研究者のアロンドラ・ネルソンは20年以上前に、「場所の感覚や人種という視点、そして身体性のない」近未来を思い描くために用いられる技術の線的な進歩という概念を批判している。一方、そうした概念とは対照的な、アフロフューチャリズム(*1)のような思想は、過激なほどアナクロな表現で時間を提示する。あるいは作家のイシュマエル・リードが言うように、「シンクロニスティック(同時発生的)」なものとして時間を捉える。つまり「異質なもの同士を同じ時間軸の中に置き、同時に存在させる」のだ。過去、現在、未来は全て相互につながり、そこに序列はない。


*1 アフリカ系アメリカ人が抑圧を乗り越えるために生み出したSF的な思想や文化、黒人文化と結びついた宇宙観。

「来るべき世界を想像するために過去の世界を描く」

ロサンゼルスのオートリー博物館で開催中の展覧会「Future Imaginaries: Indigenous Art, Fashion, Technology(想像された未来:先住民たちのアート、ファッション、テクノロジー)」に掲げられた解説文は、50点を超える展示作品の背景にある考え方をこう説明している。

この展覧会は、先住民的フューチャリズムとも言うべき表現を追求する現代アーティストやデザイナーの作品を通し、テクノロジーに対する幅広い理解のあり方を示している。ここで言うテクノロジーとは最先端技術に限らず、「先住民文化の日常生活に欠かせないあらゆるシステム、たとえば薬草や持続可能な農業、芸術的媒介物、私たちが住む環境を構成する生物や非生物と交流するための文化的に適切な手段」なども含まれるという。

カーラ・ロメロ《Three Sisters》(2022) Photo: Courtesy Cara Romero (Chemehuevi)

同時に複数の時間軸を包含するこの展覧会の未来的な作品は、私たちを時間旅行へと誘う。ケメフエビ族のアーティスト、カーラ・ロメロによるSF的な写真作品では、宇宙飛行士がトウモロコシと一緒に宇宙を漂っていたり、トウモロコシ、カボチャ、豆の3姉妹が、伝統的な紋様を刺青した青い肌のサイボーグとして登場したりする。一方、カニエンケハカ(モホーク)族のアーティスト、スカウェンナティの《Words Before All Else(何よりも先にくる言葉)》(2022)という映像作品は、「マシ二マ」(「マシン」と「シネマ」の合成語)という手法で作られている。マシニマとは、主にビデオゲームのグラフィックエンジンで作られた動画のことで、この作品ではメタバースの先駆けとされた「セカンドライフ」の環境が使われている。

《Words Before All Else》には、作者に似せて作られたxoxというアバターが登場する。回転する地球の前にいるxoxはツインテールのような髪型で、両方のテールはオモチャのライトセーバーを思わせる青とピンクの光を放つ細い束になっている。そのxoxがカニエンケハカ(モホーク)語で朗読するのは、「感謝の祈り」として知られる「Ohèn:ton Karihwatéhkwen」の一節で、昔からホデノショニ(イロコイ連邦)の集会の始まりと終わりに「場を祝福し、参加者に宇宙における自分の位置を思い出させるために」唱えられるものだ。機械的ではあるが愛嬌のある笑みを浮かべながら、xoxはこの詞を英語とフランス語でも繰り返す。そして彼女は、多様な属性のアバターたちを集め、普遍的な友情の印として一緒に自撮りをしようと呼びかける。

メディア技術が過渡期にあった時代を象徴する作品も

古い技術を取り入れることで、タイムトラベルの感覚をより直接的に打ち出している展覧会もある。カリフォルニア州リバーサイドのUCRアーツで開催されている「Digital Capture: Southern California and the Pixel-Based Image World(デジタル・キャプチャー:南カリフォルニアとピクセル画像の世界)」では、主にシリコンバレーで開発された先端技術の「アーリーアダプター」であるアーティストに焦点を当てている。エポック・ギャラリーと共同開催されているバーチャル展示と並行して行われている同展では、主にインタラクティブな作品を見ることができる。

その1つが、ボリビア生まれのアーティスト、ルシア・グロスバーガー・モラレスによる《Huaca (ワカ)》(1987)の改訂版だ(*2)。これは、鮮やかに彩色された祭壇のような構造物の中にキーボードで操作する万華鏡が設置された参加型の作品で、鑑賞者は万華鏡の中の幾何学模様を静かに動かし、三角形の小窓の向こうで刻々と変化する様子を眺めながら瞑想に耽ることができる。


*2 ワカとは、アンデスの先住民言語であるケチュア語で「神聖な物や場所、神々」などを指す言葉。

1980年代に作られたこの作品のオリジナル版では、筐体にボリビアの織物模様をアレンジしたデザインがステンシルで描かれ、その色味はプログラムを実行するApple IIの画像の色を模していた。今回展示されたアップデート版を飾るのは生成AIによる絵で、南米の先住民の伝説に出てくる神様のようなイメージになっている。南カリフォルニア発のこのコンピュータ彫刻は、同じ時期に制作され、同じ会場の2階に展示されているナム・ジュン・パイクの印象的な作品、《Portable God(ポータブルな神)》(1989)と対を成すものだ。

2つのオブジェは、現代がそうであるように、メディア技術が過渡期にあった当時を象徴しているように見える。モラレスの祭壇は観客の操作を必要とするが、パイクの祭壇はより受動的な鑑賞を想定している。この展覧会のキュレーターが言うように、テレビが「いくつもあるスクリーンのうちの1つになってしまう」時代を予感させる作品だと言えるだろう。

ローレン・リー・マッカーシー《Follower》(2018)

実際、「Digital Capture」展にはあらゆる形、サイズ、種類のスクリーンが溢れている。正確にはアート作品ではないが、1980年代後半に開発された三菱ヴィジテル(VisiTel: Visual Telephone Display)という2台1組の機器を使ったインタラクティブな展示もその1つだ。このテレビ電話では、来場者がボタンを押すと、自分の静止画像が一方のディスプレイからもう一方に送られる(スマホで画面を撮ろうとしたが、ヴィジテルのディスプレイがブラウン管なのでうまくいかなかった)。私の姿はほんの束の間、画面に映し出されていたが、次の人が試すと消えてしまう。ここまでエフェメラル(はかなく、すぐ消えてしまう)なものに出会うことは、最近ほとんどなくなった。それに今では、デジタルの痕跡を全く残さない画像はめずらしい。

テクノロジーによる「監視」の視覚文化

アーティストで理論家のモホイ=ナジ・ラースローは、100年近く前に書かれた『A New Instrument of Vision(新しい視覚の道具)』の中で、新技術は世界の新たな見方を可能にすると述べている。一方、PST ARTに参加しているアーティストの多くは、テクノロジーの進歩は新しい見方だけでなく、新しい「見られ方」、あるいは「監視」を可能にすると考えているようだ。特に、2010年代に制作された作品には監視の視覚文化を探求するものが多く、歴史的であると同時に時事的な問題意識が感じられる。

UCRアーツの「Digital Capture」展で特に不気味なものに、ローレン・リー・マッカーシーの《Follower(フォロワー)》(2016)がある。マッカーシーはこの作品で、同名のiOSアプリをダウンロードしたユーザーに、ある「サービス」を実施している。それは、現実の世界でそのユーザーをフォローする1日限りの「リアルなフォロワー」を提供するというものだ。この展覧会では6台のiPhone 7sが並べられ、そこにフォロワーがユーザーを隠し撮りした写真が表示されていた。

ロサンゼルス郊外、イーグルロックのオクシー・アーツで開催されている「Invisibility: Powers & Perils(不可視性:その力と脅威)」展(2025年2月22日まで)の会場で最初に目に飛び込んでくるのは、アーティストで研究者のアダム・ハーヴェイによる不思議な画像だ。このモノクロ写真には閑散としたデューク大学のキャンパスが捉えられ、学生たちが歩いているはずの場所に彩度の高いRGBカラーのグラデーションが広がっている。画像の作成には、デューク大学の研究者たちが2014年に集めた監視カメラ映像のデータセットが用いられた。当時データセットは公開情報で、マルチ・ターゲット・マルチ・カメラ(MTMC)監視アルゴリズムを開発するための素材として広く使われていた。しかし、キャンパスを行き交う学生たちの映像を、彼らの許可なく使用する研究の問題点に関する文書をハーヴェイが発表したのをきっかけに非公開となった。

アダム・ハーヴェイ《DukeMTMC Datageist》(2019)

ロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)の展覧会「Digital Witness: Revolutions in Design, Photography and Film(デジタルの証人:デザイン、写真、映画における革命)」(2024年11月24日〜2025年7月13日)に展示されるザック・ブラスの《Facial Weaponization Suite(顔認証撃退セット)》(2012-14)も、ハーヴェイの作品に通じるテーマを扱っている。同展は11月下旬の開幕に先立ち、9月から10月にかけて一部を公開する「予告編」展示を行った。ブラスの作品は人通りの少ない隅の方に置いてあったが、アドビがスポンサーとなっているこの展覧会で、いわゆるデジタル画像革命に批判的なアプローチを取っているのはブラスだけのようだった。

彼はこの作品で、顔を見ただけでその人の性的指向が分かる「ゲイダー(gaydar、ゲイとレーダーの造語)」の定量化を目指した科学的研究の生体測定データを参考に、カメラに映る人の顔を隠すデジタルの仮面を制作した。顔として識別されない不定形な仮面は、公共の場での活動やパフォーマンスなどでコンピュータービジョンの有害な視線から着用者を守るものだという。

UCRアーツの「Digital Capture」展と比べると、「Digital Witness」展はどこか精彩に欠ける印象だ(少なくともプレビューバージョンは)。しかしキラリと光るものがないわけではなく、いかにもデジタル時代らしい洗練された美しさがある。出展作家には、コンピュータアニメーションの先駆者である故ジョン・ホイットニーやポストコンセプチュアルアーティストのコリー・アーカンジェルといった著名アーティストのほか、1987年の作品が最近NFT化された画家の故リー・マリカン、クラフトワークの1986年のアルバム『エレクトリック・カフェ』のビジュアルを当時最先端の3Dフェイシャル・アニメーション・ソフトを使って制作したレベッカ・アレンなどの大御所が名を連ねる。ただし、インタラクティブな作品はない。

来館者の多いLACMAのような美術館では、体験型の展示にリスクが伴うことは確かだ。しかし、この展覧会には観客が直接触れられる作品がないため、どこかよそよそしく、コンピュータを使ったアートに対する昔ながらの偏見を助長しているように感じられた。こうした偏見は、昨年LACMAで開催された「Coded: Art Enters the Computer Age, 1952–1982(コード化:コンピュータ時代に入ったアート 1952–198)展で覆されたと思っていたのだが。

「我われはどこから来たのか」という大きな問い

9月19日にサンタモニカ・カレッジで開催されたPSTの非公式パネルディスカッション「Hacking the Timeline: Integrating Digital Art into Mainstream Art History(タイムラインをハックする:美術史にデジタルアートを組み込む)」では、双方向性とビンテージハードウェアが話題となった。ゲティ研究所のアソシエイト・キュレーター、ピエトロ・リゴロは、昔懐かしい機器を美術館の展示に効果的に取り入れられると言い、例としてバーバラ・T・スミスの2023年の回顧展に展示されたアナログのコピー機を挙げた。

スミスが愛用し、彼女の制作活動を根底から変えたこの機械は、展覧会の重要なアクセントとなり、来館者に思いがけない写真撮影の場を提供した。また、スミスの作品そのものだけでなく、制作に使われた機械を直接見ることで、観客は彼女の仕事をより身近に感じることができたはずだ。アートとテクノロジーというレンズを通すことで、私たちは美術史を「天才」という個人の連なりとしてではなく、関係性とコラボレーションの網の目として見ることができるとリゴロは言う。

他方、科学とテクノロジーの領域では白人男性が権勢を振るってきた歴史がある。たとえば「Digital Capture」展に出展されたハントレス・ヤノシュのモキュメンタリー、《Azon Machine(アゾン・マシーン)》(2016)もこの点を取り上げている。アートとテクノロジーについても同じことが言えるが、「PST ART: Art & Science Collide」は60以上の展覧会を通して、私たちが大きく前進したことも示している。20世紀半ばには現在と違い、テクノロジーアート作品に貢献した技術者たちの名前はクレジットされず、彼ら自身の仕事が展覧会で紹介されることも稀だった。

「Crossing Over: Art and Science at Caltech, 1920-2020(境界線を超えて:カリフォルニア工科大学におけるアートとサイエンス、1920-2020)」のように、数十年にわたるアーティストと科学者のコラボレーションに焦点を当てた展覧会もある。そうした協働作業では、時にパラダイムシフトを起こすような興味深い画像が生まれている。たとえば、火星探査機が撮った火星の画像は、初めてテレビ放送される際に手で彩色された。コラボレーションという言葉は乱用されがちではあるものの、アートと科学の文脈でこうした作品や展覧会を成立させる「純粋な好奇心に支えられた仕事」を表すのに、これ以上の言葉はない。

ビデオアート集団EZTVの創設メンバーでディレクターのマイケル・J・マスッチは、自らが企画し、司会を務めたパネルディスカッション「Hacking the Timeline」で次のような鋭い問いかけをした。

「果たしてアートと科学は本当にぶつかり合うものでしょうか?」

ぶつかり合いという言葉は暴力を暗示し、コラボレーションのニュアンスをうまく伝えられない。コラボレーションは、たとえ成功しなくても何かを生み出すものだ。アートと科学はどちらも創造性に関わるもので、どちらも同じ実存的な問いに答えようとしている。これまで両者は、何度も対立させられてきた。しかし、いったい何のために? 「芸術と科学はぶつかり合うのではなく、愛し合う」のだとマスッチは言う。

マスッチのスタジオには、彼がゴミ置き場から救い出した旧式の機材がたくさん保管されている。その多くは、エイズで命を落としたEZTVのメンバーたちのものだ。ほとんどの機材はもう使えないが、彼がそれを取っておくのは使うためではない。「こうした物を残しておくのは、私たちがどこから来たのかをみんなに覚えていてほしいからです」と彼が言うように、絶え間なく革新と破壊が繰り返され、高速で変化する文化においては、更新し、再読み込みを行い、過去を忘れてしまうことはとても簡単だ。

歴史的な作品と現代の作品、ヴィンテージと最新版のハードウェアやソフトウェア、先祖の声と機械の合成音声——これらが共存する中で私たちはタイムトラベルし、複数の時間軸を同時に我が物とすることができる。アートとテクノロジーを衝突させるのではなく、より柔らかいタッチで融合させることで、私たちは自分がどこから来たのかを思い出せるのだ。今どのように行動し、次に何をしたらいいのかを決めるのに、その知識は役に立つかもしれない。(翻訳:野澤朋代)

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