革新か保守か。デイヴィッド・ホックニーを過去の回顧展から考察
2017年、ロンドンのテート・ブリテンでデイヴィッド・ホックニーの大回顧展が行われた。ホックニーの60年にわたる画業を総覧するこの展覧会のレビューで、イギリスの「国民的画家」はどう批評されたのか。日本で27年ぶりに開かれるホックニーの大回顧展を前に、改めて振り返ってみよう。
イギリス人に愛される「モダン」なアーティスト
「デイヴィッド・ホックニーは、現代において最も人気があり、広く知られるアーティストの1人です」
2017年にロンドンのテート・ブリテンで開かれた回顧展の序文にはそう書かれているが、これはだいぶ控えめな表現と言っていいだろう。実際には、ホックニーはイギリスの存命アーティストの中で最もよく知られ、最も人気のあるアーティストだ。だからこそ、この展覧会のチケットも、テート史上最も早いペースで売れている(当時)。しかし、彼の自国における独特のステータスは、イギリス人以外には少々説明が必要かもしれない。
彼の人気の理由の1つには、イギリス人特有の階級意識がある。貧しい北部の労働者階級出身者の立身出世は、この国では魅力的なストーリーなのだ。しかし、それ以上に大きな理由は、親しみやすい大御所としての彼の立ち位置にある。イギリスでは誰もが、(2017年当時)もうすぐ80歳になろうかというホックニーのことを「国の宝」だと、いたずらっぽい笑みを浮かべながら言う。
彼は、森の木々や田舎道のカラフルな絵を描いただけで、新聞に(しかも、文化欄ではなく)取り上げられる数少ないアーティストの1人だ。いや、むしろ木々や田舎道を描いているからかもしれない。それこそが、イギリス文化の中で彼が象徴しているものなのだ。伝統的な具象的価値を継承し、それを当たり障りなくアップデートした作品を作るホックニーは、モダニズムの実験的な側面にずっと馴染めないでいたイギリス人に愛される、「モダン」なアーティストとしての地位を確立した。
だが、回顧展のキュレーター、クリス・スティーブンスとアンドリュー・ウィルソンが同展の主要なテーマとして掲げているのは、ホックニーは常に異なるスタイルの間を行き来している本質的に実験的なアーティストだという考え方だ。
《春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年》2011年
ホックニーにとっての「抽象」と「具象」
彼のキャリアの前半は、確かにその通りだった。ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの学生時代に描いた、絵の具を荒く塗りつけた走り書きのような絵画では、さまざまなアイデアが1つの作品に凝縮されている。抽象的な絵の具の厚塗りは、タイポグラフィやグラフィティなどのポップな要素と組み合わされ、人間の姿は漫画風の小人か震える絵具のしみのようなものとして描かれている。この時期の最も重要な作品は、縦長の変形カンバスの上に紅茶の箱を描き、そこにフランシス・ベーコン風の人物を重ねた《Tea Painting in an Illusionistic Style(錯視的な様式によるティーペインティング)》(1961)だろう(*1)。遊び心に溢れるこの作品は、その後20年にわたってますます写実へと傾いていくホックニーの軌跡を予言している。
*1 タイトルの日本語訳は、『ホックニー画集 ひとつの回顧』(1988年、リブロポート)による(以下同)。
こうした傾向は、最初のうちは気まぐれで夢想的なアプローチによって薄められていた。大学卒業後の1962年に制作された作品群はテートの回顧展の目玉の1つだが、初期の作品同様、勢いのあるスケッチ風の淡白な絵に神官のような人物像が平坦に描かれている。しかし、それ以前の作品とは違い、絵の中には半分写実的な場面が提示されている。たとえば、博物館のエジプト彫刻の側に友人が立っている様子を描いた《The First Marriage (A Marriage of Styles I)(第一の結婚〈様式一の結婚〉)》(1962)や、男性がシャワーの下に立つもう1人の男性の背中を洗っている《Domestic Scene, Los Angeles》(1963)などの作品では、対象物は細部まで描き込まれているが、大きな面積を占める背景ではカンバス地が剥き出しになっている。まるで、漠然とした曖昧な印象を与えるだけで充分だと考えているかのようだ。
《スプリンクラー》 1967年
これらの絵を見れば、ホックニーが当時の抽象芸術の純粋主義や形式的な自己充足に反発していたのも頷ける。中には、ケネス・ノーランド風(*2)の円い的(まと)を風刺として取り入れ、具象的なモチーフとして描いているものもある。ホックニーが追求していたのは、彼らとは異なる種類の抽象だった。視覚的な引用やパスティーシュ(作風の模倣)による抽象、世界中から洪水のように押し寄せるイメージからのサンプリングとしての抽象だ。こうしたアプローチが最高潮に達するのは、ホックニーが1960年代半ばにロサンゼルスに移り住んでからのことで、彼は砂漠のサボテンや寂れたハイウェイ、羽飾りを被ったインディアンやロッキー山脈など、ほとんどコミカルとも言えるアメリカ的なイメージの数々を、明るく晴れやかな色彩のアクリル絵具で描き始めた。
*2 アメリカの抽象表現主義の画家。カラーフィールド・ペインティングの代表的作家の1人。
同性愛をテーマに生み出された傑作
ホックニーが、こうしたアメリカ的生活の最も印象的な作品を制作したのは、これに続く時代だ。《Peter Getting Out of Nick’s Pool(ニックのプールから上がるピーター)》(1966)や《A Bigger Splash(水しぶき〈大〉)》(1967)などの作品は、20世紀を代表する絵画と言える。カラッと晴れた青い空とプールや物憂げなセクシュアリティといった生活の中の情景をシンプルでシャープな図式に落とし込んだ、ある種神話的なロサンゼルスの姿を彼は描いていった。
《A Lawn Being Sprinkled(散水中の芝生)》の水が描く完璧なV字型や、《Savings and Loan Building》(いずれも1967)の直線的な正確さに注目してほしい。ホックニーが抽象芸術や形式主義を意識しながら、こうした作品を描いていたと考えるとさらに興味深い。《A Bigger Splash》の丹念に描かれた水しぶきは、(アクションペインティングのような)抽象表現主義のマッチョな描き方のパロディだ。それと同時にホックニーは、しばしばカンバスの一部に絵の具を塗らず、剥き出しのままにして作品の物質性を強調した。こうすることによって絵が完全なイリュージョン、つまり別世界への窓として読まれるのを防ごうとしていたのだ。
《クラーク夫妻とパーシー》1970-71年
しかし、60年代後半から70年代にかけて有名な友人や知人をペアで描いた巨大な肖像画、非の打ちどころがないほど完璧な絵画を生み出すようになると、写実一辺倒でないものへのこだわりはすっかり消えてしまう。これらの作品は印象的ではあるものの、彼の芸術的・社会的成功への自画自賛的なニュアンスが感じられ、やや興醒めだ。
それでも、この時代に描かれた絵の中には驚嘆すべきものが1つだけある。当時のパートナーとの壊れつつあった関係を思わせる1972年の作品、《Portrait of an Artist (Pool with Two Figures) (あるアーティストの肖像〈2人の人物のいるプール〉)》は、性愛に関する切望と不安を捉えた圧倒的な傑作だ。これを見ていると、テートの回顧展が同性愛の欲望をホックニーの主要なテーマとして取り上げないのはなぜだろうかと思わされる。ホックニーのスタイルに焦点を当てるのもいいが、彼の絵画が真にラディカルである理由の1つは、何気ない日常生活の中に同性愛を描いたことで、それを人々が普通のこととして受け入れるのに貢献したことにある。
ホックニーの作品に感じられる「行き詰まり」
このセクション以降、残念ながら展覧会は尻すぼみになっていく。ドローイングの展示室では、ホックニーの紛れもない名人芸が披露されているが、単に同じことを繰り返しているようにしか感じられない。80年代初めに制作した実験的な写真作品では、ひとつの被写体が、まるでコラージュのように複数のイメージで表現されている。しかし、ホックニーが意図したモザイク状の断片的なイメージとして効果を発揮しているのは初期の2、3点だけで、後は単に定型をなぞっているように見える。
それでも彼は、単眼的な遠近法に揺さぶりをかけるというアイデアを、その後30年間にわたって探求し続けた。こちらに迫ってくるように歪曲したカリフォルニアの風景や、奇妙に折れ曲がったロサンゼルスの住宅の内部を描いた絵は、どぎつく強烈で、幻想的ではある。だが、キュビスムやシュルレアリスムでおなじみのコンセプトに、現代的な明るい色彩でひねりを効かせただけのようにも感じられる。
そこにはもはや社会的な批評の試みもなく、芸術が視覚的な行為以外の何かになり得るという感覚もなく、行き詰まりが感じられる。彼にできることは、カンバスをいくつもつなげて絵を大きくすることだけだ。グランドキャニオンのような壮大な景色を描く時など、そのテクニックが効果を発揮することもある。しかし、2004年にイギリスに戻った後に描かれた森林に覆われたヨークシャー・ウォルズの巨大な絵は、鮮やかな色彩や、部屋を覆い尽くすほどのスケールにもかかわらず、安易でインスピレーションに欠ける。
方々から高く評価され、回顧展でもひときわ人だかりができていたiPadによる近年の「絵画」にも同じことが言える。このシリーズに関するお決まりの評価は、「静物画、肖像画、風景画など伝統的な主題を扱いつつも、新しいテクノロジーを使って制作された本質的に先鋭的な作品」というものだ。しかし、全作品の中でこれらがおそらく最も保守的なのではないか。動画として提示され、デジタルの筆致によって徐々にイメージが形づくられていく様子を見ることのできるこの作品は、アーティストの見えざる手という概念やその魔術的なタッチを崇め奉っている。そこから透けて見えるのは、急速に変化し続ける世界の中で、人々が慣れ親しみ安心できるものを提供するのがアートだという、気が滅入るほど時代遅れな考え方だ。不確実性と不確定性を受け入れていた若き日のホックニーなら、恥ずかしく思うに違いない。(翻訳:野澤朋代)
from ARTnews
デイヴィッド・ホックニー展
会期:7月15日(土)~ 11月5日(日)
会場:東京都現代美術館 (東京都江東区三好4丁目1-1)
時間:10:00 〜 18:00(入場は30分前まで、7月、8月中の金曜は21:00まで)