ホッパーの遺作も。ブルース博物館に5000万ドルを超える“前代未聞 ”の寄贈をしたのは誰?
米・グリニッジのブルース博物館に、地元在住の匿名夫妻が美術品コレクション70点を寄贈した。
設立以来112年の歴史で最大規模の美術品寄贈について、グリニッジの文化シーンに詳しい業界人たちは、寄贈主の正体について固く口を閉ざしている。ARTnewsはグリニッジとニューヨークの20人近い関係者に電話取材をしたが、名前を明かす人はいなかった。しかし、オークションでの落札と慈善活動の実績がある人物だという情報は掴めた。
今回の寄贈作品の約4分の1に当たる17作品について、同程度の作品の落札価格を分析したところ、総価値は5000万ドル以上と推定される。
寄贈品には、2012年にクリスティーズで1020万ドルで落札されたエドワード・ホッパーの《Bridle Path(乗馬道)》(1939)と、20年に51万9000ドルで落札されたメアリー・カサットの《Two Little Sisters(幼い姉妹)》(1901-02)が含まれている。
調査をする中で、16年にバーモント大学フレミング美術館(バーリントン)で行われた匿名の卒業生からの貸与作品の展覧会で、《Bridle Path(乗馬道)》と、同じく寄贈作品であるカミーユ・ピサロの《Fenaison à Éragny(エラニーの日没)》が展示されたのがわかった。その匿名の卒業生と推測されるのは、地元の慈善家スティーブン・M・グロスマンだ。彼はバーモント大学の卒業生であり、同大学のビジネススクールへの大口寄付者でもある。そしてスティーブン・グロスマン財団は、20年10月に行われたブルース博物館増築のための募金に寄付をした上位4名に含まれている。
ただし、これらの情報は確かな証拠にはならない。ブルース博物館のロバート・ウォルターストーフ館長は、守秘義務を理由に人物の特定を拒否した。
ブルース博物館の拡張計画では、6000万ドルをかけて規模を2倍に拡大し、4000平方メートルの展示スペースを新設する予定だ。工事は20年10月に始まったが、21年1月に中断している。このとき博物館側は「大規模な拡張計画に伴う成長痛」と説明し、休館を発表した。
ウォルターストーフ館長は、今回の寄贈について「前代未聞」とし、ARTnewsのメールインタビューで「その規模と質において、ブルース博物館にとっては前例のない寄贈といえる。同館がこれまでと同じプログラムの展示が行えるような、高い水準の永久所蔵品コレクションを確立するために役立つ」と述べた。寄贈主は美術品コレクションに加えて、拡張のための資金も寄付したとされるが、博物館は金額の公表を拒否している。
ARTnewsが確認した税務書類によると、ウォルターストーフ館長が19年にブルース博物館館長に就任して「新ブルース体制」と呼ばれる拡張計画を指揮する立場に就いた当時、同博物館の資金残高は4030万ドルだった。現館長の前任はオランダ人美術専門家で長年グリニッジに在住するピーター・サットンで、地域の人々が集まる芸術科学展示施設にすぎなかったブルース博物館を、中規模の博物館にまで成長させたと評価されている。
ブルース博物館は美術界の世界地図に刻まれる
アメリカ美術の専門家たちは、この寄贈によってブルース博物館の美術館としての活動の幅が広がると期待を寄せている。同博物館は長年にわたり、地元の超富裕層を主なターゲットに運営され、近接するニューヨークの文化施設と入場者数を競い合ってきた。ニューヨークで長年アメリカ美術を扱ってきたアートディーラーのデブラ・フォースは、同博物館は「ニューヨークに近いという事情から長年にわたって困難な状況にあった」と述べ、今回の寄贈が大きな変革をもたらすとの見方を示した。
パブロ・ピカソ、ウィンスロー・ホーマー、アンドリュー・ワイエスの作品を含む寄贈コレクションの中でも目玉と言えるのが、エドワード・ホッパーの遺作《Two Comedians(二人のコメディアン)》(1965)だ。妻とともにいるホッパー自身を描いていて、夫妻で歩んできた人生の終焉に向けた決意表明であるとも解釈される。一時はフランク・シナトラが所有していたことがある作品で、18年にはサザビーズで1250万ドルで落札された。
1965年にカンバスを前にしたホッパーは、自分自身と妻のジョーをピエロに扮した姿で描いた。二人はすでに幕の降りた舞台で観客に最後の挨拶をしている。67年に83歳で亡くなる前にホッパーが手がけた最後の作品であり、ともにアーティストだった夫妻が病に倒れたとき、ホッパーが画家としてのキャリアに大いに影響を与えた妻を称えて描いた絵画と考えられている。美術史家ゲイル・レヴィンは「手を取り合った役者たちがともに最後を迎えつつある」と解説している。
美術史家ロバート・ホッブスは ARTnewsの取材に対し、ブルース博物館について「これまでは、たまに大型の展覧会を行う未熟な美術館だった」と説明し、今回の寄贈によって「重要な美術館になるべく軌道修正が行われるだろう」と語った。ウォルターストーフ館長は、今回の寄贈によってニューヨーク都市圏だけではなく「米国全体や国外からも見学者が集まることを期待している」と述べている。
寄贈コレクションにはこのほか、フレデリック・チャイルド・ハッサム、ジョン・シンガー・サージェント、ワシリー・カンディンスキー、ジョアン・ミロ、アルベルト・ジャコメッティ、ヘンリー・ムーアらの作品が含まれている。ブルース博物館と同じニューイングランド地方コネチカット州にあるニューブリテン・アメリカンアート美術館のアソシエイト・キュレーター、リサ・ヘイズ・ウィリアムズは、「今回の寄贈はゲームチェンジャーになりうる」と評した。さらに、近隣の公共文化施設である同博物館がこれらの作品を所蔵するのは「私たちにとっても有益なことである」とも述べた。
都市部の美術館に匹敵する常設コレクションを持たなかった同博物館にとって、今回の寄贈は歴史的なできごとだ。現時点で2万5000点の所蔵品は、アメリカ先住民のアート、ハドソン・リバー派やアメリカ印象派の絵画、写真、古代中国の彫刻が中心となっている。ウォルターストーフ館長は、今後はモダニズムとそれに連なる後年の作品を中心にコレクションを発展させていきたい意向を表明している。
「私たちは、今日の来館者と深く関連する重要な常設コレクションを作るために、1850年から現在までの世界の近現代美術に力を入れたいのです」と説明している。
この変革のために、投資家のスティーブ・A・コーエン、前出のグロスマン、そして慈善家ウィリアム・リクターら、地元の有力者たちが寄贈を行なってきた。2019年、コーエンは500万ドル、リクターは1500万ドルを、1992年以来初めてとなる拡張計画の第一弾に寄付した。すべての作品は、グリニッジの自治体が管轄する公共施設である同博物館の永久収蔵品となることが約束されていると、同博物館の代表は確認している。
「この地域には戦略的なコレクターが多い」と、コスコブにあるグリニッジ歴史協会の学芸員、マギー・ディモックは分析し、今回の寄贈は、かつて19世紀後半にグリニッジに集まっていたアメリカ印象派の作家と地元のつながりをより強めることになると指摘する。
数十年にわたって個人蔵だったホッパーの代表作のうちのいくつかが、近年になって次々とオークションに登場している。そのおかげで、かつては保守的でプライバシーを重視する収集家たちに愛好されてアメリカ美術の中でも過去の遺物とみなされがちだったホッパーの作品が、今見直されつつある。《Two Comedians(二人のコメディアン)》は20世紀半ばに制作され、美術史上2つの重要な時代にまたがる作品であり、ブルース博物館が過去と現代をつなぐ施設へと変革を進行させている過渡期にその所蔵品となることが決まった。
「グリニッジだけでなく、周辺のコミュニティー全体にとって大きな財産となり、発展の礎となる寄贈です」と、ニューヨークのボナムズのアメリカ美術担当、モーガン・マーティンは述べた。(翻訳:清水玲奈)
※本記事は、米国版ARTnewsに2022年4月26日に掲載されました。元記事はこちら。