インド・南アジア近現代アートは「今後も価格上昇」。欧米の美術館と現地コレクターの間で争奪戦
高い経済成長率で世界での存在感を増すインドなど、南アジアの近現代アートに熱い視線が集まっている。オークションで価格上昇が続いている現状やその背景について、関係者に取材した。
コレクター間の競争が高まる南インド近現代アート
アート市場についての会話で話題に上るのは、パブロ・ピカソやジャン=ミシェル・バスキア、ジェフ・クーンズといった欧米の作家が中心だ。こうしたアーティストの作品が、数十億円、あるいはそれ以上の途方もない値段で落札されたというニュースは頻繁に耳にする。しかし、南アジアのアートを取り上げる市場ウォッチャーはほとんどいない。
「アート界ではこれまでずっと、インドやバングラデシュ、パキスタンのアートは著しく過小評価されてきました」
こう語るのは、アートアドバイザーでディーラーのアルシ・カプーア。しかし最近、状況は変わり始めている。アート市場が調整局面にあると言われ続ける中で、南アジアのアーティストの作品価格が上昇しているのだ。
サザビーズは今年3月、アジア・ウィーク・ニューヨークの会期中に実施した南アジア近現代美術のイブニングセールで、1980万ドル(直近の為替レートで約31億7000万円、以下同)を売り上げた。これに対し、昨年の同じオークションでの売り上げは半分以下の700万ドル(約11億2000万円)に過ぎず、新型コロナによるロックダウン直前の2020年アジア・ウィーク期間中に行われたセールの結果は、さらに低い480万ドル(約7億7000万円)だった。
サザビーズの南アジア近現代美術部門バイスプレジデント兼ワールドワイド共同責任者であるマンジャリ・シハレ=スティンは、US版ARTnewsの取材にこう答えた。
「ここまで来るのに長い年月がかかりました。市場に変化が起きたのはここ4、5年のことです」
このカテゴリーでの取引量の増加には、複数の要因があると専門家は言う。具体的には、オークションに出品される質の高い作品が増え、コレクター層が拡大していることに加え、インド・パキスタン分離独立後(*1)のインドで活躍した「プログレッシブ・アーティスツ・グループ」と呼ばれる作家たちの作品が手に入りにくくなっていることが挙げられる。
*1 1947年にイギリス領だったインド帝国が解体し、インドとパキスタンの2つの国として独立した。
クリスティーズ・ニューヨークでも、アジア・ウィークに合わせて3月に開催した南アジア近現代美術セールの売り上げが2000万ドル(約32億円)に迫る勢いを見せた。担当部門の責任者ニシャド・アヴァリは、この分野のコレクターたちの間で競争意識が高まっている理由をこう考えている。
「ひとたび美術館が購入してしまえば、作品が市場に戻ってくることはないと彼らは気づいたのです。だから、競り負けないようにギアを上げねばと考えているのでしょう」
一方、前出のアートアドバイザー、カプーアの見方はこうだ。
「最高レベルの作品を国外に流出させたくない──そう考えているインド人コレクターからの強い需要があります。つまり、最高の作品を手元に置いておきたいのです」
予想価格を大きく上回って落札される作品が目白押し
現在この分野では、ナスリーン・モハメディやニリマ・シェイク(インドの女性アーティスト)、ズベイダ・アガ(パキスタンの女性アーティスト)、ザイヌル・アベディン(バングラデシュの男性アーティスト)などの作品も取り引きされるようになっている。だが、これまで高値で売買されてきたのは常にインド人男性アーティストの作品で、それは今も変わっていない。
その中には、近頃自らの落札記録を更新したS・H・ラザやF・N・ソウザといったインドのモダニスト作家がいる。たとえば今年3月のサザビーズのオークションでは、予想落札価格が200万〜300万ドル(約3億2000万〜4億8000万円)だったラザの絵画《Kallisté(カリステ)》(1959)が560万ドル(約9億円)で落札され、昨年3月の同作家のオークション記録133万ドル(約2億1000万円)を大きく塗り替えた。
やはり今年3月にクリスティーズで行われたセールでは、予想落札価格70万〜100万ドル(約1億1000万〜1億6000万円)だったソウザの《The Lovers(恋人たち)》が、490万ドル(約7億8000万円)近い価格で落札されている。これまでのソウザのオークション記録は、2015年9月にクリスティーズで競売にかけられた幅約2.4メートルの大型絵画、《Birth(誕生)》(1955)の400万ドル(約6億4000万円)強だった。
市場におけるインド美術の平均的な価格からすると、こうした結果は「決して小さな額ではありません」とサザビーズのシハレ=スティンは言う。
高値で売れた作品はまだある。クリスティーズではグランモハメド・シークの《Portrait of a Tree(木の肖像)》(1975)が、予想最高落札価格を100万ドル以上上回る138万ドル(約2億2000万円)で落札。サザビーズでは現在開催中のヴェネチア・ビエンナーレにも作品が展示されている故ブペン・カカールの作品《Hatha Yogi(ハタヨギ)》(1978)が、競り合いの末、予想最高落札価格の2倍以上となる180万ドル(約2億9000万円)で決着した。どちらの落札額もアーティストの記録を更新するものではなかったが、現在のインド美術市場の勢いをはっきり示している。
この活況を後押ししているのが、南アジアのアートを研究し、所蔵品に加えようという美術館の動きだ。近年、ロンドンのテートやニューヨーク近代美術館(MoMA)、グッゲンハイム美術館などが、欧米以外のモダニズムの歴史を取り入れて展示の幅を広げようとしている。その一例が、MoMAの常設展でマーク・ロスコの絵画からそう遠くない場所に展示されているインド人画家、モハン・B・サマントの作品だ。MoMAがサマントの絵画を入手したのは1963年だが、その翌年から最近展示替えが行われるまで、この作品が常設展示室に飾られることはなかった。
「今後かなりの値上がりが期待できる」
南アジアのアーティストに対する美術館の関心が高まる中、オークションハウスはそれを好機と捉えてさまざまな取り組みを行っている。サザビーズでは、2021年にニューヨークのモルガン・ライブラリーでシャジア・シカンダーの展覧会が開催された際、招待制のガイドツアーを企画するなど顧客向けの情報提供を積極的に展開。パリのポンピドゥー・センターでS・H・ラザの回顧展が開催された2023年には、ロンドンの拠点で販売を目的としないラザの展示会を開催している。このときのことをシハレ=スティンはこう説明する。
「どの入り口から建物に入ってもラザの作品が目に入るようにしたのです。そして、現代アートを収集している顧客にも見に来てもらいました」
さらに、オークションに出品されている作品の多くは、投機目的に繰り返し転売されたものではないとシハレ=スティンは強調した。
「90から95パーセントは、個人コレクションから市場に放出されたばかりのものです。私たちアート関係者はエコシステムを健全に保つため細心の注意を払う必要があります。そのためには責任を持って買い手を選ばなければなりませんが、これに関してギャラリーは素晴らしい仕事をしています」
クリスティーズのアヴァリも同じような意見を述べつつ、自分の顧客は主に長期的なコレクターだと話す。また、シハレ=スティンと同様、彼はこれまで現代アートよりも近代アートを多く扱ってきたという。
「プライマリー市場に関して私たちの経験値はまだ高いとは言えませんし、ほかのカテゴリーと違ってアーティストのスタジオにあった作品が直接オークションに出品されるケースもほとんどありません。私たちが扱っている作品はすべて定評のあるコレクターが所蔵していたもので、これまで所有者が変わったのは数回というところです」
とはいえ、カプーアのようなアドバイザーのもとには、南アジアのアーティストの作品を投資の対象にしたいと考えるインド人以外のコレクターからの問い合わせが増えているという。カプーアは現状をこう説明する。
「今は、ある程度のお金を払えば本当に良い作品が手に入るチャンス。そうした作品は、今後かなりの値上がりが期待できます」
シハレ=スティンは、南アジアの近現代アート市場は地域限定的なものだという誤解があると付け加えた。もしそうなら、南アジアのアートに関心を寄せているのは南アジアに住むコレクターだけだということになる。しかし、こうした見方はアメリカにおけるインド系人口の多さ、そして彼らの成功の度合いを考慮していないとして、彼女はこう指摘した。
「アメリカ発のグローバル企業のCEOはほとんどインド系です」
(翻訳:野澤朋代)
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