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従来の美術史の見方を更新せよ! リニューアルしたスミソニアン・アメリカ美術館の見どころをレビュー

9月下旬、ワシントンD.C.にあるスミソニアン・アメリカ美術館の近現代アートセクションが、2年ぶりにリニューアルオープンした。キュレーターの意欲が感じられる現代アート作品の新しい展示について、US版ARTnewsのシニアエディターがレビューする。

リニューアルされたスミソニアン・アメリカ美術館の現代アート展示室に並ぶ、フィレレイ・バエズ(左)とナム・ジュン・パイク(右)の作品。Photo: Ron Blunt

ラテンアメリカ系や先住民アーティストの作品が大幅増加

近年アメリカの美術史において、これまで周辺に追いやられていた女性やクィア、有色人種のアーティストたちが、ようやく主役として扱われるようになってきた。この傾向は、ニューヨークホイットニー美術館が2015年のリニューアル以来打ち出してきた展示企画に顕著だったが、改装のため2年間の閉鎖を経てこのほど再オープンしたスミソニアン・アメリカ美術館(以下、SAAM)でも、この流れがはっきりと見て取れる。

生まれ変わったSAAMの現代アート常設展は、従来の美術史の見方をどこまで更新できるか、その限界に挑んでいる。ただ、設計を担当した建築家のアナベル・セルドーフによる改修はさほど大きくない。主な変更点は、大理石が敷き詰められた長い廊下を分断していた壁を取り払い、雑然としていた空間をすっきりとさせたことだ。肉眼で見る限り、ここに並ぶ展示室は以前とさほど変わっていない。

それに比べ、展示の内容には明らかな変化が見られる。そしてこの変化は、展示物の多様化を目指す他の美術館にも影響を与えそうだ。

なにより、数あるアメリカの美術館の中でも、ラテンアメリカ系やネイティブアメリカンのアーティストの作品がこれほど多く展示されている常設展は見たことがない。このこと自体が注目に値する。

たとえば、ある天井の高い展示室で辺りを見下ろすように飾られているビーズで彩られた鮮やかな文様のチュニックは、2024年のヴェネチア・ビエンナーレアメリカ代表として参加するチョクトー族のアーティスト、ジェフリー・ギブソンによる作品。スー族の人々が祖先の霊と交信するために着るゴーストシャツを連想させるこれらが、ネイティブアメリカンの住居に用いられる木の棒に掛けられ、鑑賞者の頭上に垂れ下がる。

そのうちの1枚には「WITHOUT YOU I'M NOTHING(あなたがいなければ、私は無力だ)」と書かれている。この言葉は、リニューアル後の常設展に出品しているアーティストたちに向けられた、SAAMのキュレーターたちの告白とも解釈できる。1つの視点よりも多角的な視点を持つ方が、心は豊かになるものだ。

2024年のヴェネチア・ビエンナーレでアメリカ代表を務めるアーティスト、ジェフリー・ギブソンが手がけた3点の作品。Photo: Albert Ting

ジュディス・F・バカの《Las Tres Marías》(1976)からも同じようなメッセージを感じる。「3人のマリアたち」というタイトルを冠する3枚で構成される作品は、一方の端に内気そうなチョーラ(*1)の絵が、もう一方の端にタフなパチューカ(*2)として描かれた自身の自画像が配されている。前者は70年代、後者は40年代のチカーナ(メキシコ系アメリカ人女性)の姿を表しており、その間にある大きな鏡が鑑賞者の姿を作品の中に取り込む。


*1 1960年代以降にロサンゼルスのラテンアメリカ系の若者の間で広まったサブカルチャー「チョーロ」の女性形。
*2 1930〜40年代にラテンアメリカ系の若者の間で流行したサブカルチャー「パチューコ」の女性形。チョーロもパチューコも、アメリカの主流文化に対抗して、独自のファッションやライフスタイルを打ち出している。

この作品の形状が三面鏡のような形をしているのは理にかなっている。三面鏡は、自分が外界に示している姿をさまざまな角度から確認するための道具だ。この構成によってこのアーティストは、自分自身を本当に理解するためには1枚の鏡では十分ではないことを示唆している。

戦後のアメリカ美術の見方に揺さぶりをかける

SAAMのコレクションは、これまでも多様性を欠いていたわけではない。目玉となっている収蔵品の1つに、アメリカの地図の各州の境界線内にテレビモニターが設置されたナム・ジュン・パイクのビデオインスタレーション《Electronic Superhighway: Continental U.S., Alaska, Hawaii》(2002)がある。この作品はリニューアル後も再びお目見えし、アメリカと世界各国が糸で結ばれているティファニー・チュンの2020年の作品と向かい合って展示されている。また、アルマ・トーマスの大作《Red Azaleas Singing and Dancing Rock and Roll Music》(1976)も、以前と同様に見ることができる。これは、花びらのような赤い斑点が白い空間を漂う見事な三連画だ。

一方で気付かされるのが、通常は20世紀美術を代表するヒーロー的な作家の少なさだ。アンディ・ウォーホルジャスパー・ジョーンズロバート・ラウシェンバーグといった著名アーティストの作品をSAAMが所蔵していないせいもあるが(彼らの作品を見るには、同じワシントンD.C.にあるナショナル・ギャラリーに行く必要がある)、理由はそれだけではない。その背景にあるのは、戦後アメリカ美術の系譜に対する従来の見方に揺さぶりをかけ、その着地点を見極めようというキュレーターたちの意図だ。

抽象表現主義の展示室では、クレア・ファルケンシュタインのような女性作家の作品を多く見ることができる。画面中央の立体作品は、ファルケンシュタインの《Envelope》(1958)。Photo: Albert Ting

新しくなったSAAMにはもちろん抽象表現主義の展示室もあり、この運動を代表するウィレム・デ・クーニングとクリフォード・スティルの作品が展示されている。しかし、彼らは特別扱いされることなく、近年ようやく光が当たり始めたアーティストたちと展示スペースを分け合っている。この展示室で特に目を引くのは、オジブワ族のアーティスト、ジョージ・モリソンのプリズムのような絵画と、天井から吊り下げられたクレア・ファルケンシュタインの丸みを帯びた立体作品だ。刺激的なこの作品は、スチールワイヤーを編むようにして作られている。

地元ワシントンD.C.で勃興した芸術潮流、ワシントン・カラー・スクールの作家たちに焦点を当てた展示室もある。ここでぜひ見てほしいのは、30年ぶりに展示されるモーリス・ルイスの《Beta Upsilon》(1960)だ。幅が6メートル以上あるこの作品の中央の大きな余白にはかつて来館者が鉛筆で落書きした跡があったが、今は修復されている。メアリー・ピンショー・マイヤーの《Half Light》(1964)も、じっくり鑑賞する価値がある。4等分に区切った円のそれぞれの部分を別の色で塗った作品で、そのうちの1つの端近くに2つの謎めいた点がある。

30年ぶりに展示されているモーリス・ルイスの《Beta Upsilon》(1960)。Photo: Smithsonian American Art Museum

リニューアル後の展示の「盲点」

これ以降の展示室では、年代の感覚が曖昧になり始める。たとえば、前述したジュディス・F・バカの作品は、1970年代のフェミニストアートをざっくりと取り上げた展示室に掛けられている。だが、そこに集められたアーティストたちが目指しているものがあまりにもバラバラに見えるため、この運動の全体像が浮かび上がってこない。その次に続くのは、70年代から80年代にかけての「多文化主義とアート」に焦点を当てた展示室だが、さらに漠然とした印象を与える。ここでは、展示されている5人のアーティスト全員が非白人だという事実以外に、全体を貫くテーマがないのだ。

現代アートの歴史を部分的に提示するこうした視点は、全体を俯瞰した時にいくつものギャップを生んでいる。これには良い面と悪い面があり、良い面はこれまで注目されてこなかった傑出した才能に光を当てるきっかけを作ったことだ。その1人がオードリー・フラックで、カットされたオレンジ、バラ、肖像写真やトランプのカードなど、身の回りの細々とした物を巨大なサイズで描いた彼女のフォトリアリズム絵画《Queen》(1976)は、けばけばしくも圧倒的な力がある。この作品に光を当てたキュレーターたちには、脱帽せずにいられない。

オードリー・フラック《Queen》(1976) Photo: Smithsonian American Art Museum

また、ホーチャンクネーションの一員だった故トルーマン・ロウによる、トーテムのような2つの背の高い彫刻にも、大きなスペースが与えられている。細長い箱型の木枠の中を、樹皮を剥いた柳の枝がジグザグに横切っているこの作品は、いかなる芸術潮流にも当てはまらない独自性がある。その次に展示されているのは、牧師でもありトーキング・ヘッズのアルバムジャケットを手がけたことでも有名なハワード・フィンスターによる3点の奇妙な絵だ。そのうち1点では、大勢の人々や車が頂上を目指す山脈の上にキリストが降臨している。これも、既存の芸術運動の枠にはめ込むのは難しい作品だろう。

上に挙げた3人以外にも、チン・ホー・チェンから小原健まで、あまり知られていないが注目すべき作家が何人も取り上げられている。だが、それゆえに生じている大きな問題もある。ずらりと並ぶ彼らの作品の間にぽっかりと空いた穴は、おそらくアート界の識者だけでなく、一般の人々にもはっきりと分かるに違いない。

新しい展示では、1940年代から現在までのアートに焦点を当てている。しかし、早く現在に到達しようと戦後を駆け足で通過した結果、ポップアートやミニマリズム、コンセプチュアリズム、そしてそこから派生した芸術潮流が完全に割愛されているのだ。パイクのインスタレーションを除いてビデオアートはほとんどなく(キャリー・メイ・ウィームスの映像インスタレーションが見られるスペースは新設されているが)、デジタルアート作品やパフォーマンスアートの記録もまったくない。

これらの表現分野で有名なコリー・アーカンジェルやアナ・メンディエタの重要作品を同美術館が収蔵していることを考えると、非常に残念だと感じる。また、展示室の解説文では、80年代から90年代にかけてのエイズ危機と、それがアート界に与えた壊滅的な打撃について一度も触れられておらず、広い意味でのクィアアートは盲点になっている。

展示室の奥に掛けられたコンスエロ・ヒメネス・アンダーウッドの《Run, Jane, Run!》(2004)は、人種差別や植民地主義など、アメリカ史の暗部を直接的に表現した作品の1つ。Photo: Albert Ting

プロテストアートが示すアメリカ史の暗部

政治的なメッセージ性を前面に打ち出したプロテストアートはところどころに見られるが、多くの作品では人種差別や女性差別、植民地主義などのテーマは抽象化されているか美化されている。だからこそ、フランク・ロメロの《Death of Rubén Salazar》(1986)のような作品が際立って見える。この絵が描いているのは、大勢のラテンアメリカ系兵士がベトナム戦争で戦死したことに抗議するデモの最中に、無関係のロサンゼルス・タイムズ記者がカフェで亡くなった1970年の事件だ(記者のサラザールは、ロサンゼルス郡保安局の発射した催涙弾が頭を直撃して死亡)。催涙弾が爆発する様子を激しい筆致で描いたこの作品は、現代の歴史画のように直接的な表現方法を取っている。

また、手法は異なるが、コンスエロ・ヒメネス・アンダーウッドの《Run, Jane, Run!(2004)の表現も直接的なものだ。これは、90年代に南カリフォルニアとメキシコの国境沿いに初めて設置された「Immigrant Crossing(移民横断注意)」の看板(*3)を引用したタペストリーで、部分的に有刺鉄線が織り込まれている。


*3 走る親子のシルエットが描かれた黄色い看板。ハイウェイを横切る不法入国者が巻き込まれる交通事故が多発したため、ドライバーに注意を促す目的で設置された。

SAAMの展示には、ロメロやヒメネス・アンダーウッドのような作品がもっとあっても良いのではないかと思う。しかし、少なくともキュレーターたちは、美しい職人技と恐ろしい歴史的事件の間に生じる緊張感を提示しようとしており、その点では選択された展示作品は的確だと言える。

一例として、フィレレイ・バエズが制作した2022年の絵画《Untitled (Première Carte Pour L'Introduction A L'Histoire De Monde)》を見てみよう。この作品では、18世紀のヨーロッパの植民地を記した地図帳のページの上に、赤とオレンジの絵の具がしぶきのように飛び散っている。バエズの色彩の爆発は、西部開拓による領土拡大を正当化する考えのもとで流れた血を想起させるとも言えるが、これほど視覚的な喜びを与えてくれる作品に対して、それは不当な解釈のようにも思える。バエズは、過ぎ去った時代の暴力を再提示するのではなく、それを美的なものへと昇華させている。そして、そこで歴史が新たに始まるのだ──バエズ自身の流儀で。(翻訳:野澤朋代)

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