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撤去が続く奴隷制時代の記念像。代わる新モニュメントはどうあるべきか

南北戦争時代の南部連合を始めとする米国史上の問題に関するモニュメントが、全米各地で撤去されている。そうした中、新世代のアーティストや建築家が模索しているのは、奴隷制を美化することなく、奴隷制時代の記憶を維持する方法だ。

Photo: Courtesy of Artist

その中心的人物が、建築家でコロンビア大学教授のメーブル・O・ウィルソンと、景観設計家でハーバード大学准教授のサラ・ゼウデだ。ウィルソンは、2021年春にニューヨーク近代美術館(MoMA)の展覧会、「Reconstructions: Architecture and Blackness in America(再構築:米国における建築と黒人社会)」の共同キュレーションを行なっている。また、2冊の著書『Begin with the Past: Building the National Museum of African American History and Culture(過去から始める:国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館の建設)』、『Negro Building: Black Americans in the World of Fairs and Museums(ニグロビルディング:見本市と博物館の世界におけるブラックアメリカン)』でも知られている。

一方のゼウデは、ニューヨークでスタジオ・ゼウデを経営し、歴史的な黒人居住区であるピッツバーグのホームウッド地区で2万平方メートルの公園を設計したほか、米国深南部から選出された初の黒人下院議員であるバーバラ・ジョーダン(1936〜96)の記念像(ヒューストン)を手掛けている。

以下、ゼウデとウィルソンが、それぞれの最近の活動に触れながら、モニュメントの歴史と未来について語り合った内容を紹介する。

サラ・ゼウデ Illustration by Carlos Basabe
メーブル・O・ウィルソンIllustration by Carlos Basabe

メーブル・O・ウィルソン:リオデジャネイロでモニュメント制作プロジェクトが進行中ですね。それについて教えてもらえますか。

サラ・ゼウデ:奴隷としてアメリカ大陸に渡ったアフリカ人の40%はブラジルを経由していて、そのうち数百万人がリオデジャネイロのヴァロンゴ埠頭から入国しています。奴隷制廃止後この埠頭は埋め立てられたのですが、2010年、リオでオリンピックとワールドカップが開催されるのを前に、地下1.8メートルのところに完全な姿で残っているのが発見されたんです。活動家たちが市長にこの遺構を生かすよう訴えたのを受けて、市が決定したモニュメント制作プロジェクトに取り組んでいます。

最終的な設計案は、八つの異なる地点に配置された星座のようなもので、台座に物が置かれるわけでもなく、人名が書かれた壁もない。近隣に住む奴隷の子孫のための空間を作ることが狙いなんです。

大陸移動説によれば、数百万年前のブラジルとアフリカは、ひとつながりの陸地の一部だったといいます。アメリカ大陸に到達したアフリカ人はさまざまな植物の種を持ち込み、そうした植物の多くはアメリカ大陸で交配され、広がっていきました。今回のプロジェクトには、現在のブラジルに見られるアフリカ由来の植物を生かしています。また、空を映し出し、マイクロクライメート(微気候:周辺地域とは異なる局所的な大気条件)を生み出す、深さ10センチの水を張った広場もあります。

もう一つのモチーフは、プランターなどに巻いた白い布です。アフリカ系ブラジル人の伝統では、イチジクの木の根元に祖先が集まると考えられていて、人々は木の幹に白い布を巻いて目印にするんです。他にもいろいろありますが、あと4年ですべてを完成させたいと思っています。

ウィルソン:奴隷制の歴史的遺産をめぐるブラジル現地での議論について、どのように感じていますか?

ゼウデ:以前は米国との違いをあまり理解していませんでした。知り合いのモビメント・ネグロ(黒人運動)のリーダーの男性は、3年前には水道が使えない建物の中でマットレスを敷いて寝るという過酷な状況で暮らしていたんですが、今回の訪問時にはきれいなロフトに暮らしていました。仲間との活動がうまくいっているようで、黒人経営のビジネスを立ち上げ、変革を求めて戦っています。

前回の訪問から3年で何が起きたのかと尋ねたところ、「もし今、ジョージ・フロイドがどこかでビールを飲みながらスポーツ観戦でもしているとしたら……状況はまったく違っていただろう」という答えが返ってきました。ジョージ・フロイド事件の後、ブラジルでは人種差別に関する意識向上に多大な進歩が見られたようです。もしかしたら米国以上だったかもしれません。

ブラジルの活動家たちは、奴隷制度の歴史的遺産のモニュメント建設だけではなく、文化施設に多くの助成金や寄付金を確保し、さまざまな業種における黒人経営のビジネスに支援を取り付け、世界のどの国よりも大きな前進を遂げたと自己評価しています。これに対して米国では、議論や意識向上の域にとどまり、実質的な改革はほとんど達成されていないように思えます。

ウィルソン:なぜ質問したかというと、ブラジルの歴史が米国と大きく異なっているからです。ブラジル人は、「私の祖先がアフリカ人だということは知っているよね」とか、「私たちブラジル人はみんな混血の結果一緒になった幸せな大家族だ」と言うことがありますが、人種問題についての意識は薄いようです。私たちはみんなホモ・サピエンスという一つの種に属している。だからこそ、人種がどんな結果を招いているのか、権力のヒエラルキーを生み出すという点で人種がどのように作用しているのかについて考えなくてはならないのですが、ブラジルでは米国のような問題提起にはなっていません。

ただ、ブラジルでも米国と同様、所得格差がさらに拡大しています。たとえばバイーア州に行ったときのことですが、まるで米国の南部のように、通りすがりに出会うのはほとんど黒人の人たちでした。どこかに少しくらい白人がいるはずなのに変だなと思っていたら、ある晩シックな高級レストランに行くと、そこだけは白人がいたんです。

ゼウデ:先ほど話した活動家は、10年くらい前まで自分が黒人であることを知らなかったと言っていました。どうやらよくあることのようです。

サラ・ゼウデ、Concept Design for Valongo Wharf(ヴァロンゴ埠頭のコンセプト・デザイン(リオデジャネイロ、2018) Courtesy of Artist
サラ・ゼウデ、Concept Design for Valongo Wharf(ヴァロンゴ埠頭のコンセプト・デザイン(リオデジャネイロ、2018) Courtesy of Artist

ウィルソン:ところで、子どもの頃に見て印象深かったモニュメントはありますか?

ゼウデ:私はニューオーリンズの、リー・サークルの近くで育ちました。そこには南軍の将軍だったロバート・E・リーの記念像があって(2017年撤去)、私も大きな影響を受けました。道案内の目印として、また場を作る装置として価値があると思ったこともあります。伝統的なモニュメントに共通する教訓的な物語の影響がいかに強力か、理解するきっかけにもなりました。単純化された物語が、モニュメントとは何かという自分の理解の土台になったんです。実際の物語はもっと複雑なんですけどね。あなたの記憶にあるモニュメントは何ですか?

ウィルソン:私が育ったニュージャージー州の海辺の街では、第一次・第二次世界大戦のありふれた石碑が市庁舎前にあったくらいで、モニュメントについてはあまり記憶がないんですよ。私が最も衝撃を受けたのは、バージニア大学(UVA)建築科の学生時代に見た風景です。大学ではありとあらゆる物に歴史的な意味があり、トーマス・ジェファーソン(第3代米大統領、バージニア大学創設者でもある)を英雄として奉る空気が建築科の教育内容にも満ち溢れていました。

伝統至上主義は強烈で、かつて奴隷がいたはずなのに、カリキュラムの中で奴隷について見聞きすることはありませんでした。サリー・ヘミングス(トーマス・ジェファーソンが所有していた女性奴隷)のことは知られていましたが、それだけです。大学では「歴史は重要だ」「建築は歴史を基盤とするべきだ」と教えられましたが、一方で黒人の歴史は学ぶチャンスがなく、疎外感を感じたものです。

ゼウデ:風景といえば、ニューオーリンズのニュートラル・グラウンド(中央分離帯)にも影響を受けました。ニュートラル・グラウンドと呼ばれるのは、広い大通りを隔てる帯状の土地で、異なる人種を隔てる役割を果たしていたんです。

ウィルソン:それは知りませんでした。都市計画やレッドライニング(貧困地区など特定地域の住民には融資しないという差別)の以前から、人種や階級による区分が都市設計の一部だったことがよくわかる例ですね。

もう一つ私が大きな影響を受けたのが、1991年にニューヨークのロウアー・マンハッタンの埋め立て地で発見されたアフリカ人埋葬地です。私は当時、建築に関する議論や教育が黒人不在のものであると感じていたので、埋葬地が発見されたときは心を奪われました。それまで抑圧されていた存在が姿を現したことで、地図から消されていた埋葬地がこれからどのように表示され、歴史に記されるのかを知りたいと思ったんです。

私の初めての出版物はこの埋葬地を論じたもので、記念碑の制作に利用されるであろう黒人特有の美的センスと、その空間全体の背後にある政治性に焦点を当てています。ちなみに、埋葬地を論文のテーマに選ぼうかとも思ったのですが、結局は展覧会や博物館の分析を選びました。「アフリカからの移民の子孫には歴史や文化がない」という偏見を基盤とする文化施設で、黒人の歴史や文化をいかに表現できるのかを追究したかったんです。

ゼウデ:埋葬地のモニュメントについての提案を、偶然拝見したときのことを覚えています。カトリーナ台風の直後で、台風をきっかけに私が建築に興味を持ち始めた頃でした。あのプロジェクトは私に進むべき道を示してくれたんです。

ウィルソン:私たちのチームが提案したのは、コミュニティが手入れをすることで維持される公園です。埋葬されている人たちの直系の子孫は確認できませんでしたが、それでも地元には埋葬地を大切にしたいと願っている人たちがいました。そこで、あえて手入れの必要な公園を提案したのです。でも、結局は別の案が採用されました。国立公園局や共通役務庁が望んでいたのは維持しやすいモニュメントだったのだと思いますが、埋葬されている人々を見守るコミュニティを育てる必要があるという意識が欠けていたんですね。歴史を記憶している人々こそが歴史を生かし、そのストーリーや教訓を理解できるはずなのに。

ゼウデ:シャーロッツビルのモニュメントは完成したばかりですね。

メーブル・O・ウィルソン設計、バージニア大学のMemorial to Enslaved Laborers(奴隷労働者への記念碑)の風景 Courtesy of Artist
メーブル・O・ウィルソン設計、バージニア大学のMemorial to Enslaved Laborers(奴隷労働者への記念碑)の風景 Courtesy of Artist

ウィルソン:このプロジェクトでは、史料がとぼしい事件や人々を記念するモニュメントを作ることがいかに難しいかを実感しました。私たちはトーマス・ジェファーソンについて多くのことを知っています。生前から多くの文献が書かれ、彫刻、絵画などもあります。しかし、(バージニア大学やジェファーソンの邸宅であるモンティチェロの建設に携わった)奴隷たちについては、人数すら不明で、名前も生年月日もほとんどが失われています。このように消された人々をどうやって記念すればいいのでしょうか。

モニュメントを作ろうという活動は、バージニア大学の学生たちが中心となって始めたもので、大学側に奴隷制の歴史を振り返るよう働きかけていました。設計チーム(ミージン・ユン、エリック・ハウラー、グレッグ・ブリーム、フランク・デュークス、エトー・オティティグベ、メーブル・O・ウィルソン)が結成される以前から、実行委員会はすでに5年もの時間をかけて史料収集と考古学調査を行っていました。さらに、一般市民にも参加を呼びかけ、モンティチェロの奴隷の子孫たちとのつながりを深めていたのです。中でもデュークスは、バージニア大学都市計画学部で教鞭をとるかたわら調停人としても活躍し、大学としての補償問題にも取り組んでいました。そのおかげで、私たちが奴隷制度を過去のものとして記憶するためだけではなく、現在に影響を与えるものと捉えてモニュメントを作ろうとしていることを、広く理解してもらえたんです。

その時、黒人コミュニティが大学を「プランテーション(奴隷労働が行われていた大規模農園)」と呼んでいたことを知りましたが、それは当然のことです。地元住民の多くがひどい低賃金で働かされ、シャーロッツビルの黒人の多くは大学に通う余裕などなかった。その一方で大学は地元を飲み込み、学生の流入が家賃の高騰を招きました。このリング状の石造りの広場が、こうした歴史を認識し、大学と黒人コミュニティの関係についての対話を始めるきっかけになれば、モニュメントは役目を果たしたと言えるでしょう。

モニュメントが完成し、2020年6月に工事用フェンスが撤去された時にはコロナ禍のために正式な除幕式は行いませんでしたが、その後すぐにモニュメントのある場所でBLM(ブラック・ライブズ・マター)の抗議行動が行われました。そのときはむしろ、それこそが私たちが望んでいたことだという感慨を抱きましたね。

ゼウデ:モニュメントは、まさにそうした方向を目指すべきものですね。過去のことだけではなく、形や機能の面でも大きなチャレンジだと思います。バージニア大学のモニュメントは、実際に大学の日常生活と関わっていることが大きな強みです。どこまでモニュメントの概念を変えることができるか、記念碑などという言葉すらも使われなくなり、自発的に制作されるようになるのが私の願いです。

ウィルソン:最後に、いま執筆中の本について教えてください。

ゼウデ:フレデリック・ロー・オルムステッドが1852年から1854年にかけて米国南部を旅した時のことについて書いています。オルムステッドは、奴隷制に関する現地取材と執筆をニューヨーク・タイムズ紙から依頼されました。彼は放浪の旅をしながらも、セントラルパークのデザインを通じて景観設計という概念を広めた人物として知られています。一方で、19世紀の奴隷制について貴重な記録を残し、このテーマの文献としては引用回数がとりわけ多い筆者でもあります。

オルムステッドの個人的な手紙をじっくり読んだのですが、若い頃から奴隷制度について考えていたのは明らかです。この問題について悩み、国の状況に懸念を抱きつつ、旅で目にしたものすべてについて詳細に記録しています。その足跡をたどってみると、恐ろしい拷問が行われた場所が、現在は日用雑貨チェーンの店舗や銀行の駐車場になっていることがわかりました。「まさにこの場所で奴隷制が実践されていた」とは、まったくわからないくらい日常的でありふれた場所になっているのです。私自身、そうした事実を理解しているつもりでいましたが、実際に現地を見たことで初めて実感がわきました。「米国の景観設計はプランテーションから始まった」というのが、今書いている本の論点です。

南部への旅を終えたオルムステッドは、奴隷制度は奴隷が自分たちを人間だと思う思考能力すら奪ったと考えるようになります。そして、南部には市民生活というものへの意識がなく、そのために技術革新が進まず、白人ですら社会的地位を上げる機会が失われていると主張しました。奴隷にされた人々への影響は明らかだが、私たちは同じ人間なのだから、白人への影響も考慮すべきだとはっきり述べています。市民生活がパズルの重要なピースだという見方を示したオルムステッドは、米国の景観設計の開拓者というべき存在なんです。(翻訳:清水玲奈)

モデレーター:Emily Watlington

※本記事は、米国版ARTnewsに2021年10月25日に掲載されました。元記事はこちら

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