ブルジョワ階級の退屈な日常を異化させた画家、メアリー・カサットが「二流の印象派」ではない理由

フィラデルフィア美術館で、メアリー・カサットの個展が約四半世紀ぶりに開かれている(9月8日まで)。印象派を代表する女性作家の1人であり、女性や母子の日常的な表情を捉えた独自の画風で知られるカサットの作品は、見る者に何を与えてくれるのか。展覧会のレビューをお届けする。

メアリー・カサット《青い肘掛け椅子に座る少女》(1877-78)

何気ない日常の断片を徹底的に掘り下げたメアリー・カサット

フィラデルフィア美術館で開催されているメアリー・カサット展を見て、私は何かを考える人の表情がどういうものなのか理解できたように思う。カサットの絵の中の人物たちは何かを考えている。無表情ではあるが、無表情の裏でじっと考えているのだ。

前回の展覧会から実に25年の月日を経て開催されたカサットの個展「Mary Cassatt at Work(メアリー・カサット・アット・ワーク)」は、若い世代がその作品に触れる格好の機会だと言える。この展覧会を企画したキュレーターのジェニファー・A・トンプソンとローレル・ガーバーは、カサットという人間に迫り、彼女がどんな作家として記憶されたいと望んだのか、そして一見穏やかな絵画で何を成し遂げたのかを示すため、その制作プロセスに焦点を当てた。仕事に熱中するアーティストだったカサットは、光やきらめく色彩、現代的な動き、そして何より物思いにふける女性や子どもたちを対象に、「何気ない」情景をカンバスに描こうと弛まず制作に励んでいた。

生き生きとした緑や乳母車に乗った幼女などを配したカサットの絵は、一見シンプルだ。しかし、彼女の手法が決して単純ではないことをこの展覧会は明らかにしている。彼女は、小説家のマルグリット・デュラスやクラリッセ・リスペクトル、映画監督の小津安二郎のように、まっすぐ核心へと迫るために細心の注意を払いつつ、表現を研ぎ澄まそうと格闘した。そのためにメディウムを変え、あるいは色彩を使った実験を試み、そしてまた、取るに足らないように思える日常的な題材にこだわり、あらゆる角度からそれを深掘りしている。

彼女はまた、版画でも素晴らしい仕事を残した。この展覧会では、カサットが日本の浮世絵に影響を受けて制作した「Set of Ten」(1891)という10枚組の見事な版画シリーズも展示されている。はじけるような色彩のアクアチントや精緻なドライポイントの技法を使ったこの作品に描かれているのは、パリの女性たちが入浴をしたり、手紙を書いたり、子どもの世話をしている場面だ。

本を読んでいる小さなフランソワーズ、化粧室にいる女性たち、少年をきつく抱きしめている愛情に満ちた腕、さまざまな国や海を示しているであろう地図(詳細は描かれていない)を覗き込む2人の少女など、カサットの作品に囲まれていると、軽やかに絵を描くのがどういうことなのか分かってくる。しかしそれは、子どもやオペラのボックス席、気だるい午後のひと時といったテーマが軽いという意味ではない。

メアリー・カサット《The Bath(沐浴)》(1890-91)

「注意深く見守り、愛を注ぐ仕事」に目を向ける

印象派」「女流画家」「アメリカ人」「アッパー・ミドル・クラスの白人」「センチメンタリスト」「女性参政権運動家」など、カサットにはあれこれとレッテルが貼られた。しかし、それは彼女の絵の深みを理解するのにはほとんど役に立たない。確かに彼女は全てに当てはまる。しかし、私たちの心を掴むのは、ドレスのラズベリーピンクの色合いに徹底的にこだわった彼女の執念だ。《Portrait of Madame J(J婦人の肖像)》(1883)の中の気丈な女性の心のうちを読むには、見る側に忍耐と観察力が求められる。霞がかかったような黒いベールが、彼女の表情とその静かなまなざしの奥にある悲しみを隠しているからだ。

カサットにとっての仕事とは、体を動かすことだけではなく、放っておかれた子どもが自分でも何がしたいかわからず顔を歪めたのを見逃さないというな、些細だが簡単ではないことも含まれていた。彼女の仕事は、ポール・セザンヌの身悶えするような重労働とはまったく異なる。セザンヌは、息苦しげに見えるゴツゴツしたリンゴや、自分の妻の肖像の出来に最後まで満足することはなかった。また、彼女の労働の描写はギュスターヴ・クールベの農夫やジャン=フランソワ・ミレーの落穂拾いのような、貧しい人々の暮らしに迫った社会主義的なリアリズムとも違う。カサットが心を奪われているのは、長椅子の上で繰り広げられる日々の目立たない労働、つまり赤ん坊が早死にしないよう世話をすることだ。それは注意深く見守り、愛を注ぐ仕事だが、ひょっとしたらこの種の愛は時に押しつけがましいものになるのかもしれない。

美術批評家のデボラ・ソロモンは、ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した展評の中で、カサットを「印象派の画家たちの中では二流」で、「ドガやマネと同じ高みに達しているとは言えない」と書いている。まったくこの種のランク付けにはうんざりだ。もうやめてくれ! と言いたくなる。

メアリー・カサット《In the Loge(桟敷席)》(1879)

こんなヒエラルキーは退屈だ。それは、カサットのことを「母と子」という単純な主題に取り組んでいた画家だと決めつけ、母親であることを熟知していたからその手の絵に長けていたと早合点する態度と共通する(彼女には子どもがいなかった)。さらには、金銭が動く経済の世界と切り離された彼女の作品世界では「何も起こらない」という主張と同じくらいつまらない。

片手に樺の木でできた絵筆を持ち、もう片方の手で銀のティースプーンを持ちお茶をかき混ぜていたとカサットを揶揄するのは単純すぎる。確かに、株式仲買人の娘だった彼女はアッパー・ミドル・クラスに属し、アメリカの貴族階級と言えるほど裕福だった。ブルジョワ階級の「平凡な」日常風景というのが彼女の得意分野だったが、それは彼女が慣れ親しんでいた特殊でどこか奇妙な世界だった。彼女はその奇妙さをそのまま表現し、平凡さを異化させている。

身近な人々の隠された感情を絵の中で昇華させる

同じアメリカ人の小説家、ヘンリー・ジェイムズやイーディス・ウォートンのように、カサットは、身の回りのごく狭い世界に焦点を定め、そこにある事物や、そこに埋もれている人々の感情を作品の中で昇華させている。彼女はそうした感情を拾い集め、思いがけない繊細さと秘儀的な秩序を持つ叙事詩的な世界を構築した。その世界の秩序は、単なる社会秩序ではない。社会秩序はオレンスカ伯爵夫人(イーディス・ウォートンの小説『エイジ・オブ・イノセンス:汚れなき情事』の登場人物)やデイジー・ミラー(ヘンリー・ジェイムズの同名小説の主人公)を破滅に追いやったが、読書にふけるカサットの隣人の少女フランソワーズは、そんなものに足を取られない。

気の毒なほど神経質なジェイムズは、読者がたどるべき挿入句やセミコロンを延々と連ねていく。完璧主義のジェイムズは、巻かれた絨毯を首尾よくほどき、その中に隠されていた人物を完全に明るみに出すことができないのではないかと不安を感じているのだ。それとは対照的に、カサットは不完全さを恐れていない。彼女は、物思いにふける女性たちの内面を謎のままとして受け入れる。

もし私たちが日々のトラウマについて思いを巡らせたいと思うなら、あるいは、お金や恋愛にまつわる悩みや子どもの重さを支える腕の痛みについて嘆きたいのなら、カサットの絵の中にいる、赤ん坊の形をした十字架を背負う乳母たちに会いに行けばいい。そこで私たちが目にするのは、母親でも赤ん坊でもなく「ケア」することの政治的側面だ。私たちは言葉を追うのに難儀することなく、顔料と空白が作り出す世界に没入し、我を忘れることができる。

メアリー・カサット《A Goodnight Hug(おやすみの抱擁)》(1880)

物思いにふける人物が秘めた謎を謎のまま描く

私は2枚の絵を何度も見に戻った。その1枚は、カサットの隣人の少女を描いた《Françoise in a Round-Backed Chair, Reading(丸い背もたれの椅子に座り読書をするフランソワーズ)》(1909)だ。これは物思いにふける人物を描いた典型例と言える。顔や手を細部まで描き込む一方で、身体や背景は粗いスケッチに留める近代的なアプローチを多用していたカサットだが、この絵はそうした作品に比べると形式的な斬新さはない。

しかし、眺めているうちにカサット独特の未完成な部分があることに気づく。フランソワーズが持っている本の表紙はぼかされていて、彼女が何を読んでいるのかはわからない。そもそも彼女がそれを読んでいるのかどうかもわからない。彼女は画面の隅の方にある何かに視線を向けているが、それはもしかしたら私たち鑑賞者がいる空間の何かかもしれない。彼女は何を見つめているのだろう? 何も見ていないのかもしれない。フランソワーズは、さまようように私たちのそばから離れ、彼女がいる部屋からも離れ、真面目なことや楽しいことを思いめぐらす自分の思考の中へと分け入っていく。

もう1つの作品は、《The Map(地図)》(1890)というドライポイント版画で、2人の少女が地図を眺めている様子がモノトーンで表現されている。カサットは地図の輪郭を1本の線で表しているだけなので、少女たちが見下ろしているのは地図というよりは何も書いていない白い紙、あるいは単にテーブルではないかとすら思える。そして2人の少女は、カサットの静かな世界の中で、力を合わせてその地図を解読しているように見える。

多作だったカサットは、それぞれが少しずつ違う独特な小世界をいくつも創り出した。それを見ていると、彼女の世界の中の椅子に座って物思いにふけりたい気分になる。ヘンリー・ジェイムズは『ある婦人の肖像』の序文で、「望みうる限り興味深く、そして美しく困難を描く」ために、(周りの人々と主人公の関係性に焦点を当てるのではなく)「若い女性自身の意識の中に主題の軸を置く」ことにしようと考えたと書いているが、カサットが絵画で実践しているのもそれに似ている。彼女は人物の顔が常に秘めている謎を描いている。理解されることはないと知っている謎を。

逆説的かもしれないが、彼女の絵を見ていると、誰かと一緒にいることがどういうことなのかが分かるような気がする。長椅子に横たわって読書をしながら、その誰かが読書しているのを眺める。縫い物をしながら、誰かが縫い物をするのを眺める。あるいは、一緒にぼんやりと「何もしない」で、(実のところはあれこれと)物思いにふけるところを見る。そして、こうした日常の断片に満足を感じるのだ。(翻訳:野澤朋代)

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