ARTnewsJAPAN

2024年ヴェネチア・ビエンナーレの国別パビリオン ベスト10

4月20日から開催する第60回ヴェネチア・ビエンナーレ(11月24日まで)。メイン展示も話題だが、国別パビリオンも見どころのひとつだ。今年は世界88カ国が参加し、アルセナーレとジャルディーニを中心に展示が繰り広げられている。これらのパビリオンを巡ったUS版ARTnewsのエディターが選んだベスト10を紹介する。

国別パビリオンのドイツ館に集まった人々。Photo: Felix Horhager/DPA/Picture Alliance Via Getty Images

ヴェネチア・ビエンナーレの国別パビリオンは、毎回メイン・エキシビションの後塵を拝するものだが、アルセナーレとジャルディー二の2カ所で行われる同展の作品を合わせたものと同数か、それ以上の作品が国別パビリオンでも展示されていることを考えると、皮肉なものだ。しかし今年は、総合ディレクターのアドリアーノ・ペドロサが手掛けるメイン展示が国という概念そのものに疑問を投げかけるような内容であったため、国別パビリオンを無視することはできなかった。

国別パビリオンの中でも、イスラエルパビリオンは出展をめぐって論争が起き、アーティストらが不参加を求めて抗議行動を起こした。そしてビエンナーレのプレビュー初日の4月16日朝、イスラエル代表アーティストのルース・パティールとキュレーターが、ガザの停戦と人質解放の合意を求めて、パビリオンの扉を開けなかった。イスラエルの展示に対する抗議を鎮めるには十分ではなかったが、人々の関心を集めるには十分だった。

今回の国別パビリオンは、植民地主義やフェミニズム、暴力的な戦争や気候災害、美術館とその不満などをテーマにしている。ニューヨーク・タイムズ紙の批評家ジェイソン・ファラゴに「ひどい」と評された2022年に比べれば、全体的にずっと良かった。多くの人々は、今回のパビリオンをより温かく受け止めていたようだ。

しかし、その中で人々の不評を買っているのが、マウリツィオ・カテラン、ソニア・ゴメス、コリータ・ケントらの作品をジュデッガ島女子刑務所に展示しているバチカン館だ。入場料が必要な上に予約制だが、毎日ほとんど入場枠がない。行きたい方は無事予約を取れるよう幸運を祈るが、もし無理だった場合でも、少なくともアート・イン・アメリカ誌にバチカン館についてのエミリー・ワトリントンの批評が掲載されているので肩を落とさないでほしい。

以下、2024年ヴェネチア・ビエンナーレの国別パビリオンベスト10を紹介する。

10位:ブラジル館

グリセリア・トゥピナンバ《Dobra do tempo infinito (Fold of Infinite Time)》(2024)Photo : ©Rafa Jacinto/Courtesy Fundação Bienal de São Paulo

今回のビエンナーレでは、ほぼ全ての国のパビリオンがどこかで植民地主義について言及しているが、グローバル・サウスの搾取を現在進行形の現象として表現しているパビリオンはほとんどない。そのため、グリセリア・トゥピナンバによる「Hãhãwpuáパビリオン」(ブラジル・パビリオンと呼ばれることの方が多い建造物に対して彼女が付けた名前)は際立っていた。

インスタレーション《Equilíbrio(均衡)》(2020-24)では、グリセリアは土の山の上に、彼女が属するブラジル先住民族のトゥピナンバ族が暮らす森林が、火災によって焼き尽くされる様子を映し出すモニターを置いている。これらはパビリオンで唯一、地主たちによる破壊を映したものだが、先住民族の人々が日々直面していることを思い起こさせるには十分だ。

 しかし彼女は一般的に、トゥピナンバ族のセーラ・ド・パデイロ・コミュニティの人々が漁に使う網を縫っている映像を上映する作品のように、自己保存の方法に重点を置いている。網がインスタレーション《Dobra do tempo infinito(無限の時間の折り目)》(2024)の上に吊るされており、その中を歩くと、聖域に入ったような気分になる。

9位:イギリス館

ジョン・アコムフラが代表作家を務めるイギリス館。 Photo : Photo Gabriel Bouys/AFP via Getty Images

ポスト・コロニアリズムの文脈を、複数の映像インスタレーションを駆使しながら数十年にわたって展開してきたジョン・アコムフラ。だが、彼が代表作家を務めるイギリス館では、アコムフラが日頃から手がけている作品と比べても、見る側の処理が追いつかない量のディスプレイが展示されている。

《Listening All Night To The Rain》と題された彼の最新作は、数時間に及んで上映される映像に加えて、膨大な量の音声が同時に流れており、一度見ただけではすべてを理解することは、ほぼ不可能と言ってもいいだろう。来場者が困惑するようアコムフラが意図的に仕組んでいたのであれば、イギリス館を避けて通った方がいいかもしれないが、本作には明確な主題が潜んでいる。1940年代後半からイギリスに移住したインド人「ウィンドラッシュ世代」やケニアにおけるマウマウ団の乱、生物学者のレイチェル・カーソンが訴えた生物多様性の大切さ、ベトナム戦争、そして差し迫った生態系への危機。こうした要素こそが、ガーナで生まれのアコムフラが手がけるインスタレーションに組み込まれたテッセラの一部であり、グローバル・サウスを巻き込む苦難のすべてが相互に関連していることを示しているのだ。

第8位:日本館

毛利悠子が手がける日本館の展示。 Photo : Photo Gabriel Bouys/AFP via Getty Images

日本館は、アーティストの毛利悠子がパイプや廃材で構成された仕掛けの数々を発表しており、今年のビエンナーレで最も風変わりなパビリオンを用意した国だと言えるだろう。武骨にくみ上げられた水によって、装置に取り付けられたシンバルやチャイムが不定期に揺さぶられる。展示スペースに設置された扇風機やフライパン、蛇口、ウッドテーブルをはじめとするものはすべて、ヴェネチア近郊の店から調達したという。

完成されたシステムが誤作動し始めた際に現れる亀裂に喜びを感じる毛利は、綿密に作られた外観を維持するために必要な資源や労力に焦点を当てている(実際、彼女が今回手がけた作品は、漏水した際の被害を最小限に食い止めるために東京の地下鉄の天井に施される一時的な対策に触発されたという)。このため毛利は、長いワイヤーに取り付けられた電球をパビリオンの床の近くまで垂らし、訪れる人々が日本館に入る前に目に付くように設計している。

第7位:レバノン館

レバノン館の代表作家を務めるモニラ・アル・ソルによる展示。 Photo : Courtesy of the Artist & Sfeir-Semler Gallery, Beirut/Hamburg, Photo by Federico Vespignani ©️ LVAA

話を聞く人によって、物語の顛末は異なるかもしれないが、ギリシャ神話に登場する神、ゼウスは雄牛に変装したのちに、フェニキアの王女エウロパを誘惑し(あるいは暴行を加え)彼女を連れ去った。レバノンの代表作家を務めるモニラ・アル・ソルは、エウロパは合意がないままゼウスの恋人になったと考えているようだ。例えば、《A Dance with Herself》と題されたアル・ソルによる巨大なインスタレーションでは、雄牛を背負ったまま縛られた男性か女性の区別がつかない人物が描かれている。作品のなかで起きていることを明言するのは難しいが、とにかく不気味さを感じてしまう。とはいえアル・ソルは、エウロパにまつわる神話を複雑にしており、王女を被害者として描いていない。この作品の隣に展示されている作品には、スーツケースを引きながら、何事にも果敢に挑戦するエウロパの姿が描かれている。

アル・ソルは、エウロパが移民であることに最も関心を示しているようだ。というのも、エウロパはゼウスに誘惑されたのちにクレータ島へと連れ去られ、そこで王女となったからだ。現代におけるヨーロッパ大陸は、たとえ一部の国民が移民を必ずしも歓迎していないとしても、移動によって成り立っているとアル・ソルは主張している(アル・ソル自身もベイルートで生まれ、現在はレバノンとアムステルダムを行き来している移民だ)。レバノン館を象徴する作品として、古代には存在しなかったであろうペットボトルをつないだカヌーの大きな彫刻作品が置かれている。この作品は、エウロパが生まれ育った地域に近い難民を頻繁にヨーロッパに運ぶ船を想起させる。

第6位:チェコ館

チェコ館の展示を手がけたのはエヴァ・コチャートコヴァ。 Photo : Photo Aleksandra Vajd

質問:コンセプチュアルなアート作品が遊び場として機能するのはどんなとき? 答え:カラフルなぬいぐるみのような素材で切り刻まれたキリンの内臓が表現されているとき。

エヴァ・コチャートコヴァによる作品は、ケニアで捕獲され、プラハ動物園に運ばれて2年後に亡くなったキリン、レンカの短い生涯へのオマージュだ。レンカの遺体は2000年までプラハ国立博物館に展示されていたが、コチャートコヴァは今回の作品で、レンカのためのより人道的な新しい場所を作ってあげることを目指している。

筆者がチェコ館を訪れたとき、そこでは子どもたちがキリンのパーツの合間を走り回っていて、彼らに道を譲らなければならなかった。子どもたちは、レンカが肺炎で命を落としたことや、植民地主義が彼女の早すぎる死に果たした悲劇的な役割を伝える音声が流れていることに気づいていないようだった。また、プラスチック製の心臓や皮膚のような破片など、偽物の体の一部が散らばっているのを気にする様子もなかったし、コチャートコヴァが自分の展示に亀裂を生じさせるような仕掛けとしてパビリオンの床に開けた穴に注目することもなかった。それでも、子どもたちは何かを掴んだのだと思う。彼らはこのレプリカのレンカを、自分たちと対等な存在として見ていた。国立博物館でレンカの遺体を見た人の中で、おそらく同じことを考えた人はほとんどいないだろう。コチャートコヴァのパビリオンがそれを誘発できるという事実は、かなり刺激的だ。

第5位:リトアニア館

アグニアス・ゲルガーダとネリンガ・チェルノスカイテスカイテからなるアーティストデュオ、パクイ・ハードウェアが手がけたインスタレーション作品《Inflammation》。 Photo : Photo Ugnius Gelguda/Courtesy the artists, Lithuanian National Museum of Art, and carlier | gebauer

17世紀の教会内に設置されたボディ・ホラーの祭典とも呼ぶべきリトアニア館は、今回のビエンナーレの中でも最も美しいものと言えるだろう。手がけたのは、アグニアス・ゲルガーダとネリンガ・チェルノスカイテスカイテからなるアーティストデュオ、パクイ・ハードウェア。彼らは、大理石の祭壇の前にこのインスタレーション作品《Inflammation》を設置した。金属製の枠組みは医療器具を思わせ、ガラスの塊は臓器のようにも見える。その下には、偽物の落ち葉のような形をしたオブジェの山がある。

この作品は、パンデミックと地球温暖化のせいで良い状態とは言えない人間の身体と自然界の脆さを扱っている。精神的な癒しの場である教会にこの作品を設置することで、パクイ・ハードウェアは、両者がいつの日か活力を取り戻し、生きながらえるという希望を込めているのかもしれない。

この作品は「病める身体」といった趣だが、それゆえに、画家マリヤ・テレセ・ロジャンスカイテ(Marija Teresė Rožanskaitė)による牢獄を兼ねたような病院のベッドにつながれた病人を描いた作品が同時に展示されているのは理にかなっているとも思える。ロジャンスカイテによる幻想的かつ不穏なイメージは、パクイ・ハードウェアのインスタレーションとうまく調和しているのだ。

しかし、パクイ・ハードウェアのこの作品を見て思い出されるロジャンスカイテの作品は、むしろ1986年の《Reinforcement Rods》だ。これはクリスティーナ・ラムバーグの作品にも通じる作品で、包帯が巻き付けられた曲がったポールが描かれている。ロジャンスカイテが作品の中で作り出した想像上の構造物は今、糸で吊るされ、今にも落ちて壊れてしまいそうだ。でもどういうわけか、かろうじてその状態を維持しているのだ。

第4位:ポーランド館

ユーリー・バイリー、パブロ・コヴァハ、アントン・ヴァルガからなるコレクティブ、オープン・グループが手がけた《Repeat After Me II》。 Photo : © Open Group

ポーランドは当初、別のアーティストが代表することになっていたが、反欧州的な作品であるという批判を受けて、ウクライナのコレクティブ、オープン・グループを起用した。これが見事に功を奏したようだ。オープン・グループは、ユーリー・バイリー、パブロ・コヴァハ、アントン・ヴァルガからなるコレクティブ。その作品《Repeat After Me II》(2024)は、紙の上で表現するにはあまりに単純すぎて成立しないように思える。この作品は2つの動画で構成されており、どちらもロシアの暴力的な侵略を乗り切ったウクライナ人へのインタビューが含まれている。2022年のビデオでは、ウクライナの都市リヴィウで話す被写体が映し出され、2024年のビデオでは、西ヨーロッパに住む被写体が映し出される。この作品を特別なものにしているのは、動画に登場するウクライナ人たちの言葉というより、オープン・グループのアプローチだ。


というのも、ウクライナ人たちが話しているのは、言葉ではなく、迫撃砲の発射音や空襲警報のサイレンの音。彼らが正気のない目でじっとカメラを見つめ、こうした音を真似るたびに、音声ではなく字幕として、しかもまるでカラオケのようにハイライトしてオーディエンスに伝えられる。空間にはマイクが設置されており、映像の登場人物たちと同じように「SSSSSS THUKH」と大砲の爆音をオーディエンスが真似ることができるのだが、私が訪れたときは、そんな勇気ある鑑賞者は誰もいなかった。そこにこそ、この作品のメッセージはある。多くの人々は、難民たちに共感し、彼らの苦しみついて発言することを、まだ恐れているのだ。

3位:クロアチア館

ヴラトカ・ホルヴァットが代表を務めるクロアチア館。Photo: Hugo Glendinning

アルセナーレやジャルディーニから距離のあるカンナレージョまでわざわざ足を運んだ観客は、視覚的な楽しみがほとんどないクロアチア館に不満が残るかもしれない。しかし、同国の代表アーティスト、ヴラトカ・ホルヴァット(Vlatka Horvat)のプロジェクト《By the Means at Hand(手近な方法で)》は、華やかさに欠けるものの、それを補って余りある豊かなコンセプトがある。

このプロジェクトでホルヴァットは、国外にいるアーティストの友人たちに協力してもらい、各人が制作した作品をインスタレーションとして展示した。こう説明すると簡単なように思えるが、そこにはこんな条件がある。協力する作家は船便のような通常の輸送方法を取ることができず、代わりにホルヴァットが送った使者に作品を直接手渡す必要がある。作品と引き換えに、それぞれの作家にはホルヴァットの制作したコラージュが渡されるが、それを半ば公共的な場所に展示して写真を撮り、彼女に送らねばならない。さらに、展示される作品のグループ分けは日替わりで、流動的なのものになる(この作業のため、ホルヴァットはビエンナーレ期間中ヴェネチアに滞在する)。

展示では、こうした流れをたどれるようになっている。たとえば、アフメット・オグート(Ahmet Ögüt)の作品は、自分が死んだら心臓をガザのアル・シファ病院に提供するように願うドローイングで、梱包された作品が使者に手渡される瞬間を記録した画像とともに鑑賞することができる。ホルヴァットのインスタレーションは、国をまたいで移動する人々のネットワークが世界中で急速に広まっていることの記録とも言えるが、生まれ故郷の旧ユーゴスラビアを離れ、現在はロンドンを拠点に活動するディアスポラのアーティストである彼女にとって、それはとても重要な意味を持つのだろう。ホルヴァットのパビリオンが今後どのように変化していくかはわからない。だからこそ見る人の心を惹きつけるのだ。

2位:ナイジェリア館

ナイジェリア館に展示されたトイン・オジ・オドゥトラの作品。Photo: Marco Cappelleti Studio/Courtesy Museum of West African Art

ナイジェリア館の中庭には、鉄骨でできた枠にガラスの球をはめ込んだオブジェが設置されている。その上に投影される画像とあいまって、まるでナイジェリアから送られてくる静止画、ポップミュージック、政治解説などを受信する仮設の電波塔のようだ。しかし、これは通信のための構造物ではない。2022年のヴェネチア・ビエンナーレのメイン展示で注目を浴びたプレシャス・オコヨモン(Precious Okoyomon)が、ナイジェリアの外に存在するナイジェリアを表現した作品だ。

ナイジェリアがヴェネチア・ビエンナーレの国別展示に参加するのは今回が2回目で、オコヨモンは今年の代表作家8人の1人。企画を行ったのはベニン・シティのエド西アフリカ美術館で、新設される同美術館の紹介が意図されている。しかし、近々オープンする美術館のプレビューというよりは、ナイジェリアのディアスポラを導く目に見えない記憶を鮮やかに表現する展示として興味深いものがある。実際、アーティストの多くはナイジェリア系ではあるものの、ナイジェリア国外を拠点としている。

たとえば、ニューヨークを拠点に活動するトイン・オジ・オドゥトラ(Toyin Ojih Odutola)は、イボ族が祭りのときに作る神の家、ムバリを思わせる具象絵画を展示。ロンドンが拠点の映画監督オニェカ・イグウェ(Onyeka Igwe)は、ラゴスにあるイギリス人経営の制作プロダクションを題材にした作品の改訂版を出展している。しかし、最も心を打たれたのは、トロントを拠点とする若手写真家アブラハム・オゴバセ(Abraham Oghobase)による一連の作品だ。その中には、ナイジェリア独立後初の首相と、植民地支配を行っていたイギリスを代表する人物を写した1960年の写真を流用し、誰だか見分けがつかないほどぼかしを入れた《Colonial Self-Portrait 05(植民地時代の自画像05)》(2024)がある。その出来事を経験した人、そして誰かからその話を聞いて知っている人なら、何の写真か分かるだろう。そうでなければ、2人の幽霊が手を振っているようにしか見えないかもしれない。

1位:ドイツ館

ニコール・ルイリエ《Encuentros(出会い)》(2024) Photo: Andrea Rossetti

国家という概念そのものが課題となる国別パビリオンは退屈なものになりがちだが、2会場に分かれ、何かと何かの間にある場所やそれぞれの異質さに焦点を当てた今年のドイツ館は衝撃的だった。ジャルディーニでの展示は、エルサン・モンターク(Ersan Mondtag)が土で覆ったファサードから始まり、館内ではイザヤ書(旧約聖書の三大預言書の一つ)に基づく宇宙旅行を描いたヤエル・バルタナ(Yael Bartana)の映像作品が上映されている。奇妙ながらもエネルギーを与えてくれるこの作品を見ようと、早くから人が集まり、長い列ができたのも不思議ではない。

しかし来館者は、市内から離れたラ・チェルトーザ島にあるもう一つのドイツ館のことを知らないか、興味がないようだった。そこでは、屋外に設置されたサウンドアート作品群が甲高い周波数を発し、木々が互いに語り合う音を響かせている。その中で最も奇妙かつ印象的なのが、ビニールシートに挟んだマイクを用いたニコール・ルイリエ(Nicole L’Huillier)の作品だ。剥がされた皮のようなビニールシートは枝にかけられ、集音された音がその近くに流れる。

フリーズ誌編集長のアンドリュー・ダービンは、ジャルディーニに展示されたモンタグとバルタナの作品だけを引き合いに出してドイツ館を酷評した。しかし、ラ・チェルトーザ島の展示抜きで批評するのは片手落ちだろう。今年のドイツ館が際立っている理由は、展示がドラマチックに分割され、観客がヴェネチア中心部にある他の国々の展示から離れた場所まで足を伸ばさなければならないところにある。ビエンナーレの国別モデルが今後進化していかねばならないのであれば(そうあるべきだが)、その未来を体現しているのが今回のドイツ館ではないだろうか。

from ARTnews

あわせて読みたい