オルセー美術館で、ゴッホが人生最後の2カ月間に残した作品の展覧会を開催。死の直前に取り組んだ風景画とは
2023年は、フィンセント・ファン・ゴッホ生誕170周年にあたる。その年に、彼の人生最後の日々に焦点を当てた大規模展がパリのオルセー美術館で企画された。ゴッホは最晩年にどのような作品を描いたのだろうか。開催中の展覧会(2024年2月4日まで)の見どころをリポートする。
ガシェ医師の治療をうけながら次々と作品を生み出した2カ月
「Van Gogh in Auvers-sur-Oise. The Final Months(オーヴェル=シュル=オワーズのゴッホ。最後の数カ月)」と題されたこの展覧会は、アムステルダムのゴッホ美術館と共同で企画され、今年5月から9月まで同美術館で開催されていた。展示作品はゴッホがオーヴェル=シュル=オワーズに移り住んだ1890年5月20日から7月29日に死去するまでの間に制作された74点の絵画のうち48点と、33点の素描のうち25点で、パリで公開されるのは今回が初めてとなるものも多い。
パリの北西30キロほどの田園地帯にある村、オーヴェル=シュル=オワーズにゴッホが移り住んだのは、画商の弟テオと幼い甥のフィンセント・ウィレムの近くに住み、医師のポール・ガシェの治療を受けるためだった。
オルセー美術館の最初の展示室は、ガシェ医師に焦点を当てている。抑うつ症状の治療を専門としていたガシェの患者には、ポール・セザンヌ、アルマン・ギヨマン、カミーユ・ピサロなど多くのアーティストたちがいた。
ガシェは患者であるゴッホと友人としても親しく付き合い、日曜日になると彼を昼食に招いていたという。この展示室では、ゴッホが1890年に制作し、1949年にオルセー美術館に寄贈された有名作品を含むガシェの肖像画のほか、ガシェから資材提供を受けて制作されたゴッホ唯一のエッチング作品を見ることができる。
ダブルスクエアの風景画11点が並ぶ様子は圧巻
「オーヴェルは本当に美しい」、「近代の肖像画」といったテーマ別の6つのセクションで構成されるこの展覧会には、村の風景、花を描いた静物画、織模様のような筆致の実験的な肖像画、同系色でまとめられた絵、紙の両面に描かれた魅力的なスケッチのほか、ゴッホが書いた手紙(そのうち1通は未送付のもの)も展示されている。さらに、ゴッホが死の直前に夢中になって取り組んでいた、ダブルスクエアフォーマット(*1)の風景画12点のうち11点が集められた(*2)。
*1 1:2の比率(50 × 100cm)のフォーマット。
*2 ダブルスクエアフォーマットの作品は13点あり、うち12点が風景画、残る1点は肖像画。
これら横長の風景画が並ぶ様子は圧巻だ。フランス国立図書館の館長で、今回の展覧会の共同キュレーターであるエマニュエル・コケリーは「滅多にない特別な展示」だとし、「このような形でこれらの絵を一覧できる機会は、今後長い間ないでしょう」と語った。
なお、同じ比率の12番目の風景画《ドービニーの庭》は日本のひろしま美術館に収蔵されているが、コケリーは「論理的な理由と環境への配慮から」それを借りないことにしたと述べている(その代わりに、ほぼ同じ構図で同じタイトルの絵がスイスのバーゼル市立美術館から貸し出された)。
ダブルスクエアフォーマットの中で最も有名な《カラスのいる麦畑》(1890)は、これまで1世紀近くアムステルダムを離れたことがなかった。自信に満ちたはっきりとした筆致で描かれた、このダイナミックな構図の絵には、嵐を予感させる空をカラスの群れが飛び回る不穏な様子が描かれている。
この絵は長い間、ゴッホが自分の死が近いのを自覚していたことを表す究極の作品とされてきた。しかし、私がより強く惹かれたのは、ゴッホが自らの胸を銃で撃ち抜く数時間前に描いた《木の根と幹》(1890)だ。一見抽象的なこの作品は、大急ぎで描かれたような、ほとんど未完に近い印象を与えるが、絡み合う色とりどりの根や木の幹は大いなる自然の力を感じさせる。
さまざまな憶測のあるゴッホの死については、この展覧会では大きく扱われておらず、カタログで触れられているだけだ。「それに関しては私たちも考えたのですが、賛否を呼ぶ議論を煽り立てるようなことはしたくなかったので、敢えて触れないことにしました」と、コケリーは説明する。
また、美術史家のルイ・ファン・ティルボーは、「A Short Biography of Unbearable Suffering: Van Gogh’s Self-Chosen End(耐えがたい苦痛についての短い伝記:ゴッホが自ら選んだ最期)」と題されたエッセイの中で、ゴッホの死は自殺ではなく他殺だったという近年の説を否定している。
エッセイにはこう書かれている。「彼の悲劇的な行為の動機についてより深く理解するためには、そこに至るまでの過程を詳細に見ていく必要があります。(中略)そのような分析なくしては、ゴッホの最後の数カ月とその間に制作された作品に対する解釈は、いささか恣意的なものになってしまうでしょうし、それは伝記的な誤りにほかならなりません」
コケリーはさらに、「自ら人生を終わらせたいと感じた人間に対して私たちができる最低限のことは、共感をもってその思いに耳を傾けることでしょう」と付け加えている。
ゴッホのパレットをモチーフとしたVR体験も
ゴッホとガシェの交流を示す展示物は、前述した絵のほかにもある。ガシェがゴッホに貸し、現在はオルセー美術館が所蔵しているパレットだ。ガシェは、自分の娘マルグリットの肖像をゴッホが完成できるよう6月27日にこれを貸している。この肖像画の中では、赤い点が散らされた緑色の背景の前で白いドレスを着たマルグリットがピアノを弾いている。
デジタル展示に力を入れているオルセー美術館は、今回の展覧会でVR体験を提供。アニエス・モリア&ゴードンが手掛けた10分間のプログラムでは、歴史が詰まったこのパレットの輪郭と色合いを探求することができる。同館のデジタル部門責任者、アニエス・アバスタドは、ここ数年流行しているようなゴッホ作品の没入型体験展示は作らないという決定について、「ゴッホの作品に変更を加えたくなかったので、このプログラムでは彼が描いたままの構図を尊重し、代わりに彼が使ったパレットをモチーフにしました」と話す。
デジタル空間の中に再現されたガシェ邸の一室に入り込んだ観客は、マルグリットの声に促され周囲を見渡す。すると、色とりどりの絵の具がついた木の板が浮かび上がり、こちらに向かってくる。
「そこで視点が転換します。パレットの表面が風景として広がり、小人のようになったユーザーの目の前に、丘ほどもある絵の具の塊が立ちはだかります」と、コケリーは説明する。
絵の具で覆われたパレットと同じように、ゴッホが最晩年に描いた絵は鮮やかな色彩に満ちている。緑豊かなシャルル=フランソワ・ドービニーの庭を描いた《オーヴェールの庭》(1890)で、ゴッホはさまざまな技法を組み合わせている。一面に広がる点描、間隔を空けたり詰めたりしながら時に線を描くように、時に渦を巻くようにして連なったストローク、滑らかな輪郭線など、多種多様な表現によって、今もこの絵は生命に溢れている。
コケリーはこう語った。「ゴッホといえば色彩、というのが通例になっていますが、私たちが強調したかったのは作品の物質性と厚みです」(翻訳:野澤朋代)
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