ツタンカーメンの黄金マスクは別人のもの?etc. ロマンあふれる考古学的発見10選
過去何世紀にもわたり、遠い昔に滅びた文明の証拠となる遺物が発掘されてきた。今も世界各地で続けられている発掘調査で見つかった遺跡や遺物の中から、10の重要発見を選んで紹介する。
大がかりな調査で発掘されたものであれ、偶然見つかったものであれ、遺物にはいにしえの儀式や職人の技術、社会的価値観、日常生活など、それを生み出した文化を知る手がかりとなる貴重な情報が含まれている。
たとえば、ロゼッタストーンの発見は古代エジプトの象形文字、ヒエログリフの解読に結びついた。フィンランドのスオンタカの墓地からは、丁重に葬られたノンバイナリー(*1)の人物が見つかり、この人物に敬意が払われていたことが明らかになっている。
*1 性自認や性表現を男女二元論に当てはめないこと。
それでは、世界的に重要な考古学上の発見10選を紹介しよう。
1. モアイ像
南太平洋に浮かぶチリのイースター島(先住民はラパ・ヌイと呼ぶ)には、一枚岩の彫像、モアイ像が約1000体も並んでいる。直立した人間のような姿の像は、主に凝灰岩を素材とし、すぐれた技術を持つ職人によって彫られたと考えられている。大きな頭に様式化された四角い顔があり、鼻、耳、唇が目立つのが特徴的だ。特別な儀式の際には、モアイ像の目に白サンゴの白目や赤い石の瞳が入れられたと考えられている。モアイ像の高さは約2〜9メートルと幅があり、重さは最大で80トンに達する。そして、多くは未完成のまま放置されていた。
モアイ像についてはまだ解明されていない謎が多くあるが、先住民の祖先を祭るものとして、紀元400年〜1500年の間に作られたと研究者たちは推測している。ほぼ全てのモアイ像が、イースター島の住民を見守り、保護するかのように内陸を向いて立っているが、7体だけは海に向いている。言い伝えによれば、この7体は島に来る船を見張っていた島民たちを表しているという。
モアイ像のあるラパ・ヌイ国立公園は、1995年にユネスコの世界遺産に登録された。2022年秋、火山から始まった山火事でモアイ像の一部などの遺跡が焼ける被害が出た。被害状況の調査は現在も続いている。
2. ロゼッタストーン
ロゼッタストーンは、幼王プトレマイオス5世の徳をたたえる石碑として約2200年前に作られた。大きな石板の一部で、紀元前196年に司祭の評議会で採択された勅令が記されたもの。ロゼッタストーンには、古代エジプトの神聖文字(ヒエログリフ)、民用文字(デモティック)、ギリシャ文字で勅令の一部が刻まれている。3つの文字で同じことが書かれているおかげで、研究者たちは民用文字とギリシャ文字をもとに、それまで謎の言語だったヒエログリフを初めて解読することができたのだ。
花崗閃緑岩でできたロゼッタストーンは、1799年にフランスのナポレオン軍がエジプト遠征を行った際、エジプト北部のナイル川デルタ地帯にあるラシード(ロゼッタ)近くで砦を作っていた兵士によって偶然発見された。その後、ナポレオン戦争の協定により英国がフランスからロゼッタストーンを獲得し、1802年から大英博物館が保管している。言うまでもなく大英博物館の代表的な展示品だが、長らくエジプトへの返還を求める運動が続いている。
3. ベニン・ブロンズ
ベニン・ブロンズと呼ばれる青銅彫刻は、現在のナイジェリア南部にあったベニン王国から1897年に略奪された。その数は5000点を超えるとされ、青銅や象牙を用いた置物やベニン王国の統治者の彫刻、仮面などが含まれている。
1897年、イギリス人探検家ジェームズ・フィリップスがベニン王国で紛争に巻き込まれ、武装していなかったにもかかわらず使節団の数人やアフリカ人ポーター200人とともに殺害された。大英帝国はその復讐として軍隊を送り込み、ベニン王国から大量の美術品を盗み出している。大量の貴重な遺物は、一部が大英博物館に貸し出されたほか、イギリスやドイツの博物館や個人ディーラーに売却され、あるいは軍事作戦の参加者たちによって私物化された。
このベニン・ブロンズの返還をめぐっては、激しい論争が交わされてきた。最近の動きとしては、デジタル・ベニンと呼ばれる包括的なオンライン・データベースが立ち上げられ、20カ国131の機関に散在するベニン・ブロンズのうち約5000点の所在が確認できるようになった。
4. 死海文書
死海文書は、死海北岸のクムラン洞窟で発見された。紀元前3世紀から紀元後1世紀の古代ユダヤ教の宗教的写本で、動物の皮、パピルス、銅の薄板などを使った800以上の文書からなる。最初の発見者はベドウィンの羊飼いたちで、1946年から1947年にかけて壺に入った巻物が見つかった。
主にヘブライ語聖書(旧約聖書)と聖書関連の文書からなり、ヘブライ語聖書の最古の写本が含まれている。ヘブライ語を中心に、アラム語や古代ギリシャ語で書かれた文書には宗教思想の多様性を示す証拠が残されており、ユダヤ教と初期キリスト教に関する理解を深めるうえで重要な資料とされる。
死海文書には、それまで知られていなかった賛美歌、祈祷書、注釈書、それに十戒の最古の版が含まれていた。文書を書いた人物は今も謎に包まれたままで、ユダヤ教のエッセネ派によるものとの説が有力だが、他の宗派が貢献した可能性もあるとする研究者もいる。死海文書はエルサレムのイスラエル博物館で見ることができるが、傷みやすいことから常設展示の対象にはなっていない。
5. サットン・フーの船葬墓と副葬品の財宝
イギリス東南部サフォーク州のサットン・フーで、1939年に7世紀の戦士のものと見られる船葬墓が発見された。土地を所有していたエディス・プリティが、考古学を独学で学んだバジル・ブラウンに調査を依頼した結果、見つかったものだ。そこから発掘されたのは、全長約26メートルの船の痕跡と、ビザンチン銀器、金の宝飾品、食卓セット、高級織物、金とガーネットでできた装身具など、アングロサクソン時代の豪華な副葬品だった。遺体も埋葬されていたと見られるが、強酸性の土壌のため人骨は残らなかったと考えられている。
特に注目されたのは、財布に付属する七宝のふたと精巧な装飾が施された鉄の兜だ。幾何学模様の財布のふたは、金貨を入れた革財布を覆うために使われたもので、外側には2匹の狼とその間にはさまれた人物、内側には獲物に飛びかかろうとしている鷲が描かれている。象徴的な意味は不明だが、権力を表していることは明らかだ。布に包まれていた兜は、丸みを帯びた帽子に大きめの頬当てがついている。表面には獰猛な怪物とともに、空を舞うように剣を振るう戦士が彫られている。また、ガーネットが埋め込まれた眉の部分を翼に、口ひげの部分を尾に見立てて描かれているのはドラゴンの姿だ。
船葬墓に埋葬されていたのが誰かは解明されていないが、専門家の間では、イングランド建国以前の7世紀初頭に亡くなった人物が葬られた場所と考えられている。埋葬の規模から判断すると、この人物は非常に重要な地位にあり、王であった可能性もあるとされている。発掘された埋蔵品はロンドンの大英博物館が所蔵している。
6. 三星堆遺跡の黄金の仮面
中国四川省の三星堆(さんせいたい)は、1927年に農民が偶然発見した青銅器時代の遺跡だ。発見以来、何回もにわたる調査で数千点の重要な遺物が発掘されているが、中でも驚くほど美しいのが2021年に祭祀(さいし)坑の中で見つかった黄金の仮面だ。重さは約230グラムで、純度84パーセントの金でできていると分析されている。約3000年前のものと推定され、何らかの生けにえの儀式の際に人の顔に着用されていた可能性があると考えられている。
三星堆遺跡では、この仮面とともに象牙、ヒスイ、金などの工芸品、未開封の木箱、それに青銅器数点が出土しており、現在も発掘と遺物の調査が続いている。発掘された遺物は、紀元前316年まで四川盆地を支配していた国、古蜀(こしょく)の祭祀に用いられたと考えられている。
7. スタッフォードシャー・ホード
スタッフォードシャー・ホード(ホードは貯蔵庫の意)は、約4600点のアングロサクソン時代の金銀細工やその断片で、考古学史上、最大級の宝物群だ。2009年に、イギリス中部スタッフォードシャー州ハマーウィッチ近郊の畑で発見された。主にアングロサクソンの王や王子が所有していた貴金属製の装身具で、6世紀から7世紀にかけての戦闘用の武器が多い。最近の研究により、見つかった破片の約3分の1が、高貴な地位を示す兜の一部であることが判明した。この種の兜は非常にめずらしく、他に5つしか見つかっていない。
見つかった遺物は小さなものだが、仔細に分析すると驚くほどさまざまな事実が浮かび上がってきた。キリスト教と異教文化、両方のシンボルが見られ、歴史上の異なる時代や場所から影響を受けていると見られる。図案化された動物の絵や複雑な幾何学模様は、かつての持ち主にとって重要な意味を持っていただろう。また、多くの作品は七宝で装飾されている。なお、これらの遺物は、ストーク・オン・トレントのPotteries Museum and Art Galleryに展示されている。
宝物を埋めた人物は明らかになっていないが、最高位の戦士が身に付けていたものを金工用工具で分解したと見られる。また、種類が多岐にわたっていることから、さまざまな場所で製造されたものと考えられている。埋められた時期は7世紀半ば、アングロサクソン七王国の1つ、マーシア王国のペンダ王が敗北して戦死し、イングランドにおける異教徒支配が終わりを告げた後の時代とされる。
8. ツタンカーメンの黄金マスク
1922年、エジプトの王家の谷で、若きファラオ、ツタンカーメンの3300年前の墓がハワード・カーターによって発見された。墓の中から見つかったのは、穀物庫や果物、戦車やイス、サンダル、チーターの皮でできた盾など合計5000点を超える遺物だ。さらに、死産に終わった2人の娘と見られる遺体のほか、ツタンカーメンが埋葬の際にかぶせられた黄金のマスクなどの宝物も含まれていた。
顔をかたどった黄金のマスクは、エジプト東部の砂漠や南部のヌビアで採れた金と、アフガニスタンのバダクシャンで産出されたラピスラズリ(目と眉に使われている)でできている。頭飾りの一部が破損し、最上部にあしらわれたハゲタカの目が欠けているように見えるが、これらは古代に失われたと考えられている。1925年、カーターは王の頭部からマスクを取り外すために熱したナイフで樹脂を溶かし、さらに、棺をひっくり返してパラフィンランプの上にかざして仮面を取り出した。その際、仮面の象眼細工の多くが緩んでしまい、再びつなぎ合わせることになった。黄金のマスクは、カイロのエジプト考古学博物館にあり、今後は大エジプト博物館に移される予定だ。
エジプト学者ニコラス・リーヴスによる最近の研究では、マスクは本来ツタンカーメンの義母、ネフェルティティ妃のものだった可能性があるとされている。また、リーヴスが行った埋葬室のカルトゥーシュ(*2)のスキャンによって、墓そのものがネフェルティティのものだった可能性が示された。ネフェルティティの埋葬室は、墓の未発掘の部分に今も残されているかもしれないという。
*2 古代エジプトで王の名を彫った文字を囲む曲線。
9. アステカの暦石
アステカの暦石(スペイン語でピエドラ・デル・ソル。太陽の石の意)は、玄武岩を素材にした円盤状の彫刻で、暦の記号やアステカの創造神話が象形文字で刻まれている。1502年から1520年にかけて作られたとされ、直径約3.6メートル、厚さ1メートル弱で、重さはおよそ24トンに達する。暦石と呼ばれているものの実際には暦ではなく、生けにえの儀式の祭壇として使用されていたとする説もある。
この暦石はアステカの太陽暦による年を表している。1年は、20日を1カ月とする18カ月と5日で、52年ごとの「世紀」に分けられる。この暦はまた、宇宙は4つの世界の創造を経て、そのすべてが破壊されたというアステカの信仰を反映したものでもある。のちに暦石は、メキシコの国家統合のシンボルとされた。
アステカの暦石は1521年にスペインによって征服される直前に、アステカ帝国の君主モクテスマ2世に捧げられた。それから数十年を経て、現在のメキシコシティの中央広場の地下に埋められている。1790年に建設工事現場で偶然発見され、発掘されてから1885年までは、メキシコシティ・メトロポリタン大聖堂に置かれていた。現在は、国立人類学博物館が所蔵している。
10. スオンタカの墓地
スオンタカの墓地は1968年に、フィンランド南部ハットゥラにあるスオンタカの水道管工事現場で発見された。約1000年前の墓地からは、人骨、青銅の柄のついた剣、柄のない剣、女性の装身具などが納められていた。最近まで、この墓地は男女の合葬か女性戦士の墓と考えられていた。しかし、2021年に発表された研究では、毛皮と女性風の衣服を身につけ、左腰に柄のない剣をたずさえた人物が羽毛の上に寝かされて埋葬されていたことが明らかになっている。
ヘルシンキ大学で行われたDNA解析では、性染色体が女性のXX、男性のXYではなく、XXYを持つクラインフェルター症候群(*3)であることが分かった。埋葬品からすると、男女の性別にとらわれないアイデンティティを持つこの人物が、当時の社会に受け入れられるだけでなく、尊敬される存在であっただろうと研究者は分析している。(翻訳:清水玲奈)
*3 男性が性染色体である「X染色体」を1本以上余分にもつことで生じる遺伝性疾患の総称。人によって兆候と症状が異なり、明らかな兆候や症状がない、あるいは軽度なケースも多い。
from ARTnews