戦争や大量虐殺が終わるのを待ちながらアートを鑑賞する意味──2024年ヴェネチア・ビエンナーレ考

今年のヴェネチア・ビエンナーレでは、ウクライナやガザで数多くの市民が命を奪われているときにアートを鑑賞することの意味を考えざるを得ない。そうした観点でUS版ARTnewsのシニアエディターが選んだベストパビリオンをリポートする。

ヴェネチア・ビエンナーレ2024のチェコ館に展示されたエヴァ・コチャートコヴァの作品。Photo: Lucas Blalock

政権転覆に備えて踊るバレリーナ

今回のヴェネチアビエンナーレで、とても気に入ったパビリオンがある。すべての展示を見尽くしたわけでもないのに、そう宣言するのを許してほしい。ビエンナーレのプレビュー期間、私はカプチーノでエネルギー補給をしながら、ひたすらヴェネチアの街を駆け回った。FOMO(取り残されてしまうことへの恐怖)に突き動かされ、どんどん歩数が増えていったが、それでも見たい展示をすべてカバーするには時間が足りない。以前より見応えのあるコラテラル・イベント(*1)が増えた気がするのは私だけだろうか?


*1 ヴェネチア・ビエンナーレと同時期に周辺地域で開催される企画展。

とにもかくにも、ジャルディーニにあるオーストリア館のことが頭から離れない。同館では、ウクライナ出身のバレエダンサー、オクサナ・セルゲイエワがレッスン用のバーで『白鳥の湖』のリハーサルをしている。私はしばらく見とれていたが、やがて我に返ると「これにはどんな意味があるのだろう」という疑問が湧いてきた。誰もがそうするように壁の解説文に目を向けると、かつてソビエト連邦で政治的動乱が起きた際、国営テレビ局は通常の番組の代わりに『白鳥の湖』を繰り返し放映していたという説明があった。つまりセルゲイエワは、ロシアで政権が転覆したときに備えてリハーサルを行っているというわけだ。

オーストリア館のアンナ・イェルモラエヴァの作品《Rehearsal for Swan Lake》(2024)に出演しているオクサナ・セルゲイエワ。Photo: Lucas Blalock.

ソ連時代のロシアに生まれたアーティスト、アンナ・イェルモラエヴァ(Anna Jermolaewa)とセルゲイエワがコラボレーションした《Rehearsal for Swan Lake(白鳥の湖のリハーサル)》(2024)は、戦争や大量虐殺が終わるのを待ち望みながら、ビエンナーレでアートを見ることの不条理さを突きつけてくる。そこで浮き彫りにされるのは、アートがさまざまな問題を直視せずにいるための軽薄な気晴らしに思えること、そして、現実逃避ができる程度に恵まれた人々にとっては無力感と絶望を和らげてくれるものであることだ。さらには、歴史的な事件が日常生活と隣り合わせにあることの不条理を痛烈に思い起こさせもする。

同じことは、オーストリア館に並ぶほかの作品からも感じられる。ウィーンの駅構内にあるベンチで眠るため、あれこれ試して快適な姿勢を探る様子を捉えたイェルモラエヴァの映像作品《Research for Sleeping Positions(寝心地のいい姿勢の研究)》(2006)もその一つ。このベンチは、イェルモラエヴァが1989年にオーストリアに到着してから難民キャンプに入るまでの1週間、毎晩寝床にしていた場所だが、何年も経ってそこに戻ってきた彼女は快適な姿勢を見つけるのに一苦労する。人が横たわるのを防ぐアームレストが加えられていたからだ。

別の展示室には、2010年のチュニジアのジャスミン革命、2007年のミャンマーのサフラン革命、2004年のウクライナのオレンジ革命など、さまざまな抗議運動でシンボルとされた植物を飾る《The Penultimate(最後から2番目)》(2017)というインスタレーションがある。ここでは、詩的な表現が政治的な主張を伝えているが、ひしひしと感じられるのは両者の間に横たわる深い溝だ。もし、この展示を好きだと感じるなら、ポーランド館もきっと気に入るだろう。

オーストリア館のアンナ・イェルモラエヴァによるインスタレーション《The Penultimate(最後から2番目)》(2017)。Photo: Lucas Blalock

混沌や不条理さが目立つ中で際立った日本館とチェコ館

アメリカはイランと戦争を始めるのだろうか? ニューヨークで進行中のトランプ前大統領の裁判はどうなっているのだろうか(居眠りしたことが話題になっていたが)──そんなことをあれこれ考えながら歩いていると、ふとキャシー・アッカーがゴヤについてのエッセイに書いていたことが頭に浮かんで離れなくなった。

「社会が耐え難いときの唯一の対抗手段は、同じくらい耐え難いナンセンスだ」

今回のビエンナーレには、目一杯多くの要素を詰め込み、混沌や不条理の感覚を打ち出したパビリオンが多いと感じる。それよりは目立たないが、もう一つの傾向として散見されたのは、不必要なほどの没入感や過剰な演出だ。特に目立ったのがフランス館とギリシャ館で、あれほどのBGMを使う必要があるのか、はなはだ疑問だ。一方、ジャルディーニのドイツ館は、アスベストやスモークマシンなどを使った大がかりな展示で話題を呼んでいるが、正直あまりピンとこなかった。ただし、第2会場のチェルトーザ島は必見なので、ぜひ足を伸ばしてほしい。アルセナーレではレバノンとアイルランドの展示がおすすめだが、後者は私には少し暴力的すぎた。

日本館に展示されている毛利悠子の作品。Photo: Lucas Blalock

ほかにも2つ、お気に入りのパビリオンがある。それは日本館とチェコ館だが、この選択には多くの人から賛同が得られるだろう。日本館の毛利悠子のインスタレーションは、壊れかけたインフラへの応急措置として作られたルーブ・ゴールドバーグ・マシン(*2)のようで、さまざまな素材を組み合わせた軽妙な立体作品で知られるレイチェル・ハリソンに水漏れの修理を依頼したらこうなるだろうと思わせる。ビニールホースやバケツを組み合わせた複雑な仕掛けのところどころに接続されているのは、果物や電球、楽器などだ。この構造全体が滴り落ちる水の運動エネルギーを感じさせ、売れ残りの農産物から生まれた電力を利用して光と音を発している。


*2 多数のからくりが連鎖反応していく機械的装置。アメリカの漫画家ルーブ・ゴールドバーグが考案したもの(日本ではNHKの番組「ピタゴラスイッチ」で広く認知された)。

チェコ館では、レンカという名のキリンの首を模したエヴァ・コチャートコヴァ(Eva Koťátková)の作品が展示されている。1954年にケニアで捕獲されたレンカは、プラハ動物園に運ばれ、2年後にそこで死んだ。コチャートコヴァが制作した巨大なキリンの首は、中が空洞で横向きに置かれている。観客が中に入って座ることもできるこの作品は、愛らしくもあり、グロテスクでもあるが、これは動物園に行った時に抱く感覚に通じるものがある。つまり、「こんにちは、牢屋の中のキリンさん。檻に入れられているのはかわいそうだけど、会えてうれしい」というような気持ちだ。作品が本物の革でできているのか気になって会場にいた人に尋ねてみたが、誰もその答えを知らなかった。

もし本物だったなら、私にとっての「耐え難いナンセンス」がさらに積み上がっていただろう。しかし、後で同館のキュレーターを務めるハナ・ヤネチコヴァに聞いたところ、返ってきたのは「展示もアーティストもベジタリアン」という答えだった。(翻訳:野澤朋代)

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