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ミニマリズムとは何だったのか。モンドリアンから草間彌生、リヒター、ティルマンスまで、現代アートの一大潮流を総覧

「ミニマリズム」は、さまざまな分野で頻繁に使われる言葉だ。だが、そのためにかえって、それが何を意味するかが曖昧になっていることも。ここでは、美術史におけるミニマリズムとそこへ至る流れを俯瞰し、代表的なアーティストの作品からその本質をおさらいする。

ドナルド・ジャッド《Untitled》(1972) Photo: Tate, London. Copyright ©2023 Donald Judd Foundation/VAGA, New York and DACS, London. Photograph courtesy Tate, London

本質主義的な潮流を汲むミニマリズムの作品

現代生活のあらゆる面に影響を与えたミニマリズムのように、広範な文化的インパクトを持つ芸術運動は少ない。今やミニマリズムは、汎用的な形容詞、そして分野を問わず使われるカテゴリーとして私たちの日常に溶け込んでいる。そして、「金ぴか時代」(*1)と呼ばれた19世紀末にボザール様式(*2)が浸透したように、ミニマリズムは「第2の金ぴか時代」とされる20世紀末以降における標準的なデザイン言語となった。しかし、美術史上の「ミニマリズム」とは、半世紀にわたって発展してきたモダニズムの成果を土台とし、1960年代半ばにニューヨークで活躍した一群のアーティストが生み出した作品を指している。


*1 1870年代~80年代、アメリカで資本主義が急速に発展した時代。第2の金ぴか時代は、1980年代のレーガノミクスによる好景気の時代。
*2 パリのエコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)で学んだアメリカの建築家たちが、本国に帰って設計した古典的建築様式。

その名が示す通り、ミニマリズムは形式や内容を最小限に抑えることを目指した。この運動の主だった作品には彫刻が多いが、絵画もその一翼を担っている。作品は硬質で直線的な形態を取ることが多く、しばしば同じ形が連続して示された。彫刻は、粘土を捏ねたり、石を掘ったり、鋳造したりといった伝統的な方法ではなく、加工や施工を行う業者に依頼する形で制作された。このような手法は目新しいものではなかったが、ミニマリズムは、作品がそこに存在する事実以上のもの(個人的な表現や暗示など)を否定するという、より大きな問題意識の一環としてそうした方法を採用していた。ミニマリズムの作家たちは、意味や含みをさらに減らすために、自分たちが作ったものを「スペシフィック・オブジェクト」(*3)と呼んでいた。


*3 1965年にドナルド・ジャッドが発表したエッセイ「Specific Objects」に由来する。作品の物質的・現象学的な側面を重視し、それを絵画でも彫刻でもない「あるひとつの物体」と捉えた。

ミニマリズムの先駆者であるドナルド・ジャッドは、こう主張している。

「作品には、見たり、比較したり、1つ1つ分析したり、熟考したりする要素がたくさん含まれている必要はない。作品そのもの、その質的全体こそが面白いのだ。単独で、より強烈で、明確で、力強いものこそが重要だ」

ともあれ、ミニマリズムは何もないところから出現した真新しい様式というよりは、むしろ20世紀初頭に登場した幾何学的な抽象に端を発する、本質主義的潮流のリバイバルとも言えるものだった。

抽象とモダンアート

ヒルマ・アフ・クリント《Group IV, The Ten Largest, No. 7, Adulthood》(1907) Photo: Stiftelsen Hilma af Klints Verk

抽象絵画が初めて描かれた正確な時期についてはさまざまな議論があるが、美術史における一般的なコンセンサスでは、1910年から1913年の間にワシリー・カンディンスキーとフランティシェク・クプカのどちらかが制作したものとされる。しかし、そうした常識を覆したのが、2017年にグッゲンハイム美術館で開催されたヒルマ・アフ・クリントの回顧展だ。それまでほとんど知られていなかったこのスウェーデンの女性アーティストは、ピカソがまだ具象表現に留まっていた《アヴィニヨンの娘たち》を完成させる1年前の1906年に、明らかに非具象的な絵を描いていたのだ。

アフ・クリントの事例はさておき、初期の抽象画の多くはキュビスムの影響から生まれている。そして、カンディンスキーのような画家たちが、キュビスムの幾何学的要素から新しい絵画言語を抽出するまでにそう時間はかからなかった。ピエト・モンドリアンカジミール・マレーヴィチアレクサンドル・ロトチェンコなどの画家たちはさらにそれを推し進め、幾何学的な形態を持つ非常に還元的な作品を制作した。

モンドリアンとデ・ステイル

ピエト・モンドリアン《Composition in Red, Yellow, Blue, and Black》(1921) Photo: Kunstmuseum den Haag. Photo: Wikimedia Commons

テオ・ファン・ドゥースブルフ、ヘリット・リートフェルト、そしてモンドリアンがオランダで始めたデ・ステイルは、抽象的で幾何学的な形態と純粋な色彩(自然主義とはかけ離れた原色)による表現を追求し、アート・建築・デザインの分野にまたがるムーブメントだった。中でも最も広く名を知られるようになったのが、絵画を脱構築してモダニズムを象徴する作品を生み出したモンドリアンだ。

最初はスーラセザンヌ、そして後にピカソの影響を受けたモンドリアンは、1914年に抽象主義へと向かった。それから数年の間に彼の絵画はますます単純化され、1921年にはネオ・プラスティシズム(新造形主義)の最初の作品を制作。黒い線で区切られた原色の色面で構成されるこれらの絵は、彼の代表作となる。モンドリアンが目指していたのは、芸術の神秘的な本質を明らかにすることだった。そして、「現実(リアリティ)は精神性と対立する」ため、「リアルな要素をできるだけ入れるべきでない」と考えていた。

カジミール・マレーヴィチとシュプレマティズム

カジミール・マレーヴィチ《Suprematist Composition: White on White》(1918) Photo: Museum of Modern Art

同じく形而上学に突き動かされていたのがカジミール・マレーヴィチだった。すでにロシア・アヴァンギャルドの画家として名声を確立していた1915年、彼は「純粋な芸術的感情の至高性」を表す抽象画のスタイルを打ち出し、それをシュプレマティズムと名付けた。モンドリアンのように純粋で幾何学的な形と限定された色彩がマレーヴィチのスタイルを特徴づけていたが、彼はモンドリアン以上に原理主義的な姿勢でそれを突き詰めた。

1915年に描いた《黒の正方形》はタイトルそのままの作品で、正方形の白いカンバスの中央に黒の正方形が描かれている。しかし、《黒の正方形》はわずかではあるが具象的なニュアンスを残していた。この絵は、1915年から16年にかけての冬に、サンクトペテルブルクで行われたグループ展で初めて公開されている。そのときマレーヴィチは、信心深いロシア人が自宅でイコンを飾る神聖な場所である天井付近の角に作品を展示した。つまり、ロシア正教の儀式との結びつきを示したのだ。

バウハウス

ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエとフィリップ・ジョンソンの設計によるニューヨークのシーグラム・ビルディング(撮影年月日不明)。Photo: Schulman-Sachs/picture alliance via Getty Images

1919年に建築家のヴァルター・グロピウスによってドイツのワイマールに設立され、美術・建築・デザイン教育に取り組んだバウハウスは、美術とデザインを融合させ、「形態は機能に従う」という理念に基づく学際的なカリキュラムを提供した。

この理念は、主に建築の分野でバウハウスの外へと広まった。特に重要な役割を果たしたのがグロピウスと、もう1人の建築家で同校の校長を務めたこともあるルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエだ。ニューヨークのパーク・アベニューに立つシーグラム・ビルディングはファン・デル・ローエの代表作となったが、彼はこのようなプロジェクトの背後にある哲学を、「less is more(少ないことは、より豊かだ)」というフレーズで言い表していた。この考え方は、後にミニマリズムにも少なからず影響を与えることになる。

アレクサンドル・ロトチェンコと構成主義

カタジナ・コブロの彫刻が展示されたウッチ美術館の「ネオプラスティック・ルーム」 Photo: Wikimedia Commons

シュプレマティズムと並ぶロシア・アヴァンギャルドのもう1つの流派で、建築的アプローチでデザインや彫刻に取り組んだ構成主義もミニマリズムの重要な雛形となった。ウラジーミル・タトリン、エル・リシツキー、リュボーフィ・ポポーワとともに、構成主義の主要な作家だったのがアレクサンドル・ロトチェンコだ。

ロトチェンコは彫刻や写真、ポスターのほか、1921年に《Pure Red Color》、《Pure Blue Color》、《Pure Yellow Color》を制作。これらの単色絵画は、マレーヴィチの《黒の正方形》に匹敵するほどラディカルな作品だった。マレーヴィチと同様、ロトチェンコの作品もタイトルにその意図が現れており、後にジャッドが唱えたのと同じように、内容や意味を完全に否定している。ロトチェンコはこう書いている。「絵画を論理的な結論にまで落とし込み(中略)確認できたのは、絵画は終わったということだ。すべての平面は平面であり、表現すべきものはない」

構成主義はヨーロッパにも波及し、ポーランドではカタジナ・コブロがミニマリズムのスタイルを先取りした彫刻作品を制作した。20世紀後半に再発見されたコブロの作品は、長方形などの平面を空間の中で立体的に展開したもので、今見られる作品は主に写真をもとに再現されている。鮮やかで平坦な色で彩色されていることも多いこれらの彫刻には、ジャッドなどのミニマリストと同様、滑らかな表面へのこだわりが感じられる。

アメリカの抽象画家たち

ヨゼフ・アルバース《Homage to the Square: Dense-Soft》(1969) Photo: Yale University Art Gallery. Gift of Anni Albers and the Josef Albers Foundation, Inc. Copyright © 2023 The Josef and Anni Albers Foundation / Artists Rights Society (ARS), New York. Photograph: Richard House, courtesy of Yale University Art Gallery

ミニマリズムの根底にあるコンセプトの多くはヨーロッパから伝わった。しかし、ニューヨークで花開いたミニマリズムと抽象表現主義の土台を戦間期に築いたのは、昨今ではあまり語られることのない、アメリカン・アブストラクト・アーティスト(AAA)というグループだった。アメリカで抽象表現がほとんど見られなかった時代にそれを広めるため、1936年に設立されたこのグループのメンバーには、幾何学的な抽象表現に取り組むアーティストたちがいた。たとえば、モンドリアンの影響下にあった2人の画家、バーゴイン・ディラーとイリヤ・ボロトウスキーなどがそうだ。また当時としては珍しく、AAAにはロザリンド・ベンゲルスドルフやアリス・トランブル・メイソン、メルセデス・マターなど多くの女性メンバーがいた。

AAAで最も有名なのはヨゼフ・アルバースだろう。ドイツ生まれのアルバースはバウハウスで教えた後、数々の著名作家を輩出したノースカロライナ州のブラックマウンテン・カレッジやイェール大学で教鞭をとった。彼はまた、存命作家としてニューヨーク近代美術館(MoMA)とメトロポリタン美術館で個展を開催した最初のアーティストでもある。代表作として知られているのが、1949年に制作を開始した「正方形讃歌」という絵画と版画のシリーズだ。その中でアルバースは、異なるサイズと色調の四角形を入れ子状に配置し、色彩の理論を追求している。

抽象表現主義とミニマリズム

アド・ラインハート《Untitled》(1966) Photo: Museum of Modern Art, New York. Copyright © 2023 Anna Reinhardt/Artists Rights Society (ARS), New York. Digital image: Copyright © The Museum of Modern Art/Art Resource, New York

演劇的かつ情熱的で、主観を重視する抽象表現主義は、まさにミニマリズムの対局にあった。しかし、抽象表現主義の作家とされているバーネット・ニューマンとアド・ラインハートの2人は、それまでになかったスケールでモノクロームの絵画を制作し、ミニマリズムを予見させた。

ニューマンの最も有名な作品《Vir Heroicus Sublimis(崇高にして英雄的なる人)》(1950-51)は、約2.4×5.5メートルの巨大な絵で、「ジップ」と名付けられた縦線で区切られた真っ赤な色面が特徴的だ。ニューマンはモンドリアンやマレーヴィチと同様、抽象芸術には精神的な力が宿ると信じており、鑑賞者には絵に近づいて色彩の存在感に圧倒されてほしいと考えていた。

一方、ラインハートの姿勢はミニマリズムの信条に近かった。彼は抽象芸術の目標について次のように書いている。「芸術を芸術として、それ以外の何ものでもないものとして提示すること。具象、写象主義、表現主義、主観などを避けながら、より純粋に、より空虚に、より絶対的に、より排他的にする」。こうした考えをこれ以上ないほど明確に示していたのが、「究極の絵画」あるいは「黒い絵」と彼が呼んだシリーズで、彼はこれらを絵画の最終形態だと主張した。だがよく見ると、これらの作品は純粋なモノクロームではなく、微妙に異なる色調によってスイス国旗のような十字と黒の正方形に区分されていることが分かる。

ミニマリズムへの序章

ロバート・ラウシェンバーグ《Untitled (four panel glossy black painting)》(1951年頃) Photo: Whitney Museum of American Art, New York. Copyright © 2023 Robert Rauschenberg Foundation / Licensed by VAGA at Artists Rights Society (ARS), New York. Photograph: Art Resource, New York

原始ミニマリズムとも呼べる作品を作っていたのは、ニューマンとラインハートだけではなかった。こうした作品に取り組んでいたもう1人のアーティストがエルズワース・ケリーで、彼の幾何学的なハード・エッジ絵画(*4)は1950年代初頭まで遡ることができる。ケリーは直感を重視し、色と形、そしてその両方が建築空間の中で持つ効果を追求していた。彼は、1970年から作り始めた変形カンバスの作品が有名だが、「空間の中で色彩が持つ自由」に対する関心は、明るい色面をチェス盤のように並べた《Colors for a Large Wall》(1951)などの初期作品にもはっきり見て取れる。


*4 色面や線などをはっきりとした輪郭で描き、平面性を追求した絵画。奥行きの錯覚や筆致、塗りムラを排した。

ブラックマウンテン・カレッジでアルバースの教え子だったロバート・ラウシェンバーグも、在学中に複数のカンバスをつなげた大型のモノクローム絵画(1つは白、もう1つは黒)を制作している。これらの作品についてラウシェンバーグは、「イメージから離れながら、どれだけイメージ性を保てるかを試したかった」と説明している。

ロバート・ライマンは、短く重なり合う筆致を用いて、カンバスというミニマルな物体と、そこに塗られた絵の具との関係を探る触覚的なモノクローム絵画を制作した。彼は白を基調とした作品で知られるようになったが、1950年代半ばの初期の作品ではオレンジなどの色を使っていた。

カナダ生まれのアグネス・マーティンは、鉛筆で描いた細かい格子模様に淡い色彩を重ねている。マーティンは神秘主義的なミニマリストだと評されることが多いが、彼女自身は自分を抽象表現主義者だと考えており、ニューマンや、彼女が敬愛するマーク・ロスコのように、精神性の感じられる作品を生み出した。

草間彌生《Yellow Net》(1960) Photo: National Gallery of Art, Washington, DC. Copyright © Yayoi Kusama. Courtesy the artist, David Zwirner, Ota Fine Arts, and Victoria Miro

ミニマリズムを先取りしたもう1人のアーティストが草間彌生だ。今でこそ世界的に有名な人気アーティストの1人だが、1957年に母国日本からニューヨークにやってきた時は無名の存在だった。当初から彼女の作品に見られたのは、背景から鮮やかに浮かび上がる網目状の模様だ。

フランク・ステラが自身の作品について「What you see is what you see(見ているものは見たままのものだ)」と言ったのは有名だが、このフレーズはミニマリズムについても見事に当てはまる。1959年に弱冠23歳だったステラは、黒いエナメルの四角い帯が中心から放射状に広がっていく絵画のシリーズを制作した。見る者の視線を絵の中心から端へと、そして枠の外へ誘導する効果を持つこの作品群は、壁に飾られた絵画の物質性を強く意識させた。

ワシントンD.C.を拠点としていたアーティストたちも、色彩を探求するための戦略の一環として、逆V字やストライプ、円などの、鋭く区切られた幾何学的要素を取り入れた。ワシントン・カラー・スクールと呼ばれていたこのグループには、モーリス・ルイスのような叙情的な抽象画家もいたが、ケネス・ノーランド、ジーン・デイヴィス、トーマス・ダウニングのようなハード・エッジ絵画で知られる画家たちが多く、ドレープペインティングに取り組む前のサム・ギリアムもその1人だった。

ドナルド・ジャッド

テキサス州マーファのチナティ財団に展示されたドナルド・ジャッドの彫刻(2021年撮影)。Photo: Andrew Lichtenstein/Corbis via Getty Images

第2次世界大戦後の10年間は、抽象表現主義がニューヨークのアート界を席巻していたが、1950年代半ば頃にはその覇権に立ち向かおうとするアーティストたちが出てきた。60年代に入ってポップ・アートとミニマリズムが台頭すると、その流れがさらに加速する。ポップ・アートもミニマリズムも、クールでそっけないスタンスで抽象表現主義のドラマチックな表現に対抗した。こうして、ドナルド・ジャッド、ダン・フレイヴィン、ソル・ルウィットといったアーティストたちが活躍する資本主義的ミニマリズムの時代が幕を開けた。

中でも、アーティストであり美術評論家でもあったドナルド・ジャッドは、ミニマリズムの代名詞とも言える存在になった。彼は、ミニマリズムの核となる信条を広める著述活動の一方で、その信条を箱状の物体という形に集約した作品を制作した。トレードマークのように、ひと目で彼のものだと分かるジャッドの箱は変幻自在だった。それらは、壁に取り付けたり床に置いたり、上部や側面を閉じたり開けたり、空っぽにしたり内部を仕切ったりでき、単体のものもあれば複数からなるものもあり、小さなものから記念碑的なものまでサイズも色々だった。また、合板、コンクリート、亜鉛メッキ鋼、銅、プレキシグラスなど、多種多様な素材を単独で使ったり、あるいは組み合わせたりして作られている。さらには、さまざまな色合いのプレキシグラスや、透明または不透明なラッカー塗料を用いて鮮やかな色彩を取り入れることも多かった。

ジャッドは家具デザイナーでもあり、独学の建築家でもあった。こうした才能を活かした大がかりなプロジェクトが2つある。1つは、ソーホーにある自身のロフトビルディング(*5)の改装で、その禁欲主義的な美学は、現代のラグジュアリー空間の原型となっている。そしてもう1つが、テキサス州マーファの街全体を、彼自身や彼に共鳴するアーティストたちによるサイトスペシフィックな作品を見せる展示空間に作り変えたことだ。


*5 間仕切りされていない広い床面積を有する数階建てのビル。元々はビジネス用だが、のちに住居としても利用されるようになった。

ダン・フレイヴィン

ダン・フレイヴィン《the nominal three(to William of Ockham)》(1963) Photo: Solomon R. Guggenheim Museum, New York. Copyright © 2023 Stephen Flavin/Artists Rights Society (ARS), New York. Photograph: Art Resource, New York

ミニマリズムが目指すところは客観性にあったが、ダン・フレイヴィンは、オフィスや倉庫で使われる蛍光灯を利用してエフェメラル(はかなく、すぐに消えてしまうもの)と物質性を融合させながら、視覚の閾値を探った。彼が多用した蛍光灯は長く真っ直ぐで、建築に使うツーバイフォーの木材のようにつなぎ合わせることができた。フレイヴィンはそれらをフレームやグリッド、その他の構成にアレンジし、壁に掛けたり、コーナーに押し込んだり、部屋の仕切りにしたりした。何よりも重要なのは、彼が絵の具の代わりに色付きの蛍光灯を用いて色彩の効果を追求したことだろう。

ミニマリストというレッテルを嫌っていたフレイヴィンは、自分の作品をフレデリック・チャーチやジョン・ケンセットなど、19世紀のハドソン・リバー派の画家たちによる光に満ちた風景画の伝統の中に位置付けていた。この主張は少々無理があるようにも思えるが、人工的な光で人を圧倒するような作品を作ったフレイヴィンのスタイルは、ロマン主義的崇高さのミッドセンチュリー版と言えるかもしれない。

ソル・ルウィット

ソル・ルウィット《Cubic-Modular Wall Structure, Black》(1966) Photo: Museum of Modern Art, New York. Copyright © 2023 The LeWitt Estate/Artists Rights Society (ARS), New York. Digital image: Copyright © The Museum of Modern Art/Licensed by SCALA/Art Resource, New York

ソル・ルウィットの立方体の骨組みは、最初の頃は木製で、その後スチールで作られるようになる。白く塗装されたこれらの立方体は、枠の太さとそれらを隔てる空間の比率が統一されており、しばしば数学的な法則で連結された。

ルウィットはまた、壁画も制作している。最初の頃はグリッドや斜めに交差する線のパターンによる図のような壁画をグラファイトで描いていたが、それが次第にカラフルになり、長方形や直線の代わりに筆跡のような曲線や、奥行きの錯覚を生む表現などが見られるようになった。だが、それらの壁画はルウィット自身ではなく、全て彼の指示書に従って他人が描いている。

モノ(壁画)とアイデア(描き方)はそれぞれ別個のものだと示唆していたルウィットのプロジェクトは、コンセプチュアル・アートとしても捉えられる。しかしながら、この時期の作品をカテゴライズするのは難しい。というのは、コンセプチュアル・アートとポスト・ミニマリズムの他ジャンル(プロセス・アート、パフォーマンス)は、ミニマリズムそのものと同時に生まれているからだ。

エヴァ・ヘスとリチャード・セラの作品も同様に、両方のジャンルに当てはまる。たとえば、ヘスの作品は、直列に並んだ箱のようなオブジェなど、ミニマリズムの思想を取り入れてはいるが、ラテックスやガラス繊維のような柔らかい素材を使っているため、ミニマリズム特有の厳格さがない。一方でセラの彫刻は硬い材質を用いていたものの、湾曲した鉛の板や仕上げをしない鍛鋼の塊の質感は、ミニマリズムの洗練された滑らかさとは対照的だった。

ミニマリズムと絵画

ジョー・ベア《Stations of the Spectrum (Primary)》(1967-69) Photo: Tate, London. Copyright © 2023 Jo Baer. Digital image copyright © Tate, London/Art Resource, New York

ミニマリズムで主要な役割を果たしたのは彫刻だったが、この運動からはブライス・マーデン、ロバート・マンゴールド、ジョー・ベアなどの画家も生まれている。しかし、絵画というメディウムの性質、そしてアーティストの手との結びつきのため、ミニマリズム絵画では彫刻に比べ、プログラム的なアプローチは薄まっていた。

マーデンは、ジャスパー・ジョーンズも用いていた蜜蝋と顔料で大規模なモノクローム絵画を制作し、1960年代半ばに注目されるようになった。彼はこれらの単色のカンバスをつなぎ合わせて2枚組や3枚組の作品を作ることもあった。

曲線と直線をバランスよく組み合わせたマンゴールドの作品では、変形カンバスに描かれた線が、絵の境界とその内側との間に視覚的な緊張を生み出している。また、ギリシャ・ローマ美術やオールドマスターを参照した作品もある。

ベアは、絵画は何よりもまず物理的なオブジェであるという考えに基づき、真っ白のカンバスの縁に帯状に色彩を塗って虚空を囲む枠のように見せている。

ミニマリズムの伝播

メアリー・コース《Untitled (First White Light Series)》(1968) Photo: Museum of Modern Art, New York. Copyright © Mary Corse, courtesy of Pace Gallery. Photograph: Art Resource, New York

芸術運動としてのミニマリズムは1960年代のニューヨークで体系化されたが、そこにとどまることなく、すぐにほかの地域にも広まり、進化していった。

ロサンゼルスでは、いたるところにある自動車整備工場や航空宇宙産業と繋がりのある合成樹脂素材メーカー、そして全てのものに降り注ぐ南カリフォルニアの陽光の影響で、「フィニッシュ・フェティッシュ(ツルツルとした仕上げが特徴)」や「ライト&スペース(光と空間の相互作用を探求)」など、カリフォルニア独自の現代アートの潮流が生まれた。光沢のある樹脂でコーティングしたジョン・マクラッケンの厚板、半透明の樹脂を鋳造したデウェイン・ヴァレンタインのドーナツ型円盤、光とその反射が刻々と変化するジェームズ・タレルのインスタレーション、絵の具にガラス粒子を混ぜて描かれたメアリー・コースの精密な幾何学的構成の絵などには、西海岸ならではのミニマリズムに対する現象学的アプローチが見られる。

一方、第2次大戦後のドイツでは、具象と抽象を区別することなく多種多様なスタイルを駆使するゲルハルト・リヒターが、裏側を灰色に塗ったガラス板やカラーチャートに基づいた色面構成などのミニマリズム的な作品を生み出している。ミニマリズムに関連するドイツ人画家には、ブリンキー・パレルモ(本名:ペーター・シュヴァルツェ)とイミ・クネーベルがいる。2人ともさまざまなフォーマットと素材を用いながら、色・構成・展示空間の関係性を探求している。パレルモは壁画のほか、彩色した布を使った「ソフトな」抽象画やアルミパネルのペインティングなどを制作。クネーベルは成形合板の作品を、壁に掛けたり立て掛けたり、床に積み重ねたりして展示した。

ミニマリズムの遺産

ピーター・ハレー《Day-Glo Prison》(1982) Photo: Copyright © Peter Halley. Photograph: Object Studies

20世紀前半に蒔かれた種が結実して生まれたミニマリズムの影響は、20世紀後半も消えることなく続いた。たとえば、ピーター・ハレーやハイム・スタインバッハなど、1980年代のコモディティ・フェティッシュやネオ・ジオ・ムーブメントのアーティストたちは、ミニマリズムを参照した作品を作っている。また、アラン・マッカラムは、オブジェを並べるミニマリズムの手法を取り入れ、マレーヴィチの《黒の正方形》を大量生産したような作品を制作。鋳型に石膏を流し込み、彩色して作ったミニマルな絵画を何百個も並べたインスタレーションを発表している。

1990年代には、モナ・ハトゥム、フェリックス・ゴンザレス=トレス、ドリス・サルセドなどのアーティストが、ミニマリズム的戦略とアイデンティティ・ポリティクスを結びつけ、多文化主義、ジェンダー、性的嗜好に関する問題を取り上げた。ゴンザレス=トレスはエイズの問題に関する作品を制作し、エイズ撲滅を目指す団体ACT UPに関わっていたアーティストたちは、ミニマリズムのグラフィックアートへの影響を反映したポスターやパンフレットを作った。

21世紀に入ってもミニマリズムの影響は続くが、その成果は玉石混淆だ。たとえば、ヴォルフガング・ティルマンスやリズ・デシーンズなどのアーティストは、ミニマリズムの美学を取り入れた写真を制作。そして2010年代には、視覚的なアピールを重視するネオ・ミニマリズムのリバイバルが勃興し、すぐに衰退した。この間にジェイコブ・カッセイやライアン・サリバンなど、当時の新進アーティストのオークション価値は急激に上昇し、あっという間に下落している、批評家たちからは「ゾンビ・フォーマリズム」と揶揄されたこのマーケット主導の現象は、アートに巨額の資金が流れることの弊害についての教訓として記憶されている。

こうした動きを経た今もなおミニマリズムが広く浸透しているのは、それが人々に共有された美的マインドセットへと変貌を遂げたからにほかならない。大衆の心を捉えたという点では、最小を標榜するミニマリズムのインパクトは絶大というほかはない。(翻訳:野澤朋代)

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