マヤ文明の「乳児にピアス」は人格付与の儀式だった──最新研究が明かす、その象徴的意味

マヤ文明では、乳児の耳にピアスを開ける儀式を通じて「人格」を付与していたことが、最新の研究から明らかになった。耳飾りは単なる装身具ではなく、個人のアイデンティティそのものとみなされていたという。

Photo: DEA / G. DAGLI ORTI/De Agostini via Getty Images
マヤ時代に作られた陶製の像。Photo: DEA / G. DAGLI ORTI/De Agostini via Getty Images

メキシコ南東部で栄えたマヤ文明では、生後間もない子どもたちの耳にピアスを開ける儀式を通じて「人格」を付与していたことが、最新の研究から明らかになった。モントリオール大学博士課程のヤスミン・フリン=アラジダルが実施した研究によれば、生後3カ月から1歳の間に行われるこの儀式は、マヤの子どもたちが人格を形成する過程で最も早期に行われる通過儀礼のひとつで、耳飾りは個人の生命の息吹「イク」の延長とみなされていた。

チョル語族やツォツィル語族の間では、魂は13の要素から構成されていると考えられており、病気や死を防ぐため、節目となる行事や儀式にはそれら要素を定着させる意味があったという。これらの魂の要素の多くは頭部に位置するとされ、イクのほかにも、アイデンティティに関わる「バー」や、心の記憶と理性を司る「オーリス」などが含まれる。こうした考え方のもと、子どもの成長に応じて頭蓋形成、性別に応じた衣服の授与、歯への装飾などが段階的に行われていった。

ピアスを開けることもそうした儀式の一つで、耳飾りは、マヤにおいて単なる装身具ではなく、イクと本質的に結びついた象徴的な存在だった。古典期(250年〜950年頃)の図像では、風の神がイクの象形文字をあしらった耳飾りを身につけて描かれており、耳飾り自体から突き出た管状や球状のビーズは、風や呼吸としての生命の力を視覚化したものと考えられている。

こうした象徴性は、捕虜を描いた図像においてさらに明確になる。捕虜の姿では、耳飾りが取り外されており、これは単なる装身具の喪失ではなく、人格やアイデンティティそのものを剥奪する行為を意味していたという。ピアスの穴が開いていた場所には、生贄用の布や紙が取り付けられることもあり、場合によってはあえて何も付けず耳を露出させることで、捕虜を辱める演出がなされていた。

このように、耳飾りの象徴的意味については図像から推測されているが、その着用開始時期については不明な点が多い。フリン=アラジダルはこの点に着目し、紀元前800年から紀元1500年に制作された、マヤの子どもを描いた83点の図像を分析した。

マヤの子どもを描いた図像は数が少なく、記念碑や壁画、陶器の器にはほとんど見られないが、陶製の小像には比較的多く残されている。フリン=アラジダルは、こうした資料に描かれた子どもたちを、大きさや行動、装身具などの識別要素に基づいて五つの年齢グループに分類した。その結果、耳飾りは早ければ生後3〜4か月の段階で確認されるものの、この時期の例は限られていた。一方、生後4か月から1歳の間には約半数の子どもが耳飾りを身につけて描かれており、1歳から4歳になる頃には、ほぼすべての子どもに耳飾りが見られるようになる。

この研究で示された耳飾りの着用時期を、他の通過儀礼に関する既存の民族史料と照らし合わせると、耳飾りは歩行の開始や性別に応じた衣服の着用よりも早い段階で身につけられていたことが分かる。16世紀に書かれた記録によれば、ユカタン半島のマヤ社会では、子どもは4歳頃まで裸で過ごし、その後、男子は腰布を、女子はスカートを着用するようになったという。一方、アステカ社会に関する民族史料では、衣服の授与はより後の年齢で行われていた。こうした史料との比較から、ピアスの穴を開ける儀式は、幼少期における最も早い通過儀礼の一つだった可能性が高い。

フリン=アラジダルは、今後もマヤの耳飾りに関する研究を継続する予定だ。過去に発見された耳飾りの大きさや重量を詳しく分析することで、耳たぶがどのように拡張されていったのかを明らかにすることを目指している。

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