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存在を消された抽象表現主義の先駆者、ジャネット・ソーベル。その作品と功績を振り返る

第2次世界大戦後まもなくアメリカの美術界から姿を消し、21世紀になって再発見されたウクライナ系ユダヤ人の女性アーティストがいる。抽象表現主義の旗手ジャクソン・ポロックに影響を与えたとされるジャネット・ソーベルのキャリアと作品を、ニューヨークで行われた展覧会を通して紹介する。

床に腹ばいになって制作をするジャネット・ソーベル。Photo: Courtesy of Gary Snyder

ポロックに先駆けドリップペインティングを実践

ジャネット・ソーベル(1894-1968)が、制作活動について口にすることはほとんどなかった。数少ない発言の中で、自らを率直に語る次の言葉は彼女を知る上で貴重なものだ。

「私は人間と、それに関わる全てのものにとても興味があります」

彼女の死から50年以上、アート界から忘れ去られて75年近く経った2023年に、ニューヨークのウクライナ美術館(The Ukrainian Museum)で彼女の美術館での初個展「Wartime(戦時)」が開催された。そこに展示された作品を貫いていたのも、ソーベルの人間に対する生来の好奇心だ。

ジェニー・ウィルソンやエフゲニア・オレチョフスカなど、複数の名前で知られていた(というよりは知られていなかった)ソーベルの功績に、近年ようやく光が当たりはじめた。中でも注目されているのが、ジャクソン・ポロックに先駆けてドリップペインティングを実践したことだ。その一部の作品は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に所蔵されている。

彼女がポロックに与えた影響は、1961年にクレメント・グリーンバーグ(*1)がアート・アンド・カルチャー誌に寄せた論考『「アメリカ型」絵画(“American-Type” Painting)』(*2)に記されていることなどから検証されている。だが、単にこの意外な逸話だけで、彼女の美術史への貢献や、その特異さの全容を捉えることはできない。


*1 アメリカを代表する美術評論家。抽象表現主義、特にジャクソン・ポロックを高く評価した。

*2 1955年にパルチザン・レビュー誌に初稿が掲載された論考の改訂版。元のバージョンにはソーベルについての記述はなかったが、1961年の改訂版では脚注で彼女について触れている。

ソーベルは、哲学者のジョン・デューイやコレクターのシドニー・ジャニスから注目され、ペギー・グッゲンハイムが運営するギャラリー(Art of This Century Gallery)で個展を開いたり、マルク・シャガールやマーク・ロスコ、マックス・エルンストといった同時代の画家たちのグループ展に参加したりと、1940年代のニューヨークのアートシーンで頭角を表した。だが、彼女は自発的にそこに入り込んだわけではない。後押しをしたのは息子のソル・ソーベルだった。

自身も美術教室に通い、母が絵を描くきっかけを作ったソルは、積極的にアート界に働きかけ、アーティストやギャラリストたちに母の作品を紹介した。彼女が亡くなって間もなく、グリーンバーグはソルに送ったハガキの中でこう書いている。

「ポロックは、1948年に初めて(マーク・)トビーのドリップペインティングを(印刷物で)見たとき、あなたのお母様の方が優れていると思ったと言っていました」

暖かい言葉なのは確かだが、グリーンバーグほどの評論家ならソーベルをポロックのような美術史上のスターにすることができたはずだ。それなのに、彼女の功績については論考の脚注で触れただけで済ませている。彼は、私信の中で過去のエピソードを引き合いに出して心情を明かしはしたが、美術史に残る形で彼女について論じることはなかった。

ソーベルの名が忘れ去られた原因は、彼女自身にもあった。作品について語ることには明らかに無関心で、自分の文化的知識について矛盾した発言をし、アート界から身を引いたときも唐突だった。1946年に夫が営む人工真珠メーカーが事業拡大のため工場を新設したことを機に、彼女はニュージャージー州プレインフィールドに移り住み、最終的にその会社の副社長を務めた。それ以降は、女性、主婦、独学の画家という属性のために軽んじられ、彼女の存在はほとんど消されてしまった。

ジャネット・ソーベル《Untitled / Без назви》(1945年頃)、板に張った紙にガッシュ Photo: Luis Corzo/Courtesy of The Ukrainian Museum, New York

「純粋で美しい多文化世界」を描く

ソーベルが精力的に制作活動に取り組んでいたのは、1930年代後半から40年代半ばにかけてのことだ。独学で画家になった彼女は、ブルックリンのブライトンビーチにあるアパートで絨毯を引いた床に腹ばいになり、息子から貸りたり、家族の工場から持ち出したりした画材を使って絵を描いていた。このいつもの体勢で、彼女は絵の具を飛び散らせたり垂らしたりして、その跡を何かの形や人物に見立てた作品を生み出している。当初は、この技法で具象画や具象的なオールオーヴァー作品(*3)を描いていたが、やがて完全な抽象へと移行していった。


*3 画面全体を絵の具で覆うことで均質に処理し、絵の中心や焦点、奥行きを排する手法。ジャクソン・ポロックに代表される。

しかし、美術史家のアリサ・ロシュキナが展覧会図録に寄せたエッセイで書いているように、ソーベルにとっての抽象表現は、ほかの多くのモダニストたちのように「現代アートの発展から論理的に」導き出されたのではなく、「人間の魂の深奥に組み込まれたもの」だった。

また、ソーベルの絵画は、その仕事のやり方と同様に気取ったところが一切なく、誇張やごまかしが見られない。それを見ると、彼女は当時の流行を追うよりも、旺盛な好奇心のままに心を解放していたことが感じられる。MoMAのシニアライターであるアレックス・ハルバーシュタットは、ソーベルの画業を「自宅という私的空間で、完全に自分自身の楽しみのために行われたもの」と評している

ロシアによるユダヤ人迫害のため10代でアメリカに移住したソーベルは、ウクライナの思い出のほか、新聞やラジオ番組などから受けたインスピレーションをもとに、自分の周りの世界を反映した無意識的なビジョンを描き出した。その初期の絵は、故郷の文化を生き生きと表現しながらも、アメリカの文化に対する興味に溢れている。

ある絵では、ピンク、黄色、青のマーブル模様の空の下、4人の卵のような形の人物が正面を向いて肩を並べた様子が描かれている。そのうちの2人はウクライナの伝統的な花輪をかぶり、もう1人には髭がある。その髭は、西海岸のヒッピー風というよりヨーロッパ風だが、彼らの周りに散りばめられているのはサーフボードとヤシの木だ。

地理的にも文化的にもバラバラなものが同居するこの作品は、意図的にあらゆるところからモチーフを引用してくる彼女の具象画の特徴を表すものだ。そこにはユダヤ人やウクライナ人だけでなく、黒人や先住民、修道女、兵士などが登場する。ロシュキナいわく、それらが組み合わされたソーベルの作品は「悪や悲しみが存在するにもかかわらず、心を打つ純粋さを失わない、活気に満ちた美しい多文化世界」を描き出している。

ウクライナ美術館の「Wartime」展は、彼女の中でも暗い部分に焦点を当て、抽象画に移行する前の1941年から43年にかけての作品を中心に構成されていた。その頃の彼女の主要な関心事は、第2次世界大戦と、それが彼女の家族(5人の子どものうち2人がヨーロッパ戦線に出征)やブルックリンの地元コミュニティ(*4)、そして生まれ故郷のウクライナに残してきた親しい人々に及ぼす影響だった。


*4 当時のブライトンピーチはヨーロッパからのユダヤ系移民が多く、時代が下って70年代以降は旧ソビエトからのユダヤ系移民やウクライナからの移民が増えた。

ソーベルと現代のウクライナ人作家が示す戦争の現実

ソーベルはシリーズとして作品を制作したり、段階を踏みながら新たなテーマに移行したりするというより、さまざまなスタイルやモチーフの間を常に行ったり来たりする画家だった。しかし、この展覧会のキュレーターを務めたピーター・ドロシェンコ館長は、彼女の仕事の様式的な幅と芸術的探求の深度を示すために、50点近い作品をあえてテーマ別に紹介している。

入り口に近い展示室には故郷ウクライナの思い出やニューヨークの地元コミュニティの人々を描いた作品が、次いで戦争のニュースへの関心の高まりを反映した作品、さらに当時「プリミティブ」と呼ばれていた一群の作品と続いていき、最後には徐々に抽象へと向かっていた時期の作品が展示された。

個展の最後を飾る中央の部屋には、実際に世界各地で起きている激しい戦いを取り上げた種々の絵が集められた。くぐもった地鳴りのような音が響くこの部屋で目に入ってくるのは、戦場にいるさまざまな民族の兵士たちがバリケードの間から向こう側を覗いていたり、交渉のためテーブルを囲んでいたり、銃剣を振り回したり、大砲にまたがっていたりする光景だ。ちなみにソーベル自身は、第2次大戦後の1948年に《ヒロシマ》というオールオーヴァー作品を制作しているが、ここでは展示されていなかった。

ソーベルも、ラジオを通して遠い場所で行われている戦争の響きを感じたことだろう。会場に流れる音は、暴力的な紛争に直接巻き込まれた人々が経験する強烈な恐怖について考えさせるだけでなく、アメリカにいる人々が、そうした危険から遠く離れていることを意識させた。

ジャネット・ソーベル《Untitled / Без назви》(1941年頃)、板に張った紙にガッシュ Luis Corzo/Courtesy of The Ukrainian Museum, New York

「Wartime」展では、第2次世界大戦に対するソーベルの反応——戦地から遠く離れた場所で、故郷の友人・親戚からの便りや報道を通じて前線の状況を断片的に把握していたこと——が前面に押し出されていた。一方、併催されたウクライナ人アーティスト、レシア・ホメンコ(1980-)の展覧会は、現在進行形のロシアとの戦争に向かい合うものだ。

リリア・クーデリアがキュレーションを手がけ「Image and Presence(イメージと存在)」と題されたこの展覧会に出展された作品の多くは、ロシアや旧ソ連で長く受け継がれた社会主義リアリズムの伝統を覆すものだった。ホメンコは、軍隊を称揚するプロパガンダとして20世紀半ばに作られた絵画に登場する勇ましい人間や機械を一切排して、無人の大地を抽象的に描いている。

ホメンコはこの方法を、同展のために新たに制作したシリーズ「AJS(After Janet Sobel)」(2023)にも応用している。これは、ソーベルの戦争画を下敷きにしたものだが、ある作品では元の絵で4人の兵士と2台の大砲が描かれていた場所に不規則な形の空白があり、その上に血の色に染まった空が広がっている。

彼女はさらに、生命と暴力を表すこれらの消去されたモチーフを2枚のカンバスの上に移し、それを丸めて抽象化された絵に立てかけた。筒状のカンバスは、ソーベルの絵の大砲を3次元化したかのようだ。こうしてホメンコは、作品の特徴である人間の不在を強調する一方で、移住を迫られた彼女自身とソーベルの経験に伴う現実を提示したのだ。

レシア・ホメンコ「AJS(After Janet Sobel)」シリーズ(2023)の展示風景。Photo: Luis Corzo/Courtesy of The Ukrainian Museum, New York

この作品のコンセプトについてホメンコはこう語る。

「2つの展覧会と2人の女性を結びつけることで、世代間の対話を示したいと考えました。時代は100年以上離れていますが、2人ともウクライナから移住してきたアーティストという共通点があります」

彼女が提示してみせた対話によって、時を超えて両者が共有する経験に光が当てられた。ソーベルの絵に描かれた兵士たちは、「職業軍人というよりは、現在ウクライナで戦っている志願兵のように見える」というホメンコの指摘は、そのことをさらに強調するものだ。そしてこの対話は、ロシアの攻撃を受けて世界各地へと避難したウクライナ人の経験だけでなく、「すべての戦争は、前線だけでなく、海を隔てて遠く離れた大陸でも百万人単位の人々に影響を与える」という現実をまざまざと示している。(翻訳:野澤朋代)

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