女性画家たちはなぜ少年兵を描いたのか──二度の大戦がアートに求めたもの【見落とされた芸術家たちの美術史 Vol.8】

大和絵の時代から近代に至るまで、なぜ日本史や美術の教科書に登場する巨匠は男性ばかりなのか? その社会的な理由と数少ない女性画家たちの歩みを、ジェンダー美術史を専門とする吉良智子が紐解く連載。第8回は二度の大戦と当時の画家たちの歩みについて。

吉良智子著、戦争と女性画家: もうひとつの近代「美術」〈ブリュッケ〉。表紙は女流美術家奉公隊による「大東亜戦皇国婦女皆働之図 春夏(三部作)の部」(1944年)。

──今回からは戦争と女性画家について伺います。吉良さんの著書『女性画家たちと戦争』にも詳しく書かれていますが、二度の大戦は女性画家の行動にも大きく影響を与えたのですよね。今回はその前提知識として、男女問わず戦時中に画家たちが置かれていた状況について広く伺えればと思います。そもそも、戦時中に芸術はどう扱われていたのでしょうか?

資料が少ないので言えることが限定的なのですが、少なくとも展覧会は戦時中も開催され、賑わっていたそうです。戦時中は娯楽が規制されるイメージがありますが、芸術は日本でも戦意高揚のツールとして利用価値が認められています。例えば、日本画は国の伝統文化を大切にするというナショナリズムの文脈に合っていました。

──絵筆(彩管)で国に報いる(報国)ことを表す「彩管報国」という言葉もあります。

はい。例えば、横山大観は戦前から戦後まで富士山を描き続けていましたが、富士山は日本という国の象徴でもある重要なモチーフでもありました。彼は戦争を直接描くことなく、戦争画を描いていたと言えます。戦時中は多くの人が「役に立つことを証明しなくてはならない」というプレッシャーを感じていました。それは画家も同様で、何かしらのかたちで戦争に貢献しなければならないと考えた人、あるいはそう強いられた人も多かったと考えられます。特に前線に赴いて戦争画を描いた画家は少なくありません。

横山大観の《神嶽不二山》(1940)。彼は戦時中、自らが製作した作品20点の売上を陸海軍に寄付していることで知られている。東京富士美術館蔵/「東京富士美術館収蔵品データベース」収録

──何かしらの貢献をするというモチベーションがあったのですね。

この時期は、画壇のマジョリティであった男性画家たちも、美術と社会の乖離に焦燥感を抱いていたという理由もあります。そもそも当時の西洋画は日本画に比べ、まだマーケットが十分に成長していませんでした。そのため、洋画家は社会から必要とされているという感覚を日本画家にくらべてもちづらかったのです。

加えて、画題の問題もあります。西洋の男性画家は戦争や政治といった社会にわかりやすくつながりのある画題を扱うことも多かったのですが、特に戦前の日本の西洋画界では男女ともに家庭的な画題を描く傾向にありました。その理由については連載の第7回でお話していますが、男性画家のなかにはもっと社会との接続性を感じられる題材を扱いたいという潜在的欲求があったことが想像できますよね。

──戦争はそのわかりやすいモチーフだったということでしょうか。

男性画家の中には、報道記者の身分でいち早く前線に足を運ぶ人もいました。戦争画の研究をしている千葉工業大学教授の河田明久さんは共著書『イメージのなかの戦争』のなかで、大戦が進むにつれて戦争画の構図には変化がみられると書いています。

日中戦争は大義名分のない戦争として知られていますが、それがゆえに画家たちもなぜ兵士たちが戦っているのかがわからないという問題がありました。戦争画においては、伝えたいことを効果的に伝えるための構図が重要です。しかし、戦いの理由が曖昧な日中戦争の場合は、伝えたいことそれ自体も曖昧になります。その結果、この時期の戦争画の多くは単に兵士の後ろ姿を描いたものが多くなりました。何を描けばいいかわからないけれど、不真面目な態度で戦争を描くことはできないので、兵士と一緒に突撃していく構図をとるわけですね。

──画家たちの戸惑いが構図に現れていたと。

そうなのです。しかし、やがて太平洋戦争が始まり、国が「欧米に植民地化されたアジアの国々を解放する」という大東亜共栄圏の大義名分を打ち出すと、画家たちは戦意高揚のための作品を描きやすくなりました。画家が俯瞰的な視点から兵士たちを描き、これがどういう戦争なのかを描くのです。大義名分ができたので、兵士たちをある種「コマ」のように配置することにもためらいがなくなりました。戦争画からはそうした変化もみてとることができます。

──前線に同行した画家のなかには、女性もいたのでしょうか?

極めて稀ですが、いないわけではありません。有名なのは長谷川春子です。彼女は通信員として満州事変や支那事変の前線に赴いています。彼女は当時の女性画家としては珍しく、戦前にはパリに留学して個展も開催しました。日本画は鏑木清方、油絵は梅原龍三郎に師事するなど著名な画家からの指導を受けています。

──当時としてはかなり例外的なキャリアのように思えます。なぜ、長谷川春子にはそれが可能だったのですか?

16歳離れた姉である長谷川時雨の力添えが大きかったと思います。時雨が『女人芸術』という文芸誌を発行していたこともあり、表紙絵や挿絵を描くだけではなく、春子は友人の女性画家らを誘って『女人芸術』の表紙絵や挿絵を手がけました。当時の女性画家たちは男性優位の画壇に対抗するため、女性だけのグループをつくっていました。そのネットワークの結果生まれたのが、戦時中に春子が委員長となって結成した「女流美術家奉公隊(以下、奉公隊)」です。

奉公という言葉がつくことからもわかるように、国のために尽くすことを目的とした戦時協力隊です。陸軍報道部の指導のもとで結成され、日本画や洋画の区別なく多くの女性画家たちが参加しました。メンバーには工芸や彫刻の女性アーティストもいました。

──長谷川春子は例外として、一般的に女性画家は従軍して戦争画を描くことは少なかった中で、どのような活動をしていたのでしょうか?

主な活動は、少年兵学校の学生たちの姿を描いた作品を発表することでした。その代表例が「戦ふ少年兵」という巡回展です。奉公隊が結成された1943年ごろは、戦局の悪化によって少年兵が動員されるようになっており、少年兵学校への入学を促すためのプロパガンダが求められていました。第7回でお話したとおり、もともと女性画家たちは子どもをモチーフにした画を多く描いていたので、そこに白羽の矢がたったわけです。

──展覧会を通じて少年兵を増やすということでしょうか?

はい。こうした展覧会のターゲットは母親たちです。少年兵の姿を理想化して描き、「少年兵学校に入ることで、子どもたちは立派に成長できる」というイメージを生み出すことで、将来的に子どもを戦地に送るよう母親たちを鼓舞しようとしたのです。結局「戦ふ少年兵」は、東京、神戸、大阪、京都などの都市を巡回しました。

──そうした奉公隊の活動は、戦後の女性アーティストにどのような影響を与えたのでしょうか?

この活動が女性アーティストの地位向上に役だったかというと、わたしは疑問に思ってしまいます。ただその目的がプロパガンダだったとはいえ、奉公隊はいくつかの点で女性アーティストの活動の礎を築き上げました。

そもそも、全国規模の巡回展を女性が主導して開催するということ自体が当時は稀なことだったんです。男性主導の芸術界では、女性が展覧会や団体の運営のノウハウを得る機会はほとんど設けられていませんでした。そういう意味で、奉公隊は女性が意見を出し合いながら実践的な経験を積める、貴重な場所だったと言えます。

──男性がいなかったからこそ、知見を得られる場所となったと。

また、奉公隊に下部組織が設けられたことにも意義があります。こうした下部組織には20代の若い女性画家たちが参加していたのですが、彼女たちは奉公隊を通じて画材の支給を受けるなどの恩恵も受けていて、これが厳しい戦時下でも制作を続けるための手段にもなりました。

──次世代のアーティストにも間接的に影響があったのですね。

はい。そしていちばん大きなメリットは、この活動を通じて女性画家同士が結びついたことです。連載の第6回では、1920年代ごろから現代でいうコレクティブが結成され始めたことについて触れましたが、奉公隊に参加したアーティストのなかにはこうしたコレクティブに属していなかった人も多かったんです。また、奉公隊をきっかけに、ジャンルの垣根を超えたアーティストたちの交流も生まれています。こうしたネットワークが、戦後に結成される女流画家協会の基盤にもなりました。そういう意味で、奉公隊が女性アーティストに与えた影響は大きかったといえるでしょう。

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