アメリカのアート界が「耐え難くなった」──物議を醸す著名キュレーターがドイツに移った理由を語る
ニューヨークやロサンゼルスの現代美術館で館長を務めたのちにアメリカを去った、ベルリンの新ナショナルギャラリーの現館長、クラウス・ビーゼンバッハ。彼がドイツの大手誌デア・シュピーゲルに語った「アメリカを離れた理由」とは。

先日ドイツのデア・シュピーゲル誌(編注:1947年にドイツで創刊された、強い批判精神で知られる中道左派の週刊誌)に、著名キュレーター、クラウス・ビーゼンバッハの長文インタビューが掲載された。そこでは、2021年にアメリカのアートシーンを離れてドイツに移り、ベルリンの新ナショナルギャラリー館長に就任した経緯が語られている。
記事によると、ビーゼンバッハがアメリカを離れる決断に至ったのは、同国の「ポリティカルコレクトネス」が理由のようだ。彼は2021年に退任するまでロサンゼルス現代美術館(MOCA)の館長を務めており、それ以前はニューヨークのMoMA PS1の館長だった。
ジョージ・フロイド事件後の変化
「この数年間というもの、アメリカの美術館業界は『DE&I』(*1)と呼ばれる考えを中心に回ってきました」とビーゼンバッハは言う(*2)。
*1 Diversity(多様性)、Equity(公平性)、Inclusion(包括性)。
*2 以下、US版ARTnews記事中で引用された発言は、ドイツ語の原文からGoogle翻訳されたもの。
おそらくPS1とMOCAでの仕事に言及しているのだろう。ビーゼンバッハはこう説明している。
「私は、早くから男性アーティストより女性アーティストの作品を多く展示したキュレーターの1人で、黒人アーティストの展示を行うようになった最初期の1人でもあります。私が彼らを取り上げたのは、長年見落とされてきた偉大なアーティストだからです。しかし、次第に状況は耐え難いものになりました。何もかもが一種のノルマになり、特定の言葉しか使うことが許されなくなったのです」
彼はコロナ禍と第1次トランプ政権時代の経験について、「文化戦争の試練」だったと表現している。そして、2020年にミネアポリスで黒人のジョージ・フロイドが警察官に殺害された事件の後に、美術館スタッフとのZoom会議がどう変化したかを例に挙げた。
「あるZoom会議でのことです。出席者全員が一緒になって彼の死を悼み、泣いている人もいたので、20分間ほどカメラをオフにしていました。ところが、これが週に一度繰り返される儀式になったのです。参加者全員がこれまでに経験した差別や、自分にとっての社会正義の重要性などについて話すよう求められました。私はできれば参加したくありませんした。特権的な白人男性であり、特にディレクターの立場にある私が関与するのは不適切に思えたからです。しかし、私にも発言が求められていることがはっきりと示されました」
そこで彼は、思春期の頃の体験について語ったという。
「私はドイツの小さな町で育ち、子どもの頃からホロコーストについて教えられてきました。19歳のときには「行動・償いの印・平和奉仕(Aktion Sühnezeichen Friedensdienste)」(*3)に参加し、イスラエルのキブツで一夏を過ごしました。その後、もうドイツ人でいたくないと感じたのです。この話をすると、仕事仲間の1人は『話してくれてありがとう』と言ってくれました。しかし彼女はそのすぐ後に、私の話が本来の趣旨からずれていると批判したのです」
*3 第2次世界大戦後にナチズムの負の歴史と向き合うために設立されたドイツの組織。
ナン・ゴールディンとの対立
現在もアメリカとドイツの二重国籍を維持しているビーゼンバッハは、サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)の絵画・彫刻部門のシニアキュレーターだったゲイリー・ギャレルズの辞任についても触れている。ギャレルズは、コレクションから白人男性作家の作品を外す動きについて「逆差別」だと発言したことが問題視され、2020年に職を退いた。
「当時のアメリカの美術館関係者は、私自身も含め、臆病にも誰一人として声を上げませんでした」
デア・シュピーゲル誌のインタビューでは直接言及されていないものの、ビーゼンバッハがMOCAの館長を務めていた短い間に2人の幹部スタッフが辞任し、物議を醸したことがある。シニアキュレーターだったミア・ロックスは、同美術館が「多様性推進の施策を受け入れる準備が十分にできていない」として辞任。人事担当ディレクターも「敵対的」な職場環境を理由に退職している。
これを受けてMOCAは2021年にトップ人事を再編。ビーゼンバッハを館長からアーティスティックディレクターに降格し、ジョアンナ・バートンをエグゼクティブディレクターに任命した。ビーゼンバッハが新ナショナルギャラリーへ移籍することが発表されたのは、この人事の公表からわずか1週間後のことだった。
ベルリンに移ってからも、ビーゼンバッハは賛否両論を巻き起こしている。特に耳目を集めたのが、新ナショナルギャラリーで昨年開かれたナン・ゴールディン展のオープニングレセプションでの出来事だ。ゴールディンはスピーチの中で、イスラエルのガザでの軍事行動を「ジェノサイド」だと非難する声明を読み上げた。そのすぐ後、ビーゼンバッハは彼女の言葉に反論し、「イスラエルが存在する権利を持つことに疑う余地はない」と主張したのだ。
ビーゼンバッハはデア・シュピーゲル誌に対し、ゴールディンが自由に発言するのを妨げようとしたことは一切なかったとしながら、その後の彼女の反応の激しさに「驚いた」と述べている。「ナンにあんなに冷たくされるとは思いませんでした。彼女があんな態度を取るなんて」。その後、ゴールディンとは「ほとんど言葉を交わさなかった」と話す彼は、それを「高度な社交上の配慮」だと表現し、その後メトロポリタン美術館で彼女と再会したときのエピソードを披露している。彼のスピーチに「心打たれ、ハグしてきた」人々が大勢いる中で、ゴールディンは「じっと座ったまま」動こうとしなかったという。
昨今、ドイツでパレスチナ支援を訴えるアーティストの展覧会やプログラムが中止されていることについて、検閲だとの声が上がっている。こうした主張について、ビーゼンバッハは次のように話している。
「アメリカから来る人々は口々に、ドイツでは異常事態が起きていると言うのです。1930年代のように、意見を表明することが身の危険につながる時代が再び来るかもしれないと。そんな意見をよく聞かされました」
ビーゼンバッハはまた、政治的ではない理由でも世間を騒がせたことがある。有名人に近づくために美術館のリソースを利用していると批判を浴びたのだ。その一例が、2015年に彼がキュレーションを担当したMoMAのビョーク展だった。同展が引き起こした「不評の嵐」によって、その後は滅多にインタビューを受けず、有名人に関するプロジェクトを控えるようになったと彼はデア・シュピーゲルに語っている。
「私は長い間、自制してきたのです」
(翻訳:野澤朋代)
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