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訃報:細江英公が91歳で死去。三島由紀夫の写真集『薔薇刑』などで日本の写真界に新風吹きこむ

独自の美意識で戦後の写真分野に新たな道を切り拓いた写真家、細江英公が9月16日、左副腎腫瘍のため死去した。91歳だった。

1989年、東京のスタジオの細江英公。Photo: Sally Larsen.Wikimedia Commons

戦後写真界の中心的存在で国際的に活躍した写真家、文化功労者の細江英公が9月16日、左副腎腫瘍のために東京都杉並区の病院で死去した。91歳だった。

細江は生涯、舞踏家、裸の肉体、神秘的な風景など、さまざまなものを被写体としてきたが、その名を世界に轟かせたのは、小説家の三島由紀夫を被写体とした『薔薇(ばら)刑』(1963)だろう。同作では、鍛え上げられた肉体を晒す三島が力強く槌を握りしめたり、縄で縛り上げられたりと多彩な表情を見せ、耽美な世界が繰り広げられている。中でも特に有名なのは、バラを口に咥えた三島の顔をアップで撮った1枚だ。

細江は1933年に山形県米沢市で生まれ、東京で育った。第2次世界大戦時には米沢市に疎開したが、神主だった父親は東京に残って仕事を続けた。子どもの頃から父親のカメラを借りて写真撮影していた細江は、18歳で富士フイルム主催のコンテストで学生の部最高賞を受賞する。その翌年に東京写真短期大学(現 東京工芸大学)に入学。卒業後はフリーのカメラマンとなり、細江敏廣という本名を改め細江英公という名前を使い始めた。

1959年には、東松照明、奈良原一高ら5人で写真家集団「Vivo」を結成。ドキュメンタリー写真が客観的に現実を描写しようとしたのに対し、Vivoは、より個人的な視点を追求した。同グループは結成から間もなく解散したが、日本において写真という媒体を新たな方向に押し進めるのに貢献した。この時代の細江の作品は、主に極限状態にある人体を様式化して表現したものだった。例えば《Man and Woman #2》(1960)は、男性のたくましい腕が女性の頭を抱えているが、彼女の目の周りには濃いメイクが施されているため、目が浮き出して見える。細江は2023年、perture誌のインタビューで「私は常に人間関係が好きだった」と語っている。

その後の作品は、ますます幻想的なものになっていく。1965年から68年にかけての「鎌鼬(かまいたち)」シリーズは、日本独自の伝統と前衛舞踊を混合した「暗黒舞踏」の創始者として知られている舞踊家の土方巽を被写体に選んだ。民話に登場するイタチのような精霊にちなんで名付けられたこのシリーズでは、土方が肉体を躍動させながら野原を飛び跳ね、赤ん坊をさらうふりをする様子が描かれている。細江はその後数十年にわたって土方を撮り続けた。

細江の作品は今なお多くの写真家に影響を与え続けている。彼の初期の助手を務めたことで知られる写真家の森山大道は、Aperture誌のインタビューで、「細江以前の日本の写真にはドキュメンタリーとしての意識が強くあり、演出はされていませんでした。細江はこれに立ち向かい、被写体とコラボレーションして演劇的に演出された写真を制作しました。これは大きな功績です」と語った。(翻訳:編集部)

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