湾岸諸国のアートシーンは世界の一大勢力になるか。UAE、サウジ、カタールの動向を追う
大規模な美術館建設プロジェクトや新たなアートフェアの創設など、湾岸諸国のアートシーンは急速に発展しつつある。そこでは今、具体的に何が起きているのか。UAE、サウジアラビア、カタールにおけるアート分野の成長ぶりと課題についてまとめた。

「競争は西洋の概念です」
今年6月のアート・バーゼルで行われたパネルディスカッションでこう発言したのは、世界最大級の規模で現代アートを購入しているカタール博物館(Qatar Museums)議長のシェイカ・アル=マヤッサ・ビント・ハマド・ビン・ハリーファ・アル=サーニーだ。
2026年に第1回の開催が予定されているアート・バーゼル・カタールをはじめ、湾岸地域ではアート関連のイベントが目に見えて増加している。その結果、11月から3月の比較的過ごしやすい季節には、毎週のように大きな文化イベントがひしめき合うことになるだろう。
アブダビ・アート、ディルイーヤ現代美術ビエンナーレ、イスラム芸術ビエンナーレ、ヌール・リヤド、デザートXアルウラ、ミスク・アートウィーク、アート・バーゼル・カタール、アートウィーク・リヤド、アート・ドバイ、カルチャー・サミット・アブダビ、ドバイ・デザインウィーク、そしてシャルジャ・ビエンナーレなど、湾岸諸国が現代アートシーンの構築を精力的に続ける中、資金以上に限りある資源になっているのは「時間」だ。
コレクターの数も加速度的に増えている。2021年以降、ヨーロッパやインドの富裕層が本国のインフレなどを避けるため、税制優遇措置のあるドバイやドーハを目指している。これは現地で「コロナによる急増」と呼ばれる現象で、複数の報告によると、2024年だけで6700人がアラブ首長国連邦に移住している。それに加え、湾岸地域はいわゆるグローバル・サウスを目指すアーティストやキュレーターにとってもアクセスしやすい玄関口になっている。実際、今年のシャルジャ・ビエンナーレのプレビューデーには、新規やリピーターなど大勢の来場者が詰めかけた。
さらには、美術館による購入も増加傾向にある。現地の多くの美術館がパーマネントコレクションを構築中の今、まさにビジネスのポテンシャルが高まっているのだ。アブダビでは待望のグッゲンハイム美術館開館に向けた準備が進んでいるほか(関係者によれば作品取得を継続中)、カタール博物館は傘下の現代美術館、アート・ミル(Art Mill)向けに作品を収集。サウジアラビアは、国内で計画されている複数の美術館向けに作品購入を続けている。このほかにも新たなアート地区、フリーゾーン、レジデンシープログラム、教育イニシアチブなどの計画が進行中だ。スター建築家が設計した湾岸諸国の壮麗な美術館は、政府の芸術分野に対する巨額投資で目を引く要素ではあるものの、全体のごく一部に過ぎない。
「経済多角化の手段として文化を育成する関心が高まっています」と、ドバイを代表するコレクターの1人であるレバノン系フランス人実業家、エリ・クーリは語る。
「以前は不動産が人々の関心を集めていましたが、今や文化が、経済成長促進や観光客誘致だけでなく、生活の質全体を向上させる手段と考えられているのです」
国際的な大物コレクターがUAEに続々移住
湾岸地域の美術館やビエンナーレ、アートフェアは、ルーブル・アブダビ、グッゲンハイム・アブダビ、デザートXアルウラ、アート・バーゼル・カタールなど、国際的な組織のフランチャイズとして設立されてきた。それと同時にアラブ湾岸諸国には、小規模ながらも独立した根強い市場がある。カタール王室のメンバーであるシェイク・ハッサン・ビン・モハメド・アル・サーニーが構築した現代アラブ美術の卓越したコレクションは、2004年に同国のマトハフ・アラブ近代美術館に寄贈された。ジッダでは、ジャワヘル・ビント・マジット・アル・サウド王女を筆頭とする12の有力なファミリーが2013年に非営利団体サウジ・アート・カウンシルを設立し、影響力のある年次フェスティバルである21,39 ジッダ・アーツを支援。さらに、それぞれのファミリーがサウジアラビアおよび国際的なアート作品の主要なコレクションを構築している。
市場が最も活発なドバイでは、ファルハド・ファルジャム、モハメッド・アフカミ、エリ・クーリなど、長年にわたってこの地を拠点としている他のアラブ諸国やイランの人々が、アートパトロンとして数多く活動している。アラブ首長国連邦には、現代アートだけでなく、伝統的なイスラムの工芸品や写本を購入する地元出身者のコレクターも多く、その中には、シェイク・スルタン・ビン・ムハンマド・アル・カシミ、サラマ・ビント・ハムダン・アル・ナヒヤーン、スルタン・スード・アル・カセミ、故スルタン・ビン・アリ・アル・オワイス、パレスチナ系エミラティ(UAE国民)のザキ・ヌセイべなどがいる。
ただし、これまでは彼らやその他数人のコレクター(およびアート・ジャミールやシャルジャ・アート・ファンデーションなどの組織や財団)が主な購入者で、湾岸地域の膨大な富にもかかわらず、その数がほとんど増えないことにギャラリー経営者が不満を漏らすことも少なくなかった。

しかし今、ドバイの状況は投資家の流入で変化しつつある。アンドレイナ・ペレス・シスネロスなどの新規住民の多くは、すでに他の地域でアートを収集してきたコレクターである一方、アラブ地域に根を下ろす手段としてアートを買い始めている人々もいる。最近のコレクターたちは、ドバイに長く住むアメリカ出身のリンジー&マイケル・フォーニー夫妻や中国人バイヤーのスノー・リーのように国際色が豊かで、アラブ地域だけではなく世界各地でアートをコレクションしている。アート・ドバイ・グループのエグゼクティブディレクター、ベネデッタ・ギオーネはこの点について次のように述べている。
「インドのコレクターはインドのアート作品を収集すると認識されてきましたし、それはある程度事実です。今、ここに移住してきているのはインドでも本当にトップクラスのコレクターで、彼らは国際的な作品のコレクションを所有しています。一方で、こうした新しいコレクターやヨーロッパからやってくるコレクターたちは、自国の才能あるアーティストも支援しています」
多くのギャラリー経営者が指摘するのが、数だけでなく、傾向にも大きな変化が見られることだ。これまで単発的に作品を購入していた人も、コレクションの構築を始める可能性についてより真剣に考えるようになっている。キューバ系ベネズエラ人のコレクター、エラ・フォンタナルス=シスネロスの孫娘、ペレス=シスネロスは、12年前にドバイに移住してから、ドバイのシャイカ・アル・マズルーやジッダのダナ・アワルタニら幾何学的な表現手法を用いる中東のアーティストたちの作品を購入するようになった。ペレス=シスネロスは、当時すでにラテンアメリカの伝統的な幾何学的抽象作品を収集しており、この2地域のつながりをはっきりと認識していたという。ドバイにあるペレス=シスネロスの別荘で話を聞いたとき、彼女はこう語った。
「ラテンアメリカと中東は、一見したところは宗教的にも文化的にも遠く離れているようでいて、実は多くの共通点があります。歴史的に、アラブ文化はポルトガルやスペインに大きな影響を与えました。そして、ポルトガル人やスペイン人がラテンアメリカに渡って現地を植民地化したとき、アラブ文化の影響が持ち込まれたのです。それは、メキシコにおける建築物の様式だけでなく、スペイン人が建てた大聖堂や教会のモチーフにも見られます」
最終的にペレス=シスネロスは、こうしたつながりをさらに探求できるプログラムを支援、あるいは財団を設立したいと考えている。これは、民間主導のイニシアチブが常に公共部門を上回り、国家が独自の美術館を設立したことがないドバイではよくあることだ。欧米では、ニューヨーク近代美術館(MoMA)やロンドンのテート・モダンなどのように文化施設がコレクターに寄付を呼びかけるものだが、UAEではそれと対照的に、主要コレクターが独自の財団を設立する傾向がある。
一方、クーリは現在、アブダビおよびドバイの首脳と、自身が所有する作品を収蔵する施設を建設する可能性について協議を進めている。また、UAEの主要文化人の1人、スルタン・スード・アル・カセミはバルジール芸術財団を創設し、この財団の本拠地となる恒久的な施設をシャルジャに設ける計画だ。さらにドバイ政府は、主要なアートコレクターをアラブ首長国連邦に誘致するために、大規模なアートコレクションの持ち込みが免税となるフリーゾーンの創設を目指していると報じられている。
「ヨーロッパから中東へ、コレクションとともに移住する人々がますます増えています」とクーリは言う。「大物コレクターが移住して来れば、住宅を購入し、美術館を訪れ、美術品を購入します。その傾向は強まる一方です」

ある情報筋によれば、アブダビ首長国政府も複数の著名コレクターとUAEの首都アブダビに複数の財団を設立する計画を進め、廃校になった学校の校舎を展示スペースとして提供する案を提示しているとの噂もある。もし実現すれば、アブダビ文化観光局(DCT)が管轄するサディヤット文化地区にある美術館や博物館のように、これまで常に政府主導で投資を行ってきたアブダビの新たな展開として注目を浴びるだろう。
また、アブダビには膨大なコレクションを所有する複数の大物コレクターがいるので、彼らにコレクションを公開することを説得できる可能性もある。DCTのモハメド・ハリファ・アル・ムバラク局長によれば、政府はよりオープンなセクターを育成して新たなクリエイターをアブダビに誘致し、アブダビでの生活・活動を奨励したいと考えているという。すでに具体化した例としては、レバノン人コレクターでUAEに長年居住するバッサム・フライハが設立したバッサム・フライハ芸術財団が、サディヤット文化地区内にスペースを構えている。
しかし、この地域の問題として、財団や慈善団体を支援する法律・規制が十分に整備されていないことがある。UAEには過激派イスラム組織への資金提供を阻止するため、慈善寄付に関する厳格な法律が存在するほか、湾岸諸国は長きにわたり「無税国家」であったため、免税措置や遺贈などに関する規則が確立されていない。政府関係者によれば、これらの法改正に加え、アーティストやキュレーターがフリーランスで活動しやすくするビザ制度の整備が現在検討されている。
また、サウジアラビアでは視覚芸術委員会がギャラリーやクリエイティブスタジオ向けの体系的なライセンス制度を導入し、ドバイではフリーポート建設の協議が進んでいる。今年5月には、サウジを代表するギャラリーATHRが、ドイツの物流企業ハーゼンカンプと提携してハイスペックな美術品保管施設を開設したが、これは湿潤な気候の湾岸地域における小さいながらも重要な一歩だと言える。特に、今後開館する美術館に重要な美術品が次々と到着する中(レオナルド・ダ・ヴィンチの《救世主》も含まれるが、その所在は依然として公式には不明)、その重要性は増している。
覚醒した「眠れる巨人」サウジアラビアの現状
ドバイとはかなり異なるのがサウジアラビアの状況だ。フランス、ドイツ、スペイン、イギリスを合わせたほどの広さを持つこの国は、30年にわたる文化的な孤立から脱しつつあり、国際的に流通しているイメージに比べて、にぎやかで親しみやすい場所になった。以前は娯楽に対する厳しい規制が行われていたが、ムハンマド・ビン・サルマン皇太子の経済・社会改革構想「ビジョン2030」の一環として、アートシーンで大きなイベントが開催されるなど、歓迎すべき変化が起きている。
カタールやUAEなどでは早い時期からアートイベントを発展させてきたが、それらと同じくらいの観客が、すでにサウジアラビアのイベントにも集まるようになっている。世界各国で行われているアートウィークの非営利バージョンとも言える第1回アートウィーク・リヤドは、4月の7日間で1万7000人以上の来場者を記録し、2023年に初開催されたイスラム芸術ビエンナーレは、4カ月間の開催期間中に60万人もの来場者を集めた。サザビーズ中東・インド部門責任者で、湾岸地域に長年足を運ぶエドワード・ギブズはこう語る。
「サウジは長年、この地域の眠れる巨人でした。それがついに目覚め、地域全体に影響が波及しています。サウジの『ビジョン2030』が、その予算・資源・人材を背景に、文化プログラムの驚異的な拡大を引き起こしているからです」
市場関係者も素早い動きを見せ、アブダビの新興政府系ファンドADQから10億ドル(最近の為替レートで約1530億円、以下同)の投資を受けることになったサザビーズは、2月にリヤドでオークションを開催して注目を浴びた。リヤドの歴史地区、ディルイーヤにある泥レンガ造りの円形劇場で行われたこの野外オークションは、インスタ映えも完璧だったと言える。美術品と高級品を合わせた117点の小規模なセールではあったが、売上は1728万ドル(約26億4000万円)に達し、うち3点は1点あたり100万ドル(約1億5300万円)超で落札された。ギブズはオークション結果についてこう説明する。
「オークションには45カ国から参加者があり、出品物の3分の1はサウジのバイヤーや入札者、あるいはサウジの典型的な居住者層に落札されました。参加者の約30%は40歳未満で、約3分の1がサザビーズと取引するのは初めてという顧客でした」

今回のオークションには、こうした新規バイヤーの購買傾向を測るテストケース的な側面もあった。湾岸地域ではコレクティブル(収集価値のあるアイテム)のカテゴリーが成長中だが、今回のオークションでは高級品部門の成績は美術品部門ほど振るわなかった。その理由について、ある関係者は、「サウジアラビア人は中古の宝石を購入したがらない」と指摘する。
美術品に関しては、パブロ・ピカソやルネ・マグリットなどの国際的な巨匠と、アフメド・マータルやアブドゥルハリーム・ラドウィといったサウジの主要作家を同時に出品することで、サザビーズはリスク分散を図ったようだ。また、新たにアートセクターを構築していくことを念頭に、8日間にわたるイベント期間中、非営利的な取り組みにも注力している。具体的には出品作品展に1000人が訪れたほか、関連トークプログラムには700人が参加し、収集のノウハウに関するトークや、主要な現代アラブ人アーティストによるパネルディスカッションが行われた。
ライバルのクリスティーズも後れをとらじと、昨年9月にはリヤドに専用オフィスを開設し、アートアドバイザーのヌール・ケラニをマネージングディレクターに据えた。また、今年1月にはイスラム芸術ビエンナーレのパブリックプログラムをプロデュースしている。さらには、将来の販売を見据えた人脈構築のためにサウジアラビアを訪れるディーラーが増加しているという声もある。
ただ、湾岸地域に海外からの目が向けられるのは歓迎される一方、不快に感じる向きも多い。西側諸国が近寄ってくるのはもっぱら金銭目的で、地元文化への敬意に欠けると考える人が多いからだ。特に批判の的となっているのは「コンサルティング文化」だ。湾岸地域の各種組織はマッキンゼーやBCGといった企業に巨額のフィーを払ってアドバイスを得ているものの、美術界の一部では、西側による経営指導に懐疑的な見方もある。あるコレクターはこんな不満を口にする。
「ロンドンやニューヨークから群れをなしてやってくるギャラリー経営者たちには、正直うんざりしています。中東に欠けているのはベーコンやピカソだとでも言うかのように、必ずそうした作品を購入すべきだと主張してくるのです。皮肉なことに、西側の多くの美術館では、中東の美術品がそのコレクションの一部になっています。ただ、古美術や19世紀以前の作品ばかりが称賛され、現代の作品となると都合よく忘れ去られるのです。まるで、植民地主義が始まったとたん文明が停止したかのように」
現時点でサウジアラビアの市場は、同程度の規模・富を持つ国や、カタール、UAEと比較して小規模なものに止まっている。国際的なアートフェアに参加するサウジのギャラリーはATHRとハフェズ・ギャラリーのみで、いずれも設立されたのは「ビジョン2030」の改革前だ。サウジ政府は独立した市場を支えるため、アートシーンのエコシステムの全ての要素を整備する必要があると考えられているようだが、現時点では美術館と非営利プログラムの創設が優先されている。

同じことがギャラリーにも当てはまる。2022年にATHRギャラリーは、助成金やレジデンスのほか、長年続いている育成プログラム「ヤング・サウジ・アーティスト」などを支援する財団を設立した。ATHRの共同創設者であるモハメド・ハフィズは、ギャラリーにとって財団の活動は商業部門と同じくらい大切な要素だと強調する。
ギャラリーのアーティストたちは、主に文化省からの大規模な委託やプロジェクトでの制作で忙しい。たとえば、アフメド・マータルが計画しているプロジェクト「蜃気楼マシン」は、アルウラのワディ・アル・ファンに巨大な土塁を築くというもので、ムハンナド・ショノは複数のビエンナーレのための委託作品を制作している。
アートフェアでのブース展示は、販売の場というより展覧会に近い。たとえば、最近UAEのアーティスト、ラミ・ファルークは、ATHRのフリーズとアート・ドバイでのブースキュレーションをアートプロジェクトとして手がけ、低価格の作品販売を実施した。ATHRは草の根アートシーンの要としての従来の役割を今も手放すことはなく、財政的にもその必要に迫られていない。
サウジアラビアにおける芸術の変革を主導する文化省自体も、市場には慎重に接しているようだ。最近開催されたアートウィーク・リヤドは、視覚芸術委員会の「新たなモデル」として企画された。つまり、同委員会のディナ・アミンCEOが語るように、美術品の販売よりも、一般市民の啓蒙とエンゲージメントに重点が置かれているのだ。国際的なギャラリーが招待されてキュレーションされた展示会が行われはしたが、ディーラー用の椅子とテーブルが用意されていただけで、いわゆるフェアの形式は取っていない。
いくつか成約に至ったものもあったが、全ての作品は一時輸入ビザで出入国しなければならず、新たな所有者がそのまま国外へ持ち出すことはできなかった。このため、アートウィーク・リヤドは当初フェアとして構想されていたが、文化省の承認プロセスの途中で方針が変更されたのではないかと多くの関係者が推測している。
このように、現状は市場開拓にあまり注力されていないが、国家予算が逼迫すれば変化が生じる可能性もある。サウジが2030年のリヤド万博と2034年のFIFAワールドカップの開催地に決定していること、そして、おそらく急ぎすぎた改革に伴う成長痛が発生していることから、ビジョン2030の資金があちこちに分散し始めている。とはいえ、文化プロジェクトは規模が大きく、若手が改革に本腰を入れて取り組んでいることから、特に欧米市場の減速が顕著な現状ではサウジ市場を無視するのは難しい。
アート分野への投資で先行するカタールが抱える問題
現在の主要プレイヤー3カ国のうち、いち早くアートシーンへの投資を始めたのはカタールで、同国には最高水準のキュレーション能力を誇る美術館が存在する。湾岸地域で唯一、奴隷貿易をテーマとする博物館、ビン・ジェルムード・ハウスもその1つだ。しかし、アーティストやコレクター、アート愛好家の育成を通じた草の根アートシーンへの国家投資には、ほとんど進展が見られない。
それでも最近、8つの博物館・アートスペースからなる国立の博物館機構、カタール博物館が活発な動きを見せている。今年2月、ヴェネチア・ビエンナーレに30年ぶりとなる新パビリオンを建設することを発表したほか、コレクターのアル=サーニーが収集した最高峰のオリエンタリズムのアート作品を収蔵するルサイル美術館(2029年開館予定)と、現代アートに特化したアート・ミル(2030年開館予定)という2つの新規施設計画も進行中だ。

もちろん、最大のニュースは来年2月に初開催されるアート・バーゼル・カタールだ。これは同国の新たな野望を示すとともに、アート・バーゼルにとっては湾岸地域への足がかりになる。「アート・バーゼルがこの地域に注目しているのは良い兆候だと思います」と、元アート・バーゼルのスタッフで、現在はアート・ドバイのディレクターを務めるドゥンヤ・ゴットヴァイスは言った。「人はお金があるところに集まるものですから」
アート・バーゼルは新たな戦略を採っているようで、2月の第1回アート・バーゼル・カタールは、出展申込書によれば「従来のブース形式から脱却」し、評論家の評価が高いエジプトの著名アーティスト、ワエル・ショーキーが芸術監督を務めるという。参加ギャラリーは50軒と小規模に抑えられ、初回はアーティストの宿泊費や交通費など、出展者費用の一部をアート・バーゼルが補助する。これに対し、ドーハの市場にはシェイカ・アル・マヤッサとカタール博物館以外にはめぼしい買い手が存在しないことから、アート・バーゼル・カタールは、なんとかしてギャラリーに出展してもらうために苦肉の策を取ったのだろうという皮肉を込めた指摘もある。今後は、こうした販売インフラの構築が最優先課題となるだろう。
「市場開拓に多くの課題があることは承知しています」とアート・バーゼルのグローバル・フェア・ディレクター、ヴィンチェンツォ・デ・ベリスは言う。「しかし、それが私たちの目指すところです。過去55年間にわたり、アート・バーゼルがさまざまな場所で事業展開してきた経験を踏まえ、それを成し遂げられると確信しています。私たちの目標は、市場開拓と民間セクター育成のために1年365日活動することです」
国際的なコレクターが、最近の湾岸地域の不安定さを敬遠するかどうかはまだ分からない。今年6月、イランが米軍による核施設攻撃への報復として、ドーハの南西にあるアル・ウデイド米空軍基地に向けてミサイルを発射し、カタールとUAEの空域が一時閉鎖される事態になった。限定的な衝突ではあったが、アート・バーゼル・カタール開催まで数カ月という時期に発生したことから、アメリカ人の訪問者数への影響が懸念された。
しかし、この地域の人々にとって、この小競り合いはガザで続く悲劇のほんの一部に過ぎない。ガザ包囲がアラブ世界全体に与えた影響は計り知れず、多くのコレクター、アーティスト、キュレーターが、絶え間ない暴力と、アメリカをはじめとする西側諸国がイスラエル批判をしないことへの悲しみを表明している。また、定量化は難しいものの、シェイカ・アル・マヤッサの「競争は西洋の概念です」という発言や、サウジアラビアの欧米コンサルへの懐疑が示唆するように、湾岸諸国が示す新たな自信の中には、西洋と、(力を失ったとはいえ)今も続くその優越感に対する深いいら立ちも含まれている。
湾岸地域の変化が、アーティストにどのような影響を与えたかという問題もある。美術館だけでなく、湾岸諸国は芸術教育に多額の投資を行っており、若い世代は育成プログラムなど数多くのチャンスに恵まれている。しかし芸術への注目度の高まりは諸刃の剣だ。アーティストたちからは、展覧会と委託制作を絶え間なくこなし続けなくてはならないという声が聞かれた。その多くは国家主導のプロジェクトやラグジュアリー業界とのコラボレーションで、そこには注目と同時に監視が付きまとう。
一方、アーティストが自由に実験を行える場や、地道に活動する若手アーティストが頭角を表すことができるようなアーティスト・ラン・スペースはほとんど存在しない。この地域のアーティストは地位、機会、さらには価格面で、急速に「新進」から「中堅」へと移行する。ちなみに、新進アーティストの作品は約1万から1万5千ドル(約153万〜230万円)、中堅アーティストは2万から4万ドル(約300万〜612万円)程度の価格帯だ。30代半ばで、すでにUAEのアートシーンにおける重鎮的存在となったアブダビのアーティスト、アフラ・アル・ダヘリはこう語る。
「過去10年は疾風怒濤の時代で、私の世代は注目という点で多くの光を当てられましたが、あまりにも変化のスピードが早すぎました。国が芸術を支援し、スポットライトと舞台を与えてくれたのはすばらしいことですが、同時にこう考えずにはいられません。ちょっと立ち止まり、自分が制作しているアートについて考える時間を、いったいいつになったら持てるのかと」(翻訳:清水玲奈)
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