LGBT迫害など人道危機に瀕するアーティストに教育機会を! アメリカ・バード大学の革新的プログラム

ニューヨーク州にあるバード大学のOSUN人権芸術センターで、第一期の修了生らが人権と芸術の学位を取得した。同センターは、現在危機的な状況にある地域で、迫害や戦争、監視、貧困を経験した活動家やアーティストを支援する、画期的なプログラムを提供している。

ミルナ・バーミエが主宰するパレスチナ・ホスティング・ソサエティのパフォーマンスに参加するキャロル・モンテアルグレ(左)。Photo: Amy Pekal

犯罪組織の暴力や性的迫害、政治的抑圧の中で生きてきた修了生たち

バード大学OSUN人権芸術センター(OSUN Center for Human Rights and the Arts)の学位は、ほかの芸術分野の学位と同じく、ともすると気取っていると受け止められるかもしれない。しかも、人権と芸術というのはさらに抽象的だ。だがこのプログラムは、まさにこうした見方、つまり、芸術や学問は経済的に余裕の人たちのものだという考え方を変えようとしている。

人権芸術センターのディレクターを務める、パフォーマンスアーティストのタニア・エル・コーリーはこう語る。

「私たちの目的はアーティストと活動家が一緒になって創造できる場を作ることです。政治信条を掲げるだけでなく、それを実践する教育機関を作ることが重要だと思ったからです。どうすれば人々の幸福を第一に考える環境を作れるのか、どうすれば世界中の人々と連帯し、不平等について共に考えることができるのか、ということを共有するために」

その答えはシンプルで、資金と強い意志の力さえあれば実践は可能だ。政治理論、美学理論、映画制作、パフォーマンスなどを教え、ワークショップや展覧会を開くなど、どんな教育機関にもできることで、中には良い成果を上げられるところもあるだろう。難しいのは、誰もがこうした教育を受けられるようにすることだ。

メキシコのギャングによる暴力、キルギスのLGBTQ迫害、パレスチナの政治的抑圧など、センターの修了生たちの多くは、さまざまな危険を潜り抜けてきた。今期は2人を除く全員が移民で、ビザの問題で最初の学期の開始後、数週間してやっと到着できた学生も少なくない。彼らをアメリカに呼ぶために奔走した同センター職員の苦労がうかがえる。US版ARTnewsの取材に応じてくれた学生たちは皆、厳格で複雑なビザ取得手続きの際に、大学側が手厚い支援をしてくれたと話している。

学生を公平に受け入れるため、同センターはバード大学の他の修士課程と同様、学士号を絶対的な要件とせず、代わりに入学志願者の職歴や芸術活動を同等の資格として評価している。また、学生をアメリカに受け入れるには、彼らが国境を越えるための官僚的な手続きを助けるだけでなく、授業料や生活費の補助、必要があれば住居の確保なども必要になる。これらは、前出のエル・コーリー自身がレバノンからの移民として乗り越えてきた障壁でもある。

このプログラムの運営資金を提供しているのは、オープン・ソサエティ・ユニバーシティ・ネットワーク(OSUN)だ。OSUNは、2020年に中央ヨーロッパ大学(ウィーンとブダペストにある大学院大学)とバード大学が共同設立し、研究やフェローシップのほか、バード大学やその他の教育機関での意欲的なプログラムの創設を支援している。

内戦で疲弊した先住民の女性に「癒し」を与えるプロジェクト

プログラムを修了したばかりのキャロル・モンテアルグレは、「(アメリカの)大学院は学費が高すぎるので、最初はヨーロッパの学校に願書を送っていました」と話す。「友人がこのセンターを勧めてくれたのですが、お金がないので諦めていたんです。すると友人は、『OSUNから資金提供を受けているから、奨学金や生活費補助もあるよ』と教えてくれ、それが決め手になりました」

願書を提出した当時、モンテアルグレは母国のコロンビアにいた。アメリカから強制送還された彼女は、そこでパートナーと離れ離れになって暮らしていたのだ。家族にアクティビストがいる彼女は、それまで母国に住んだことはあまりなかった。政治犯だった祖母を含む一家は、暴力から逃れるために長い間国外に逃れていたからだ。しかし、バード大学に入学して家族滞在ビザが下りると(アメリカに戻る前にパートナーとの間に子どもが生まれていた)、彼女は再びコロンビアに行き、アクティビストとしての活動と、アーティストとしての映画制作を組み合わせたプロジェクトに取りかかった。彼女の修了制作となった作品だ。

獲得した助成金を使うにあたり、彼女は以前からつながりのあった先住民の女性を中心とするグループに声をかけた。コロンビアの内戦で戦い、生き延びた女性たちだ。「何か必要としているものはないかと尋ねると、癒しが欲しいという答えが返ってきました」とモンテアルグレは振り返る。

モンテアルグレは、このグループが推奨する先住民の治療法に重点を置いた、女性のためのウェルネス・リトリートを立ち上げた。しかし、参加する10人の女性たちが実際にそこに来られるようにするには、彼女たちが世話をしている小さな子どもからお年寄りまで大勢の人々のケアについて考える必要があった。「10人の女性たちをリトリート(*1)に呼ぶ計画として始まったのですが、最終的には42人の面倒を見ることになりました」。


*1 日常生活から離れてリフレッシュし、心身を癒すこと。元は「避難所」や「隠れ家」の意。

このプロジェクトを遂行するため、彼女は資金調達に奔走し、複雑なオペレーションをやりくりし、参加者の女性の1人が狙われた殺人未遂事件にも対処することになった。しかし、最終的に彼女は活動家としての仕事を成し遂げただけでなく、その過程を記録した映画を完成させた。その映画『Howls in the Mountains』は、バード大学で開かれた同センターの修了作品展で公開された。

モンテアルグレはこう語った。「私はこの作品のために120パーセントの努力をし、個人的な犠牲を払いました。でもその価値は十分すぎるほどあったと思います。お世話になったセンターの方々には『あなた方のご支援がなかったら、このプロジェクトは達成できなかったでしょう』と伝えました」

植民地時代のパレスチナのジェンダー、セクシュアリティ問題を掘り起こす

もう1人の修了生、アダム・ハッジヤヒアにとって、このプログラムは高等教育を受けるための貴重なチャンスとなった。

「ここに来るまで、私はパレスチナで育ち、すっとそこで暮らしていました。イスラエルの大学には入りたくなかったし、留学するお金もなかったので学部教育は受けていません」と彼は言う。ハッジヤヒアの家族は昔からアクティビスト、そして芸術家として活動していた。そのため彼は若い頃からこうした世界に親しみ、政治的な活動と並行して、展覧会や音楽イベント、映画祭の企画などをしていた。

「本を読んだり、カンファレンスに参加したり、活動資金を集めたりするなどして、自分なりの方法でエルサレムやヤッファ、そして特にハイファなどの都市で芸術や文化活動に関わってきましたが、このプログラムに参加したことで初めて体系的に、そして集中して自分のアイデアを突き詰めることができました」

こう説明する彼は、警察や法廷などの記録をもとに、1916年のサイクス・ピコ協定(*2)以前のパレスチナにおけるジェンダーセクシュアリティについて、論文と写真からなる作品を制作した。男女二元論や家父長制的といった伝統的規範の外で生きた人々の法的な記録を発掘し、セックスワークや同性愛など、当時この地域を植民地として支配していたイギリス人が逸脱行為とみなしていた行動に焦点を当てている。


*2 1916年にイギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割についての秘密協定。

修了展では、資料の中に埋もれていたこうした人々の物語を発表し、実在の人物と想像上の人物を組み合わせて彼自身が作り上げた物語も一緒に展示した。これは「植民地時代の歴史的資料に記述されていない出来事は、一切起きていなかった」という思い込みを覆そうという彼の試みだ。

エル・コーリーは、修了生たちと修士プログラムを誇りに思い、彼らの今後の活動に期待していると話す。

「ここに至るまで、私たちは有言実行することができました。あまりにも理想通りに進んでいるので、そのうちどこかから邪魔が入るのではないかと不安になるくらいです。でも、今のところは順調に進んでいます」(翻訳:野澤朋代)

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