音と光で「不可視な存在」を記述する──スティーヴ・マックイーンが新作で到達した新境地
映像作家で映画監督のスティーヴ・マックイーンは、これまで輝かしいキャリアを築いてきた。現代アーティストとしては1999年にターナー賞を受賞したほか、ドクメンタやヴェネチア・ビエンナーレなどの国際展に何度も参加。映画監督としては第86回アカデミー賞(2014年)で黒人監督初の作品賞を獲得している。そのマックイーンが最新インスタレーションで見せた新たなアプローチをレビューする。
映像作家による「映像のない作品」
1999年にターナーを賞受賞したほか、ドクメンタやヴェネチア・ビエンナーレなどの国際展に何度も参加してきた現代アーティストであり、映画監督としては第86回アカデミー賞(2014年)で黒人監督初の作品賞に輝いたスティーヴ・マックイーン。見る者の脳裏に焼き付く長回しのショットで知られる彼は、しかし、もはやそうした映像を作ることにあまり興味がないように見える。
ホロコーストの時代のアムステルダムを描いた4時間半のドキュメンタリー『Occupied City(占領下の都市)』(2023)は、今の彼が何を重視しているのかをよく示している。この映画では、当時アムステルダムに住んでいたユダヤ人の人権がどのように剥奪されていったのかを解説するナレーションが流れるが、マックイーンが撮影した現在のオランダの首都の映像は、語られている内容を一切反映していない。カメラはアパートの中や美術館の廊下、運河のある街並みを淡々と映すだけで、そこに目を引くような映像はほとんど出てこないのだ。警察による暴力や人々が苦悩する様子を伝える映像が溢れている今、マックイーンは暴力表現から距離を置こうとしているのかもしれない。
最新作の《Bass(ベース)》(2024)に至っては、私たちに何ひとつ見せてくれない。マックイーンは、ニューヨーク州のハドソンバレーにある現代アート美術館、ディア・ビーコンの地下に展示されたこのインスタレーションで、映像と完全に決別している。約2800平方メートルの会場は音と光で満たされ、目に見える展示物は天井に取り付けられた60個のライトボックスのみ。その光が、網膜が焼けてしまいそうなホラー映画風の赤い色から夕暮れ時のオレンジ色の輝きまで、ゆっくりと色合いを変えながら空間全体を鮮やかに染めていく。
《Bass》というタイトルから想像できるように、この作品の焦点は音であり、視覚ではない。使われている音は、今年1月にディア・ビーコンの地下スペースに集まった5人のアフリカ系ミュージシャンの共演によって生み出された。マックイーンは指揮者として参加したが、ミュージシャンたちは指揮を必要とするわけでもなく、大部分は即興で奏でられた。そうして録音された189分の音楽を、マックイーンはほとんど編集せずに使用している。
クインテットを構成するのは、マーカス・ミラー、アストン・バレット・ジュニア、ママドゥ・クヤテ、ローラ=シモーヌ・マーティン、ミシェル・ンデゲオチェロ。彼らは、単なる5人のソリストによる演奏にとどまらず、全員で1つの音楽を作り上げている。たとえば、ンゴニと呼ばれる西アフリカの伝統的な弦楽器を演奏するクヤテが出した音と、ジャズ界の巨匠たちと共演してきたベーシストのミラーが出した音を聴き分けるのは難しい。彼らは共に、唸るような轟音や弦の響き、哀愁を帯びた調べでシンフォニーを奏でる。そしてマックイーンは、その音が広大な地下展示室全体に響き渡る没入感のある空間を実現した。
色彩と音の変化に浸れるミニマリズム的空間
しかし、音楽とライトボックスの関係性は曖昧だ。時折、色彩の移り変わりと音の変化がシンクロし、さまざまな連想を誘発する。深い青から燃えるような赤へと変化していくさまは、強い恐怖を表現しているように私には思えた。頭上のスピーカーからは打ちつけるような激しい音と攻撃的なピチカートが流れ出し、赤がオレンジに変わるまで続く。
とはいえ、それはこの美しいインスタレーションの中では例外的な瞬間で、ほとんどの間、音楽は低いトーンに抑えられている。フレットの上を指が滑り、ベースが低く唸る音が響く中、照明はネオングリーン、鮮やかな赤紫色、妖しい青色と、さまざまに色を変えていった。
これらの色彩は、上の階にあるダン・フレイヴィンの蛍光管を使った作品が放つ光を思い起こさせる。また、天井に取り付けられたライトボックスの工業製品然とした四角い形からは、ドナルド・ジャッドなどミニマリストの作品の影響も感じられる。マックイーンが《Bass》を、ディア・ビーコンの中心となっているミニマリズムの歴史の中に位置づけようとしているのは間違いないだろう。
しかし、1960年代から70年代のミニマリストたちが厳格さと秩序を重んじたのに対し、マックイーンの最新作はその内側に温かみがあるように感じられる。その点では、数年前に同じ地下展示室で発表されたカール・クレイグの《Party/After-Party(パーティ/2次会)》(2020)に近いかもしれない。クレイグが提示した光と音のスペクタクルは《Bass》よりずっと派手だが、最高に盛り上がったクラブパーティの熱狂とそれが終わろうとする時間の寂寥感 を思わせるものだった。
整然と並ぶライトボックスや地下室の柱とは対照的に、《Bass》の音はランダムに流れており、作品を体験する方法も観客次第だ。薄暗い壁際にはベンチが置かれているが数は少ない。私がしたように柱に沿って歩きながら鑑賞することもできるし、ほかの人がしていたように、真ん中あたりに腰を下ろして空間を満たす色と音を味わうこともできる。いろんな可能性があることをマックイーン自身が楽しんでいるようだ。
目に見えない悲痛な歴史を後世に伝えるには
《Bass》は何をテーマにしているのだろうか? 作品は抽象的だが、マックイーンには具体的なイメージがあったようだ。ニューヨーク・タイムズ紙の記事の中で、彼は奴隷貿易のミドル・パッセージ(*1)を「天国と地獄の間のようなどっちつかずの状態」だと考え、黒人を「ポストアポカリプス的」(*2)な存在として見ていると語っていた。ディア・ビーコンの地下で彼が提示した廃墟のような世界観は、2つ目の言葉で説明できるかもしれない。
*1 大西洋奴隷貿易で、奴隷にされたアフリカの人々を南北アメリカへ運んだ航路。
*2 文明や人類が終末を迎えた世界を描くフィクションのジャンルや作品。
しかし、彼のアイデアと実際の展示との間に一対一の関連性を見つけることはできない。《Bass》は奴隷にされた人々が大西洋を渡る船を再現しているわけでもなければ、それに関わる何か、あるいは誰かを表現しているわけでもない。この作品とミドル・パッセージの間に何らかの関連性があったとしても、マックイーンはそれを目に見える形では提示していない。当時行われた残虐行為を、ホロコーストをテーマにした映画『Occupied City』と同じ方法、つまり、それに関する表象を排した形で提示しているのだ。
彼がそうした手法を取ったのは、現在開催中のホイットニー・ビエンナーレに参加した多くのアーティストが、人種差別などの偏見をテーマにしつつも直接的な表現を避けた理由と通じるところがあるように感じる。ビエンナーレのアーティストと同じく、マックイーンも人々は奴隷制の残虐さについて十分知っており、それをもう一度描くことでトラウマを深める必要はないと考えているのだろう。彼はすでに、(歴史的事実を正確に表しているかどうかはともかくとして)黒人奴隷ソロモン・ノーサップの壮絶な回想録を映画化した『それでも夜は明ける』(アカデミー作品賞を受賞)で、そうした表現をしているからだ。
マックイーンは、悲痛な歴史は視覚化できない形で後世に伝えられるのだと示唆しているのかもしれない。権力者が公的な記憶から首尾よくそれを消し去ってしまった場合には特に。
そんなとき、目に見えない歴史は音の中に編み込まれる。物語は繰り返し語り継がれ、本に書かれなかった出来事は歌に記録され、抽象的な音色は記憶を鮮やかに呼び覚ます。《Bass》は、目に見えないものについての音響作品だ。その静かな不協和音を聴き、音が胸の中で振動するのを感じ、目には見えないが確かに存在するものを見つけてほしい。(翻訳:野澤朋代)
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