ロサンゼルスはバスキアに何を与えたのか。関係者たちが語る、若き天才の知られざる転換点

ロサンゼルスのガゴシアン・ギャラリーで、バスキアの知られざる一面に迫る展覧会「Made on Market Street」が開催される(2024年3月7日〜6月1日)。ラリー・ガゴシアンをはじめ、当時のバスキアを知る重要人物らへの取材から、陽光が降り注ぐロサンゼルスがバスキアに与えた影響をまとめた。

ジャン=ミシェル・バスキア《Hollywood Africans》(1983) Photo: ©Estate of Jean-Michel Basquiat. Licensed by Artestar, New York © Whitney Museum of American Art/Licensed by Scala/Art Resource, NY. Courtesy Gagosian

若きバスキアの才能に魅了され、ロサンゼルスに招いたガゴシアン

メガギャラリーのオーナーであるラリー・ガゴシアンは、アカデミー賞授与式前のこの時期、ロサンゼルスの自宅でパーティを開くのを恒例としていた。だが、今年は趣を変え、自分が駆け出しのアートディーラーだった時代を回顧する展覧会を初めて行うという。ウェストウッドのブロクストン・アヴェニューで額装したポスターを売る最初の起業を経てアート界に入り、ジャン=ミシェル・バスキアの作品をニューヨーク以外のコレクターに初めて紹介した頃のことだ。

同展が提示するストーリーは、よく知られたバスキアの人生と矛盾しているように感じられるかもしれない。ブルックリンに生まれ、ニューヨークのロウアーイーストサイドでグラフィティアーティストとして有名になったバスキアは、1988年にグレート・ジョーンズ・ストリートの自宅兼アトリエでドラッグの過剰摂取のため27歳の若さで死去し、ブルックリンのグリーンウッド墓地に埋葬された。常にクールなニューヨークを体現する存在だったバスキアだが、今回の展覧会、そしてガゴシアンが強調しているのは、ロサンゼルスのベニスビーチに滞在したことが、彼の人生とアートにおける重要な転換点になったということだ。

ガゴシアンがバスキアに出会ったのは1981年、ソーホーにあるアニナ・ノセイ・ギャラリーの地下スタジオでのことだった。ニューヨークに住み始め、アートシーンに足を踏み入れて間もない頃のことを、ガゴシアンはこう語る。

「当時はウェストブロードウェイにロフトを持っていて、時々そこに絵を何点か飾っていましたが、バスキアと出会ったときは、ほんの新米ディーラーでした。ロサンゼルスから出てきたばかりの私はニューヨークにすっかり魅了され、見聞きするもの全てに興奮していたものです」

若き日のガゴシアンは、バスキアにもすっかり魅了された。出会った頃、バスキアの名前はまださほど知られていなかったが、ガゴシアンもノセイと同様、彼が全く新しい方法で絵画に取り組み、これまでにないスタイルを切り開きつつあることを見抜いていた。

ガゴシアンは当時を回想しながら、エンタテインメント業界の大物で長年の顧客でもあるコレクター、デヴィッド・ゲフィンの言葉を教えてくれた。戦後アメリカ美術を網羅するゲフィンの広範なコレクションは、オールドマスターの名作を揃えたフリック・コレクションに匹敵するとされている。

「ある時、ビジネスの成功の秘訣は何かと尋ねられたデヴィッドは、『ただひたすら、天才に出会えるよう祈ること』だと答えていました。私にとって、まさにその天才がバスキアだったのです。彼はエネルギーと才能に溢れていただけでなく、とにかく独特でした。彼の前にも後にも、あんな絵を描いた人はいません。キュビスムのように、それまでにないスタイルを開拓したのです」

バスキアと出会って間もなく、ガゴシアンはロサンゼルスで展覧会をしないかと彼を誘った。翌年の初め、ニューヨークにあるノセイのギャラリーでバスキアの初個展が行われたわずか1カ月後に、ガゴシアンはバスキアの展覧会をノース・アルタモント・ドライブにあったギャラリーで開催している。さらに同じ年の11月、ガゴシアンは、ベニスビーチのマーケットストリートに竣工したばかりの3階建ての自宅に住まないかとバスキアに提案。設計事務所スタジオ・ワークスが手がけたこの建物には、ギャラリースペースのほか予備の居住スペースがあり、そこに越してきたバスキアはギャラリーを仕事場として使うようになった。

ラリー・ガゴシアンとジャン=ミシェル・バスキア(1982年頃)。Photo: Photofest

ロサンゼルスでの精力的な制作活動と破天荒な私生活

それから2年の間に二度ベニスビーチに長期滞在したバスキアは、そこで70〜80点の絵を描いた。一度目は1年ほどガゴシアンの自宅に滞在し、二度目の1983年には、ビバリーヒルズにあるホテル、レルミタージュに滞在しながらガゴシアン宅の近くにあるスタジオで制作を行っている。

「彼が制作の準備を整えるのに時間はかかりませんでした。すぐにカンバスや絵の具などを注文していて、とにかく仕事熱心なアーティストだったんです。それだけではなく、遊び方も半端じゃありませんでした」

伝記作家のフィービー・ホーバンが著書『Basquiat: A Quick Killing in Art』で書いているように、バスキアがロサンゼルスに到着する前からパーティはすでに始まっていた。ガゴシアンの手配でファーストクラスに搭乗した彼と仲間たち(ラメルジー、トキシック、A1、ファブ5フレディ)は、飛行機が離陸するやいなやコカインを取り出し、マリファナに火をつけ始めたのだ。ガゴシアンはこの時のことを、「機内であんな光景は見たのは初めてでした。すごい勢いで乗務員が飛んできて、私は『ああ何てことだ、みんなで刑務所行きだ』と慄きました」とホーバンに語っている。ところがバスキアは動じる様子もなく、「着陸したら警察に引き渡します」と乗務員に言われると、顔を上げて「ここはファーストクラスじゃなかったの?」と答えたという。

バスキアを最初に扱ったディーラー、アニナ・ノセイもホーバンの著書の中で当時をこう回想している。

「乗務員が私たちの席までやって来て、コカインを処分しないと到着次第、警察に逮捕させると警告しました。そうしたらラリーは、『アニナ、君は母親みたいなものだろう? なんとかしてくれよ』なんて言うんです」

ニューヨークにいたときのように、バスキアはすぐにロサンゼルスで急拡大していたクラブシーンや音楽シーンの常連になる。バスキアの友人でときに彼の制作を手伝うこともあったマット・ダイクは、ガゴシアン・ギャラリーのスタッフでもあり、この街のクラブシーンの中心的存在だった。そのダイクとバスキアは、パワーツールズというクラブでDJをしたり、後に『バスキアのすべて』を制作した映画監督のタムラ・デイヴィスと踊りに行ったり遊び回っていたが、彼らが通い詰めたクラブには、ラッパーのトーン・ロックやヤングMCなども出入りしていたという。とはいえ、バスキアがロサンゼルスに来たのは、何よりも仕事をするためだった。

「常に仕事をしていた彼の手には、いつも鉛筆が握られていました」とガゴシアンが言うように、バスキアは夜な夜な出歩いてはいたが、その経験は作品のインスピレーションにもなっていた。

ベニスビーチにあるガゴシアン宅のスタジオは、床一面に絵の具が飛び散り、レオナルド・ダ・ヴィンチの素描を集めた本やサイ・トゥオンブリーの画集などがあちこちに散らかっていた。バスキアはステレオから流れるチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーの曲に合わせ、複数のカンバスの間を行ったり来たりしながらエネルギッシュに作品を制作。部屋の隅に置かれた休憩用のマットレスでは、デイヴィスや画家のマイク・ケリー、ガゴシアンといった友人たちが、深夜まで絵を描くバスキアを眺めていた。最初のロサンゼルス滞在では、当時ガールフレンドだったマドンナも頻繁にこのスタジオを訪れていたという。2人はまさに80年代を代表するパワーカップルだった。

もう1人の常連は、バスキアのキャリアのごく初期から作品を買っていた熱心なコレクター、ハーバート・ショールだ。ガゴシアンは、バスキアの最高傑作のいくつかを購入し、ずっと持ち続けているショールについてこう回想する。

「彼は大変な目利きで、私よりも賢いコレクターです。私がショールに絵を見せているすぐ側で、バスキアはマドンナと毛布を被ってくつろいでいました。笑える光景でしたよ」

ちなみに、現在ツアー中のマドンナは、「Made on Market Street」展のオープニングの日に、ロサンゼルスのキア・フォーラムでライブを予定している。

自身のアイデンティティやマドンナとの破局を暗示する作品も

「Made on Market Street」展をガゴシアンと共同企画したフレッド・ホフマンがバスキアに初めて会ったのも、彼の最初のロサンゼルス滞在時だった。ロサンゼルス在住の多くのアート関係者同様、ホフマンはガゴシアンを通じてバスキアと知り合っている。版画制作会社ニュー・シティ・エディションズを経営するホフマンに、バスキアと一緒にシルクスクリーン版画のシリーズを制作してはどうかとガゴシアンが提案したのだ。このコラボレーションから生まれた版画の中に、大作《Tuxedo》(1983)がある。エディション数10点で制作されたこの版画は、今回の展覧会の核となる作品の1つだ。

ジャン=ミシェル・バスキア《Tuxedo》(1983) Photo: Fredrik Nilsen Stidio/©Estate of Jean-Michel Basquiat. Licensed by Artestar, New York /Courtesy Gagosian

《Tuxedo》は、15枚のドローイングと1枚のコラージュを組み合わせたもので、元になったそれぞれの作品は白い紙に黒で描かれていた。ホフマンによると、バスキアは完成品では色を反転させることを考えていたという。そこで2人は写真製版で地と図を反転させ、16点の作品を組み合わせた巨大なシルクスクリーン作品に仕立て上げた。バスキアのトレードマークである王冠のマークを頂いた約260 × 150cmの《Tuxedo》は、日頃彼が描いているカラフルな絵とは違う印象を与えることが意図されていた。ガゴシアン・クォータリーに掲載された記事の中でホフマンは、このモノトーン作品について次のように書いている。

「白いものを全部黒に変えたいというのは、彼にとって単なる表現上の希望ではなかった。そうした美的判断は、ある種の社会的・文化的前提に疑問を投げかける手段であり、特にアイデンティティの問題に関連していた」

この展覧会のもう1つの目玉が《Hollywood Africans》(1983)だ。バスキアによるロサンゼルス見聞録とも言える作品を、同じ記事の中でホフマンはこう説明する。

「これは、ジャン=ミシェルが友人のラメルジーやトキシックとハリウッドを旅する様子を描いた、歴史画のような作品です。彼らは観光客としてグローマンズ・チャイニーズ・シアター(*1)を訪れていますが、ジャン=ミッシェルは絵の中で、自分と友人たちを黒人の新しいハリウッドセレブとして描いています」


*1 ロサンゼルスの観光名所。その前の歩道にはスターたちの手形や足形がある。

《Hollywood Africans》は、ガゴシアンとホフマンがこの展覧会を開催するために貸し出してもらった数多くの作品の1つで、バスキアがロサンゼルスで二度目の個展を開いた1983年にテレビ界の大物プロデューサー、ダグ・クレイマーが購入し、その後ニューヨークのホイットニー美術館に寄贈された。また、ロサンゼルスのブロード美術財団、ミュンヘンのブランドホルスト美術館、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、バスキアの遺産管理団体のほか、複数の個人コレクション(所有者は明かされていない)から貸与された作品もある。

《Museum Security (Broadway Meltdown)》(1983)も注目に値する作品だ。これは、高値で取引されるようになった最初のバスキア作品の1つであるだけでなく、彼がお気に入りの映画『黒いオルフェ』(1959)を引用しながら、私生活での出来事をほのめかしている可能性がある。『黒いオルフェ』は、ギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケーの悲劇を下敷きにした映画だが、バスキアはそれを題材としながらマドンナとの破局を暗示しているのではないかとホフマンは展覧会図録の中で推測し、こう書いている。

「(ロサンゼルスに到着してわずか数週間後に)マドンナが突然出ていってしまった。その頃『黒いオルフェ』について考えていたバスキアは、オルフェウスとエウリュディケーの悲劇的な関係を示す複数のテキストと1つの図柄を組み合わせ、人生が劇的に変わる瞬間を《Museum Security (Broadway Meltdown)》に刻み込んだのだ」

ジャン=ミシェル・バスキア《Museum Security (Broadway Meltdown)》(1983)Photo: Fredrik Nilsen Stidio/©Estate of Jean-Michel Basquiat. Licensed by Artestar, New York /Courtesy Gagosian

ガゴシアンのキャリアにバスキアが与えた影響

80年代前半にロサンゼルスのガゴシアンで開かれたバスキアの個展は大成功を収めた。2012年にインタビュー誌に掲載された、大富豪で著名コレクターのピーター・ブラントとの対談でガゴシアンは、個展の成功はバスキアの才能を証明するものだったと語っている。

「地元ニューヨークで個展を成功させるのとは、わけが違います。ああいった作品でロサンゼルスの人々の心を掴んだのだから、大したものです。強烈にニューヨーク的で、都会的な作品でしたから。彼のアートがいかに力強いかが分かります」

ガゴシアンの長年の友人で、当時ロサンゼルスで開かれたバスキアの個展に二度とも訪れているアートディーラーのジェフリー・ダイチは、80年代前半はバスキアのキャリアにおいて「知名度はあまり高くない」ながらも、「最も重要な」時期だと言う。ベニスビーチで制作されたバスキアの作品について、ダイチはUS版ARTnewsにこう語った。

「他の作品よりも明るく、ポップで、シンボル性も強烈です。ロサンゼルスで制作された作品の独特な性質については、現代美術史の分野でさらなる研究が必要でしょう」

ノセイも同意見で、ロサンゼルスで描かれた作品群は、バスキアが手がけた中でも最高の部類に入ると語った。それらは、1984年にメアリー・ブーンとブルーノ・ビショフベルガーが企画し、ブーンのギャラリーでの個展用にバスキアが描いた作品よりもはるかに優れているという。

この時期は、ガゴシアンのキャリアにとっても非常に重要だったとダイチは付け加えた。

「ガゴシアンがアーティストとあれほど親密な関係を結んだことが、ほかにあったかどうか。彼らは同じ家に住み、そこで素晴らしい作品の数々が生み出されました。それは本当に特別なことです」

ウェストハリウッドのレルミタージュホテルを拠点にしていた二度目の滞在を含め、バスキアがロサンゼルスで制作した作品の展覧会は、ガゴシアンとホフマンが長くあたためてきた企画だ。

バスキアが1988年に没して以来、彼の展覧会を少なくとも5回は開催しているガゴシアンはこう述懐する。

「この展覧会について考え始めたのは、もう随分前のことです。ある日フレッドに電話して、『そろそろ実現させようじゃないか』と声をかけました。今がその時だと思ったからです」

バスキアの妹たちが企画した展覧会「Jean Michel Basquiat: King Pleasure」(2022年から2023年にかけてニューヨークとロサンゼルスで開催)は、バスキアを華やかなアート界のスターとしてではなく、家族という文脈で捉えていた。「Made on Market Street」展も、昨今では単なるブランドとして、または高額作品の代名詞と見られるようになってしまったこの天才アーティストに、新たな息吹を吹き込もうとしている。(翻訳:野澤朋代)

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