「女性による犯罪」をアートで伝える理由とは? ベルリンのグループ展キュレーターに聞く

「母親らしくない行動」をしたから非難される。「女性だから」責任能力がない──。女性の罪は、法廷において女性性と絡めて見られることが多くある。ドイツのベルリンで2月19日まで開催されている「Guilty, guilty, guilty! Towards a Feminist Criminology」は、タブー視されがちな「女性の犯罪」に切り込んだグループ展だ。あえてアートからこのテーマを考察する理由を、キュレーターに聞いた。

「戦争は女の顔をしていない」とは、これまで耳を傾けられてこなかった第二次世界大戦に従軍した女性たちの物語をまとめたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの本のタイトルだ。それならば「犯罪は女の顔をしていない」とも言えるかもしれない。犯罪学のなかでも特に女性が犯した犯罪に関しては研究が進んでおらず、また犯罪学のなかでもフェミニズムが深められていないのが現状だからだ。

ドイツのベルリンで2月19日まで開催されている展覧会「Guilty, guilty, guilty! Towards a Feminist Criminology(有罪、有罪、有罪!フェミニスト犯罪学に向けて)」は、こうした現状に風穴を開けようとしている。

会場は古い病院の一部を改装したアートスペース「クンストラウム・クロイツベルク」。細長い廊下に続くいくつかの小部屋に、その背景や手法、制作年代も多岐にわたる作品が一見脈絡なく並んでいる。1970年代に起きた誘拐事件の被害者の報道写真を引き延ばした、粗いモノクロ写真が壁を覆っているかと思うと、次の部屋ではイスラエルの法のもと刑事責任を問われるパレスチナの少女を描いた映像作品の声が響き渡る空間に、殺人を犯したトルコ人女性たちの肖像画が並ぶ。小さなホールのような空間には、ナチス女子強制収容所看守の裁判記録が階段状の台にインスタレーションされている。16のアーティストやコレクティブが手がけた展示作品の多くは、実際に起きた犯罪をモチーフに、法廷に立つ女性たちにフォーカスしたものだ。

テロリスト、ナチスの強制収容所看守、妻、そして母。女性が「有罪」とされるのは、法を犯したからか、それとも「女性らしくない」おこないをしたからなのか──。あえてアートという切り口でこの問題に取り組んだキュレーター、ソニア・ラウに話を聞いた。

「Guilty, guilty, guilty! Towards a Feminist Criminology」のキュレーションを手がけたソニア・ラウ。

「被害者としての女性」からの解放

フリーランスのキュレーターとして、アートや権力と歴史の関係や、美術史がつくられるメカニズムに重点をおいた展覧会を企画し続けてきたラウ。現在はイスタンブールとベルリンを行き来しながら、現代法学における女性性の評価について研究を続けている。

「女性に対する暴力と家庭内暴力に反対するイスタンブール条約が2011年に署名され、欧州評議会加盟国の間で現在までに40カ国以上が署名しましたが、トルコは2021年に離脱を発表しました。ブルガリアは一度署名したものの批准を見送っており、家庭内暴力が多く報告されている国でもあります」

女性の立場が守られていないからこそこれらの国のフェミニズム運動はよりラディカルで、またさまざまな制約があるためにプログレッシブでもあるというラウは、今回の展覧会のためにもトルコのアーティストに新作を依頼したと言う。

ラウが今回の展覧会を企画するきっかけになったのは、1981年に西ドイツで起こったある事件だった。女児殺人事件の裁判で、殺された子どもの母が法廷で容疑者の背中に8発の銃弾を放ち、容疑者を撃ち殺したのである。

戦後ドイツで最もセンセーショナルな私的制裁事件を起こしたその母親の名は、マリアンネ・バッハマイアー。娘を殺した犯人に復讐を遂げた母として、彼女は一躍脚光を浴び、多くの人から同情と理解を集めた。報道も当初はバッハマイアーに対して好意的なものだったが、彼女の生涯が公表されると風向きが変わってくる。

殺された娘アンナは3人目の子どもで、バッハマイアーは前の2人を養子に出していた。また彼女は居酒屋で働き、ネグレクト気味だったらしい……。こうして「悪い母」への非難の声は高まった。

「バッハマイアーの罪とはなんだったのでしょうか?法を犯したことなのか、それとも女性としてそれをしたことなのか。彼女が昔ながらの被害者としての女性の役割から自由になって『女性としての服従』に極端に矛盾する行いをしたことが、本質的なタブーに触れたことは確かでしょう」と、ラウは問う。「彼女は加害者としての役割を要求し、それに対して責任を負う覚悟もあったのです。しかしバッハマイアーに対する有罪判決は、彼女の訴えにも関わらずそう簡単には出ませんでした。つまり、女性の行為能力を認めない傾向があり、それが時には有罪判決に至らないことすらあるということです。女性は必ずしも被害者である必要はありません。“罪を犯したと認められる権利“というものもあり、この権利は行為能力を認めることにも通じるからです」

バッハマイアーは加害者として、“罪を犯したと認められる権利“を認められなかったため、まずは母としての役割が評価されることになったのだとラウは分析する。つまりバッハマイアー自身には強い行為能力(法律をひとりで有効に行える能力)があるにも関わらず、それを認められず劣った立場とされ、そこからの論証が行われ続けたというのだ。今回の展覧会ではあえて女性の正犯に重点をおき、フェミサイド(*1)を取り上げないようにしたという。

*1 女性であることを理由に女性や少女を狙った殺人。

アートだからこそ伝えられること

フェミニズムという視点から、犯罪の原因や性質などを科学的に紐解いていこうとする「フェミニスト犯罪学(Feminist Criminology)」。しかし、ここでのフェミニズムの定義が一つではなかったり、男性の犯罪と同等に扱うべきだとするものもあれば、その犯罪を起こす要因に目を向けようとするものなど、時代によって切り口も考え方も違いがあるなど非常に複雑だ。しかしビジュアルアートならば、犯罪学にもフェミニズムにもあまり興味がない人に対してもアプローチできるとラウは言う。

「ひとつのテーマを掘り下げるなら論文がよいでしょうが、アートならばより対話的に作業することができますし、さまざまな視点や異なる観点から見ることもできます。この展示で作り上げている迷路のような空間も、その考え方に対するものです。それぞれの作品は“テーマ“ではなく、一般的に受け入れられている女性像からかけ離れていることで繋がっているのではないかと、私は思います。そのためには力、時には怒りが必要で、アーティストたちを結びつけているのはその怒りなのです。彼らの中には、家庭裁判所での離婚調停など、自らが裁かれた経験をもつ人もいました」

緩やかに3つに分かれた空間には順路をつくらず、起こった場所も年代も動機も多彩な事件をモチーフとした作品を、複雑に絡み合うように展示した。観客はそれぞれの共通点や相違点を考えながらぐるぐると、作品の世界へと引き込まれていく。 

展覧会に足を踏み入れると、まずデニス・アダムス(Dennis Adams)の作品に目を奪われる。壁一面を覆うモノクロ写真はパトリシア・ハーストを撮影したものだ。新聞王の孫としてアメリカの左翼過激派に誘拐され、その後はテロリストと共に強盗を行うという“突然の変身“が全米のメディアで繰り返し報道されたハースト。AからZまで通し番号をつけた報道写真からは、彼女を見る目のフレーミングの変化が伝わってくる。

デニス・アダムスの作品「Patricia Hearst - A Thru Z(パトリシア・ハースト AからZまで)」。1979〜1981年の作品。AからZまで通し番号をふった104枚の写真で、ドイツ赤軍のアンドレアス・バーダーに関する文章をつくった。

奥の部屋には、この展覧会のためにルズガル・ブスキ(Rüzgar Buski)が作った大きな木版画がかけられている。家父長制の中の所有関係から離れ、生き延びるために反乱を起こして犯罪者となったトルコの”スーパーウーマン”たち。生命力に溢れた、意志的な眼差しが来場者を捉えて離さない。

社会構造としての身体とアイデンティティをテーマに制作を続けているベルリン在住のトルコ系アーティスト、ルズガル・ブスキ。「Ne seninim, ne de kara toprağın(私はあなたのものでも、黒い大地のものでもない)」は今回の展示のために作られた新作。

その一方、女性だからという理由で罪を逃れた人たちもいる。ドミニク・ヒュルト(Dominique Hurth)は、ナチス時代ドイツ領で最大の女性強制収容所だったラーフェンスブリュック女性強制収容所の看守の裁判記録からインスタレーション作品を作った。加害者も被害者も女性である。その罪が裁かれた時、(男性)裁判官は加害者側は女性であるが故に責任能力がないとし、その知能にも疑問を呈した。時にはそれが無罪判決につながることすらあったという。

ナチス時代の女性犯罪者をリサーチし、作品にし続けているドミニク・ヒュルト。「Case/Stage (“The background of an evidence given by women against women”)(事件/舞台 女性による女性に対する証拠の背景)」はこの展覧会のために制作された作品で、1945年と1947〜1948年の裁判記録を元にしている。

ノア・ガー(NOA GUR)によるパフォーマンスは、ネオナチによる人種差別的な行為を訴え出たエジプト人女性が、裁判の際に容疑者に16回もナイフで刺されて死亡した2009年の事件を題材にした作品だ。数々の証言や新聞記事などから逆回転するように再現している。国家権力によってもたらされたマルワ・エル=シェルビニの死。命が失われた瞬間から、ゆっくりと時間軸が巻き戻っていく。

イスラエルとベルリンで活動するアーティスト、ノア・ガーのパフォーマンス「The First Moment of Marwa El Sherbini(マルワ・エル・シェルビニの最初の瞬間)」。人種差別を告発した女性が法廷で殺され、警察は犯人ではなく、犯人に向かっていった夫の足を撃った。シェルビニの家族がドイツの裁判所に対して起こしている訴訟は3度却下されているこの事件の、時計の針を巻き戻そうという試み。

不公正な体験を伝えるために

この展覧会のタイトルでは「Guilty(有罪)」という言葉が3度繰り返される。展覧会のウェブサイトには問いが並ぶ。

殺したから罪なのか?
まだ生きていることが罪なのか?
法を犯したから罪なのか、それともその行いが「女性らしく」なかったことが罪なのか?

そこからは、言葉だけでは語り尽くせない思いが込み上がってくる。「このような文脈における不公正な体験というものは伝わりにくいものです」と、ラウは言う。「文章だけで伝えるのは非常に難しい──共感は時には親しみやすさや、空間的かつ感覚的なものの仲介にも結びついて起こるものです。そして、アートにはそれが可能なのです。アートならば、ありとあらゆる形で鑑賞者に与え、新しい連帯感を作り出せます」

規模は小さいが、じわじわと波紋が広がるように反響が広がっているこの展覧会。アートの新たな役割が、ここに垣間見える。

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