ARTnewsJAPAN

訃報:田名網敬一が88歳で死去。大規模回顧展のオープニングから2日後

現代美術家でグラフィックデザイナー、イラストレーターの田名網敬一がくも膜下出血により8月9日に死去したと発表された。88歳だった。

田名網敬一。Photo: Courtesy NANZUKA

田名網敬一が8月9日に死去したと所属ギャラリーのNANZUKAが発表した。88歳だった。同ギャラリーによると、田名網は2024年6月後半に骨髄異形成症候群を患っていることが判明し療養を続けていたが、7月末に突如くも膜下出血を発症した。亡くなる2日前の8月7日に国立新美術館で始まった自身の集大成となる個展「田名網敬一 記憶の冒険」の開催を心待ちにし、リハビリに励んでいる最中だったという。葬儀は田名網の遺志により親族と関係者のみで執り行われた。後日、お別れの会を催す予定だという。

NANZUKA代表の南塚真史は、次の言葉を寄せた。

「常にユーモアを欠かさず、しかし決して妥協しないその姿勢に、私も本当に多くのものを学ばせてもらいました。田名網敬一は、NANZUKAの血であり骨であり肉でした。

田名網は生前に、自身の最近のアニメーションやペインティング作品を称して、『(自分が)死後に住む世界』だと説明をしていました。きっと、田名網の魂は、この自ら築き上げた極楽浄土で、妻や友人、そして魑魅魍魎たちと楽しく、永遠に生き続けることと思います。そして、この先田名網が心血を注いだ作品の数々が美術の歴史と皆様の心の中に生き続けることを、私も切に願っています」

1936年に東京・京橋に生まれた田名網敬一は、幼少期に第2次世界大戦を経験する。その後武蔵野美術大学へ進学。1960年代はイラストレーター、グラフィックデザイナーとして活躍しながら、アメリカンコミックやアンディ・ウォーホルのポップアートに多大なる影響を受けた独自の作風を確立していく。1975年には日本版「月刊プレイボーイ」の初代アートディレクターに就任し、華々しいキャリアを築いた。

また、1980年代から90年代を通して、肺水腫を患い生死の境を彷徨った経験から「生と死」をテーマにした作品を数多く残している。1990年代からは田名網の1960年代の創作がKAWSなど新世代のカルチャーリーダーに高く評価されたことから、若者世代に人気を集めるようになった。1991年からは京都造形芸術大学教授に就任し、束芋ら若手作家を育成した。

晩年は漫画家・赤塚不二夫とコラボレートしたシリーズを発表したり、コロナ禍にはピカソの模写700点を制作したりとエネルギッシュに創作を続けた。田名網の個展は、国内はもとよりダラス美術館やテート・ギャラリーなど世界各地で開催されており、近年はニューヨーク近代美術館(MoMA)やシカゴ美術館、香港のM+など主要な美術館が作品を収蔵している。

8月7日から東京・国立新美術館で開催されている大回顧展「田名網敬一 記憶の冒険」(11月11日まで)では、田名網が1960年代にイラストレーター、グラフィックデザイナーとして活動を始めた最初期から現在までの60年にわたる作品や資料約500点が展示されている。そこでとりわけ重要な意味を持つのは、田名網が自身のキャリアを通じて取り組み続けた重要なテーマ「反戦」を訴える作品の数々だ。

「田名網敬一 記憶の冒険」国立新美術館 2024年 展示風景 撮影:山本倫子 ©Keiichi Tanaami / Courtesy of NANZUKA

第2次世界大戦中、田名網は目黒にあった母方の祖父母の家で度々空襲を経験した。その時に目に焼き付いたアメリカの爆撃機やサーチライト、火の海と化した街や逃げ惑う人々、そして祖父が当時趣味で飼っていた琉金、ランチュウなどの珍しい金魚が爆撃の光を反射させながら水槽を泳ぐ姿は、田名網の作品に繰り返し登場する。これらのモチーフを過剰で毒々しく、しかしあくまでポップに表現した作品を通じて、田名網は戦争の悲惨さを訴え続けた。過去の雑誌のインタビューにおいても、「戦争のような地獄は何としても避けなければならない。あんな悲劇には、もう誰も巻き込まれてほしくないと願っている」と語っている。

あわせて読みたい