訃報:「ルールに沿って描く」唯一無二の絵画を開拓した巨星、ジェニファー・バートレットが死去。日本には天井画を残す
あらかじめ決められたルールに沿って絵を描く実験的な手法で知られるジェニファー・バートレットが、7月25日にニューヨーク州ロングアイランドで死去した。81歳。逝去にあたり、バートレットが所属するニューヨークのポーラ・クーパー・ギャラリーとマリアン・ボウスキー・ギャラリーが共同で声明を発表した。なお、バートレットは千葉県銚子市の寶満寺に天井画を残している。
同世代のアーティストの誰とも違う作品を残したバートレットは、その独自性で熱心なファンを獲得した。彼女の特徴は、まったくのコンセプチュアル・アートではなく、ミニマリズムに抽象表現を適応させる独特の手法を編み出したことだ。また、具象から完全に離れず、半抽象のスタイルで制作を行うという絶妙なバランス感覚も持ち合わせていた。
彼女の作品は、巨大な壁面を覆う壮大なグリッド(格子)状の抽象画から、小さいサイズのレトロな雰囲気のものまで多岐にわたる。病院の廊下のようなありふれた光景や、グリッド状に色が塗られたまばゆいばかりの風景、そしてアメリカ同時多発テロ事件をテーマに描いたものも制作している。
ポーラ・クーパー・ギャラリーとマリアン・ボウスキー・ギャラリーは共同声明で、バートレットは「同世代で最も高名な作家の1人で、ミニマリズムの洗練された美と、表現豊かでエモーショナルな描写を違和感なく融合させ、多彩な作品を数多く残した」と賛辞を贈っている。
バートレットの出世作になったのは、全長45メートルを超える《Rhapsody(ラプソディー)》(1975–76)だ。たくさんの絵がグリッド状に並んだ作品で、山や海などシンプルな自然の要素を組み合わせたものもあれば、曲線が整然と並んだものもある。この作品は、全体で「何もかも」を表現しているというのがバートレットの説明だった。
《Rhapsody(ラプソディー)》(1975–76) Photo: John Wronn/Museum of Modern Art
《Rhapsody》は、特異な制作方法を用いたバートレットを象徴する作品だ。カンバスと油絵の具の代わりに、約30センチ角の正方形のスチール板とエナメル塗料を用いている。それぞれの絵は、バートレットのロングアイランドとマンハッタンのスタジオで1つ1つ制作され、満足のいく出来かどうかは描いたその日のうちに決めていた。それぞれのモチーフはありふれたものだが、描こうと決めた対象の詳細を、図書館で何時間も調べることもあったという。
1976年にポーラ・クーパー・ギャラリーで展示されるやいなや、《Rhapsody》は高い評価を受けた。ニューヨーク・タイムズ紙の評論家ジョン・ラッセルは、「ニューヨークに住むようになって以来、自分が見た新しいアートの中で最も野心的な作品」と評している。
そして、後に大コレクターになるシドニー・シンガーが、一連の作品を4万5000ドルで購入。1985年にニューヨーカー誌に掲載されたバートレットのプロフィールでは、この金額を「天文学的」と表現している。バートレット自身は、この作品がバラバラになるのは嫌だと思いつつ、「そっくりそのまま売れるとは想像もしていなかった」と話している。
シンガーは後にこの作品を売却。90年代には、不動産デベロッパーで後にアート収集に没頭することになるエドワード・R・ブロイダに100万ドル以上の値で買い取られた。バートレットが正式にギャラリーに所属していなかった頃のことで、彼女は売買金額のかなりの割合を手にしたという。ブロイダは2006年に亡くなる前、《Rhapsody》を含む200点近い作品をニューヨーク近代美術館に寄贈している。2019年のコレクション展示替えの際、《Rhapsody》は同美術館の広々としたアトリウムに展示された。
ジェニファー・バートレットは、1941年にカリフォルニア州ロングビーチで、建設会社社長の父と、ファッションイラストレーターの母との間に生まれた。両親は娘にとても具体的な将来像を描いていたという。「母は、私がホールマーク(グリーティングカードメーカー)で働いて、趣味で絵を描き、幸せな結婚をして、子どもを産み、ロングビーチに住むことを望んでいたんですよ」と、バートレットはピープル誌に語っている。しかし、彼女の目標は遠く離れたニューヨークに移り住み、アーティストになることだった。
バートレットは、シンデレラを何百回も描くような、絵の好きな少女として育った。オークランドのミルズ・カレッジで美術を学んだ後、イェール大学で修士課程に進み、医学生だったエドワード・バートレットと出会い結婚した。しかし、ニューヨークのアートシーンで足場を固めようとした彼女と、コネチカット州に残ったエドワードの結婚は、結局続かなかった。
ジェニファー・バートレット(1975) Courtesy Paula Cooper Gallery
マンハッタンでは、ソーホーにスタジオを構え、エリザベス・マレー、ジョナサン・ボロフスキー、バリー・ルヴァといったアーティストたちと交流するようになる。1970年には、当時の有名アーティスト、アラン・サレットのアパートでニューヨークデビューを果たした。そこで展示されたのは数点の初期作品で、特定の色を使わず、自らが考案したシステムで色を組み合わせたものだった。バートレットは評論家のカルヴィン・トムキンスに、「オレンジとか紫は必要ないけれど、グリーンは使わないといけない」と語ったという。
トムキンスはこう書いている。「バートレットのやっていることは、一見コンセプチュアル・アートのように思える。数学的なシステムを使って、ドットの配置を決めているからだ。だが、結果的には決してそうは見えない。明るくはっきりした色のドットが、グリッドの上で跳ね回り、群れをなしているようだ」
一方、バートレット自身の説明はもっとストレートだ。2013年のニューヨーク・タイムズ紙のインタビューでは、こう語った。「グリッドは美しいものではありません。グリッドは整理の方法。私は物事を整理するのが好きなんです。何でもかんでも」
バートレットの70年代の作品は、よく美術以外のものと比較される。評論家のハル・フォスターは、彼女の作品と音楽の類似性を指摘した。また、バートレットは1985年に『The History of the Universe(宇宙の歴史)』という回想録を執筆しているが、この文章と絵画作品に共通点を見る人もいる。しかし、彼女自身はこうした比較には否定的だ。
70年代から80年代、バートレットは当時の米国ではめずらしく、女性画家として名声を得ている。77年にはドイツ、カッセルのドクメンタに、80年にはヴェネチア・ビエンナーレの米国館に出展するなど、アーティストなら誰もが望む業績を残している。85年にはミネアポリスのウォーカー・アート・センターを皮切りに回顧展が全米を巡回。ニューヨークのトップギャラリーの1つ、ポーラ・クーパー・ギャラリーはバートレットの個展を数多く開催し、フィラデルフィアのロックス・ギャラリーも90年代からバートレットの作品を紹介するようになった。
《Pacific Ocean(太平洋)》(1984) クロッカーアートミュージアム所蔵 画像引用元:https://www.crockerart.org/collections/american-art-after-1945/artworks/pacific-ocean-1984
その後のバートレットは、自然への興味を深めていくようになる。1980〜83年の《In the Garten(庭にて)》シリーズは、フランスのニースにある別荘の庭をさまざまな角度で描いた200点ほどのドローイング作品だ。また、大規模なコミッションワークも受けるようになった。その1つに、米国の情報通信系企業AT&Tのために制作した《Pacific Ocean(太平洋)》(1984)がある。全長約9メートルの画面に、打ち砕ける波をリアルに描いたこの作品は写真のようにも見える。
海とビーチは彼女の作品に繰り返し登場するテーマだが、2007年のシリーズ「Amagansett(アマガンセット)」では、ブレた線でできたグリッドの上にロングアイランドの風景が描かれている。
もう1つ、バートレットの作品によくあるテーマは時間の経過だ。1991〜92年の「AIR: 24 Hours(空気:24時間)」シリーズは、バートレットのマンハッタンのスタジオとその周辺の1日を捉える試みで、午前5時にダンサーが通りを歩き、午前11時に木箱が開梱され、午後5時に睡蓮の下を鯉が泳ぎまわる、というように、あちこちに視点を移動させて描いている。
ジェニファー・バートレット《AIR: 24 Hours, Five P.M.,(空気:24時間、午後5時)》(1991–92) Corbis/VCG via Getty Images/Metropolitan Museum of Art
バートレットは生涯にわたって、自らの名を知らしめた手法から逸脱することはなかった。2011年にはペース・ギャラリーで、《Rhapsody》のように巨大な、全長約48メートルの大作《Recitative(レチタティーボ:叙唱)》を発表している。アート・イン・アメリカ誌のジェフ・フレデリックは、「いわゆるデジタルアートと言われるどの作品よりも、デジタル時代について深く考察している」と絶賛した。その2年後、こうした作品を集めた回顧展が、ペンシルバニア美術アカデミーと、パリッシュ美術館(ニューヨーク州ウォーターミル)で行われている。
美術史家はバートレットの作品を説明する時に偉そうな概念を持ち出すことが多いが、彼女自身はいつも、自分のやっていることはどこか直感的なものだと言っていた。
2005年にボム誌のインタビューで、バートレットは画家のエリザベス・マレーにこう語っている。「30年もの間、自分は賢いとか絵が上手だとか、ああだこうだと周りの人や自分自身に理解させようとしていたんです。でも、そんなことは無理な話で、納得させなければならないのは自分だけ。それが私のやらなければいけないことなんですよ」(翻訳:平林まき)
※本記事は、米国版ARTnewsに2022年7月26日に掲載されました。元記事はこちら。