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「アートかポルノか」論争の主役、ミケランジェロ作ダビデ像の誕生秘話

イタリア・ルネサンスの巨匠、ミケランジェロダビデ像を6年生の美術史の授業で取り上げたフロリダ州の学校で、保護者からポルノだと苦情を受けた校長が3月下旬に辞職した。実は、この一件で注目されたダビデ像の制作過程には紆余曲折がある。

ミケランジェロ《ダビデ》(1501–04)Photo: Jörg Bittner Unna/Wikimedia Commons

ダビデ像は、巨人ゴリアテを倒した勇者として旧約聖書に登場する若い羊飼いを描いたミケランジェロの彫像だ。

フロリダ州タラハシー・クラシカル・スクールの一部の保護者がダビデ像の図像を問題視した理由は、一糸まとわぬ姿で立つダビデの男性器が露わになっていることにある。校長辞任騒動の後、ダビデ像を所蔵するフィレンツェの美術館は、学校の生徒とその保護者に作品の実物を鑑賞するよう呼びかけ、フィレンツェ市長も辞職した前校長に同様の呼びかけをしている。

この彫刻に眉をひそめる人々が写真で見るだけでは分からないだろうが、実物を見ると、ダビデの性器はかなりの存在感を放っていることが分かる。高さが5メートル以上もある巨大な彫像は、全体の半分ほどの高さの台座に乗っている。そのペニスは身体のわりに小さいが、無視することはできない。

鍛え抜かれた若者の肉体美を体現するダビデ像は、ミケランジェロが古代のギリシャ彫刻をふまえて作ったもので、彫刻芸術の最高峰であることは間違いない。だが実は、この作品が誕生するまでには長い物語がある。最初に計画されたのは、ミケランジェロが制作に取り組んだ1501年から1504年よりはるか以前のことだったのだ。

それは1464年、フィレンツェにあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の造営局が、彫刻家アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョにダビデ像の制作を依頼したことから始まった。カッラーラの有名な採石場から切り出された巨大な大理石がフィレンツェに運ばれ、ディ・ドゥッチョは制作に取り掛かる。だがその2年後、脚や胴体、衣などの大まかな形を掘っただけで制作をやめてしまった。10年間放置された後にアントニオ・ロッセリーノが制作を引き継ぐが、彼もすぐに解任された。

大理石の塊はそれから26年間も大聖堂の工房の外で風雨にさらされた後、ようやく作品を完成させるため彫刻家を募集することになった。候補者の中にはレオナルド・ダ・ヴィンチの名も挙がっていたが、最終的にミケランジェロが選ばれた。

こうしてダビデ像は完成したものの、新たな問題が浮上した。6トンもあるこの彫刻は、設置場所として予定されていた大聖堂の屋根近くまで吊り上げるには重すぎたのだ(この像が巨大なのは、遠くから眺めることを想定していたため)。

結局、ダビデ像は1504年6月に、ヴェッキオ宮殿の入り口脇に置かれることになった。時代は下って1873年、設置された地面に凹凸があるため像に亀裂が生じていることが判明。彫刻はアカデミア美術館の中に移され、もとの場所にはダビデ像のレプリカが置かれた。

1991年には、ピエロ・カンナータという錯乱したアーティストがダビデ像にハンマーを持って襲いかかり、つま先を叩きつけているところを取り押さえられた。彼は後に、16世紀のヴェネチアの画家のモデルに命令されたのだと動機について語っている。

ミケランジェロが同性愛者だったこと、そしてこのダビデ像は現代のクィア的な美学の原型だと言えることを知れば、モラルを振りかざす人々は愕然とするのではないだろうか。だが、どのような検閲も、ダビデがすべてをさらけ出しているという事実を変えることはできない。(翻訳:野澤朋代)

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