これは冒涜なのか? 異端と呼ばれた4人のアーティストに見る宗教の影響
1990年代に政治的・宗教的右派から激しく批判されたり、保守的な価値観の持ち主から異端視されたアーティストたちがいる。ロバート・メイプルソープ、アンドレス・セラーノ、ジョエル=ピーター・ウィトキン、キキ・スミスらもそうだ。彼ら4人の共通点は、カトリックを信仰する環境で育ったということ。彼らとカトリック主義の関係を、美術評論家のエレノア・ハートニーが考察した『アート・イン・アメリカ』誌1997年2月号の記事を再掲する。
モダニズムの信条が疑似神学的な言葉で語られることが多かったにもかかわらず、現代アートの作家たちは宗教的な表現を忌避する傾向にある。信仰の表明と、アート界に浸透している個人主義的で進歩的な考え方とは、相反するもののように考えられてきたからだ。双方の相容れなさは、アーティストとキリスト教原理主義者との間の敵意に満ちた「文化戦争」によって、ますますエスカレートしている。
パット・ブキャナン(*1)は「虚無主義的、実存主義的、相対主義的、世俗的なヒューマニズム(*2)文化」を非難し、「神や美などの絶対的価値を信じる人々」と「実存的ヒューマニズムを信じる人々」を対立させた(原注・出典1)。その極端な言い方はともかく、この二項対立に異議を申し立てるアート関係者はほとんどいないだろう。
*1 アメリカの保守派コメンテーター、著述家、政治家、ニュースキャスター。
*2 善や真理の根拠を神ではなく、人間の理性の中に見出す考え。
キリスト教右派が問題視したもの
では、政治的・宗教的右派が「世俗的ヒューマニズム文化」の代表例として挙げるアーティストの多くがカトリック信徒として育てられたという事実を、私たちはどう受け止めるべきなのだろうか。ロバート・メイプルソープ、アンドレス・セラーノ、カレン・フィンリー、デビッド・ヴォイナロヴィッチなど、右派の攻撃対象となった作家たちはみな、カトリックのルーツを持っている。
当然ながら、アメリカにおける道徳の守護者を自認する保守派が反発したのは、こうしたアーティストたちがカトリックだということではなく、彼らが肉体や生理機能、セクシュアリティ、肉欲、宗教的逸脱、死などのテーマに焦点を当てたことだった。宗教的バックグラウンドは、作家をこうしたテーマに向かわせるインスピレーションの源となる場合もあれば、そうした傾向を強める要因になっている場合もある(これについては後述する)。
キリスト教右派に悪者扱いされた作家以外にも、マイク・ケリー、キキ・スミス、ジャニーン・アントニ、ジョエル=ピーター・ウィトキンなど、似た感性を持つアーティストの多くに、何らかの形でカトリックにかかわる生い立ちがあるのだ。
カトリック的なものの見方には、アーティストを肉体や宗教的逸脱に関わるテーマへと向かわせる何かがあるのだろうか? もしそうなら、その事実から昨今の文化戦争についての新たな解釈を引き出せるだろうか? この戦いを、神を信じる人々と無神論者の対立ではなく、プロテスタント信仰の清教徒的な原理主義と、ローマ・カトリックを基盤とする官能的で複雑な文化の間の戦いとして再定義するとしたら?
神聖と俗悪──カトリック思想が与えた影響
カトリシズム(*3)においては、古くから肉体が重視されてきた。プロテスタントが神の領域と人間の領域を明確に分けて捉えるのに対し、カトリックは神と人間の連続性を強調している(原注・出典2)。無原罪懐胎、十字架上のキリストの死と復活、パンがキリストの肉に変わる聖変化、キリストの昇天と聖母マリアの被昇天など、カトリックの主要な教義はすべて、神の霊の器としての人間の肉体が果たす役割を強調している(原注・出典3)。
*3 ローマ・カトリック教会の宗教的・思想的立場。社会一般におけるカトリック的活動。
美術史家のレオ・スタインバーグは、キリストのセクシュアリティに関する有名な研究の中で、カトリックの教義とキリストの肉体の強調の関係性をルネサンス期の聖母子像に見いだしている。聖母マリアが我が子のペニスを指差すなどしている多くの図像は、カトリックの教義にあるキリストの人間性を際立たせるためのものだというのがスタインバーグの論点だ(原注・出展4)。
こうした歴史を踏まえれば、カトリックの教義を伝達するために作られた作品において、人間の身体が露骨なまでに生々しく表現されているのは不思議ではない。また、そのような身体性が多くの現代アーティストにインスピレーションを与えていることも不思議ではないだろう。
この記事では、4人の著名な現代アーティスト──故ロバート・メイプルソープ、アンドレス・セラーノ、ジョエル=ピーター・ウィトキン、キキ・スミス──を取り上げ、カトリックの家庭で育ったことが、彼らの作品にどのような影響を与えているかを検証する。さらに、そこから得られる新たな解釈が、アメリカ社会における宗教の位置付けをめぐる今日の政治的議論に一石を投じるであろうことにも触れる。
今回取り上げた作家たちは、いずれも敬虔な信徒ではないが、カトリック的な思想は多かれ少なかれ意識の底流にあり、それが彼らの作品に反映されている。そして、カトリック的な要素がしばしば神聖と俗悪が入り混じったものとして表れるため、原理主義的な鑑賞者には冒涜として映る。
ロバート・メイプルソープと「花」
ロバート・メイプルソープについて書くときは、常にカトリックの問題が付きまとう。評論家たちは長らく、その作品を解釈する上で彼のカトリック的背景を理解することが重要だと認めてきた(彼の両親は敬虔な信徒で、彼自身も幼少期にカトリック教育を受けている)。だが、なぜそうなのかを正確に言い表すことはできないようだ。
メイプルソープ自身もこれについてあまり語ろうとしなかった。だが彼は、ジャネット・カードン(*4)が1988年に行ったインタビューで、カトリックが自身の作品の形式に及ぼした影響についてこう語っている。「カトリックの背景は、私の作品の中の、ある種の対称性やアプローチに現れていると思う。私は十字架の形やプロポーションが好きで、カトリック的な方法で物を配置するが、それは無意識的なものだ」(原注・出典5)。
*4 メイプルソープが死去する数カ月前の1988年12月に始まった巡回回顧展「The Perfect Moment」を企画したキュレーター。
このインタビューが掲載された展覧会図録に収録されている評論の中で、カードンは、メイプルソープの花の写真が彼のカトリック的バックグラウンドを最もよく表していると指摘し、こう書いている。「メイプルソープの写真作品の花は絶対的な完璧さで表現され、世俗ではなく神聖な領域を示唆しているように見える。花々は、まるで天国のような自然の崇高な大気の中から出現したかのようだ」(原注・出典6)。
カードンがメイプルソープの花の写真に見いだした完璧さの追求は、彼の人物写真にも顕著に表れている。メイプルソープは、巧みな照明やポージングを用いて、モデル(リサ・ライオンやトーマス、ケン)を古典彫刻のように描き出した。神々しいまでの完璧さで彼らの肉体を強調する写真を通して、彼は被写体に不滅性を約束しているかのようだ。肉体はやがて衰え朽ちていくが、その美しさは光沢のある印画紙の中に保存されている。現代版の永遠の命のように。
カトリシズムの奇妙な発露
美術評論家のデイブ・ヒッキーは、メイプルソープのカトリシズムを解釈した著書『The Invisible Dragon: Four Essays on Beauty(見えないドラゴン:美についての4つのエッセイ)』の中で、さらに本質をついた指摘をしている。メイプルソープの「X Portfolio(Xポートフォリオ)」シリーズ(1978)は、性的・精神的な屈服にも似た、美的な屈服を見る者に強いるというのだ(原注・出典7)。
やはり美術評論家のアーサー・ダントーも、1995年に発表したメイプルソープに関する論文の中で、最も物議を醸した彼の作品の1つには、形式面だけでなく主題においてもカトリックの影響があると指摘。ダントーは、男がもう1人の男の口に放尿する姿を写した3枚組の作品《Jim and Tom, Sausalito(ジムとトム、サウサリート)》(1977)を、バロック絵画のモチーフと比較しながら分析している。そのモチーフとは、餓死刑に処された父親を助けようと自分の乳を口に含ませた娘を称える「ローマの慈愛」という説話だ。
メイプルソープの《Jim and Tom, Sausalito》と「ローマの慈愛」は、一見まったく別ものだ。だがダントーは、この説話の娘と父親の間の逸脱的とも言える行為の残像が、過激な性的快楽の追求を描いたメイプルソープの写真に奇妙な形で照射されていると論じている。また、3枚組という形式も、伝統的な祭壇画を思い起こさせるものとして、メイプルソープの作品を宗教美術の歴史と結びつける自説の論拠とし、さらに《Jim and Tom, Sausalito》の中での光の使い方が、バロック的な演劇性を思わせるとも指摘している(原注・出典8)。
精神と肉体のラディカルな崩壊
ヒッキーもダントーもパズルの重要なピースを押さえてはいるが、結局のところ、こうした形式的・図像学的解釈だけではメイプルソープ作品におけるカトリシズムの影響を完全に説明することはできない。ただ、ダントーは図像学を超えた別のヒントも提供してくれている。かつてメイプルソープは、自分にとって神聖なものは何かという質問に対して「セックス」と答えたというが、この答えを真面目に受け止めるべきだとダントーは強調している(原注・出典9)。
確かに、ダントーの言う通りだろう。性はメイプルソープにとってあまりにも神聖なものだった。それが自らの評判、芸術、そして命(*5)までをも飲み込んでしまうことを彼は許したのだ。そしてこの点において、精神の領域と肉体の領域のラディカルな崩壊という、メイプルソープ作品の恍惚的な本質に到達する。この崩壊は、アメリカ的な信仰生活に真っ向から反する種類の恍惚を表しているため、「ラディカル」という表現に値する。
*5 メイプルソープは1989年3月にエイズが原因で死去している。享年42歳。
宗教の恍惚的な側面が軽視されがちな要因はいくつもある。自制心と自己否定に根差したアメリカのピューリタニズムの遺産、善と悪の極限を通常の人間の経験の外に位置づけることで宗教生活を「合理化」するユートピア的な理想、そして日常生活の世俗化などが例として挙げられるだろう。南部バプティスト派からハシド派ユダヤ教まで、いくつかの顕著な例外はあるものの、一般にアメリカの宗教は激しい感情の解放を敬遠する傾向にある。
また、この国の主流派の宗教は、個人の意識が神や自然、宇宙などの大いなる存在と一体になることも求めない。アメリカ、あるいは少なくとも原理主義的なアメリカが、メイプルソープの作品を許容できないのは、肉体的苦痛、服従、屈辱を伴う性行為を称揚しているからだけではない。被写体がそのような行為の末に達しているように見える、擬似宗教的な恍惚状態が許し難いのだ。
服従と降伏の性的儀式がもたらす秩序
この観点からすると、メイプルソープの作品で強調されるサドマゾ的エロティシズムは、聖人たちが神秘体験の中で恍惚としてキリストにひれ伏す様子の変異として読むことができるだろう。この恍惚状態を最もよく描写しているのは、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによる17世紀の彫刻《聖テレジアの法悦》だ。天使の黄金の槍が聖女の心臓をまさに貫こうとする中、彼女はオルガスムに達したような表情を浮かべている。
苦行によって肉体が浄化されるというカトリックの信仰も、メイプルソープのサドマゾ的なイメージに屈折した形で反映されている。初期のカトリック教会ではこの主題が繰り返し強調され、信者をまとめる手段として殉教者の苦悩を描いた陰惨な図像が流布された。
これを念頭に置くと、「X Portfolio」シリーズに収められているフィストファックや全身へのピアシング、SM器具などのイメージと、キリスト教の殉教者を描いた芸術や文学、ニューメキシコ州のペニテントのような現代宗派の自傷的な儀礼(鞭打ちや十字架上の磔を再現したりする)との間に驚くべき類似性が見えてくる。
極端な服従行為と完璧な肉体のイメージを通して日常の凡庸さを逃れながら、メイプルソープは神をセックスに置き換え、服従と降伏の性的儀式によって秩序が維持される宇宙を創造する。神の不在を強調するかのように、その宇宙の支配者の役割は気まぐれな悪魔に委ねられている。そして彼は、頭に角を付けたり、鞭を持ったりしたセルフポートレートの中で自らその役を演じるのだ。
アンドレス・セラーノと「死体」「体液」
アンドレス・セラーノの《Immersion (Piss Christ)(浸礼〈ピス・クライスト〉)》(1987)(*6)は、アメリカの政治家などからキリスト教への冒涜だと解釈された。だがセラーノはメイプルソープと比べ、自らのカトリック的背景についてさほど葛藤している様子はない。
*6 プラスチック製のキリスト磔刑像を自らの尿で満たしたガラス容器に入れて撮影した写真作品。アメリカ政府機関である全米芸術基金(NEA)の協賛で開催されたアートコンペで最優秀賞に選ばれたが、キリスト教への冒涜だと批判が巻き起こり、保守派政治家の圧力によりNEAの予算が削られる事態に発展した。
彼の初期作品は、カトリック教会の政治を声高に非難するものだった(たとえば、枢機卿の衣装を着て険しい表情を浮かべた画家のレオン・ゴラブと、両手を頭の上で縛られ血まみれになった裸の女性を写した1984年の《Heaven and Hell(天国と地獄)》など)。だが1990年代に入ると主にポートレートの形で、よりパーソナルな視点の作品へと移行していく。
論争を呼ぶモチーフから離れたことで、セラーノがカトリシズムの哲学的側面よりは、むしろ視覚的、美学的な側面に強く惹かれていることが明確になった。彼自身も複雑な神学より、カトリック的なイメージに惹かれることを認めている。彼がキリスト教の教義に関する問題にほとんど興味がないことは、「聖書はすばらしい名著らしい。読んだことはないが」(原注・出典10)という最近の発言からも明らかだ。だが、聖書の内容には詳しくないと言いつつも、セラーノの作品は救済と超越というキリスト教的なテーマをはらんでいる。
カトリック的モチーフへの偏愛
ブルックリンのウィリアムズバーグで育ったセラーノは、幼い頃からカトリックの教理を学ぶためのクラスに通っていたが、家庭での信仰は特別熱心なものではなかったという。10年ほど前にカトリック的なモチーフを扱うようになるまで、カトリシズムについて意識的に考えることはなかったと彼は語っている。しかし興味深いことに、《Piss Christ》の騒動をきっかけとしてセラーノはカトリック的なテーマやモチーフにのめり込んでいった。
さらに5年前からは、その情熱を作品だけでなく生活空間にも向けるようになり、ブルックリンのアパートを祭壇のような空間に生まれ変わらせた。かつて保守派政治家のジェシー・ヘルムズから「信仰を持つ人々への配慮が欠けている」と非難されたセラーノは今、教会家具やロシアのイコン、キリスト教の彫像(聖アントニウスの大きな木彫り像など)、ステンドグラス、磔刑像が並ぶ壁に囲まれて暮らしている。
セラーノが一貫してやろうとしているのは、多くの人が考えるように「キリスト教をおとしめること」ではない。作品をシリーズで見ていくと、取るに足らないもの、卑しいもの、俗悪なものを変容させようとしていることが分かる。乳や血液を撮影したミニマルなモノクロームのイメージから《Piss Christ》まで、86年から89年にかけて制作された写真(射精されたばかりの精液の写真も含まれる)は、体液を使い、光で「描く」作品だ。
もともと抽象作品としてこれらの写真を構想していたセラーノは、精神性と抽象性を融合させたバーネット・ニューマン(*7)を参照してもいた。「体液のシリーズが私にとってカトリック的なものになったのは、その中に宗教的なオブジェを沈めるようになってからだ。カトリック信徒である私は、磔刑像は単なるシンボルだと教わってきた。《Piss Christ》を批判する人たちのように、それ自体を崇め物神化すべきだと教わったことは一度もない」と彼は言う。
*7 アメリカの画家・彫刻家(1905-1970)。抽象表現主義や、平坦な色面や線で構成されるカラーフィールド・ペインティングの代表的存在。彼の作品にはユダヤ教的なタイトルを付けたものが多数ある。
宗教的要素が示すもの
こうした作品に続いて、セラーノは2つのポートレートシリーズを発表した。ホームレスの人々をエドワード・カーティス風(*8)の威厳のある表情で撮影した「Nomads(ノマド)」(1990)と、儀式用のローブに身を包んだクー・クラックス・クラン(KKK)のリーダーたちを撮影した「Klansmen(KKK団員)」(1990)だ。セラーノは、ルネサンス絵画の影響を引き合いに出しながら、「人物の顔よりも、光とそれが衣の上に描き出す陰影にこだわった」とし、このシリーズの宗教的要素について「ローブを着たKKKのメンバーが、いかに自分たちを宗教的な人物だと考えているか示したかった」と説明している。
*8 アメリカの写真家。20世紀初頭に約30年にわたって北米先住民を撮影した。威厳に満ちた部族長の肖像や儀礼用装束を身につけた人物の写真など、失われゆく文化を記録した『The North American Indian(北米のインディアン)』(全20巻)で知られる。
「Nomads」と「Klansmen」に続くシリーズ、「The Church(教会)」(1991)では、イタリア、スペイン、フランスのカトリック教会や司祭、修道女を撮影している(シリーズ全体としては、ニューヨークでは未発表)。このシリーズの司祭や修道女は、まるで過去からの使者のようだ。セラーノは、ローブや聖櫃、ロザリオなど聖職を象徴する物で形而上学的な雰囲気を際立たせている。
手もとや宗教的な装飾品、衣服に焦点を当て、人物の顔が見えないものも多い。たとえば、《The Church(Soeur Yvette II, Paris)(教会〈修道女イヴェットII、パリ〉)》では、修道女はカメラに背を向けており、彼女が被ってい黒いベールの平らな面が強調されている。《The Church(Father Frank, Rome)(教会〈フランク神父、ローマ〉)》では、被写体の顔は写っているものの、画面の主役は彼が着ている黒いローブに縫い付けられた赤い十字架だ。
また、忌まわしいものの変容に対するセラーノの関心が最もよく現れているのが、「The Morgue(死体安置所)」(1992)シリーズだ。溺死、殺鼠剤による毒死、銃殺、エイズなどで壮絶な死を遂げた人々の亡骸を極端なクローズアップで捉えたこのシリーズは、眩いばかりの輝きに満ちている。ルネサンス期の宗教画を思わせる写真も多く、どの作品も被写体が生きていた頃には持ち得なかったかもしれない美しさを放っているのだ。
「私は彼らの身体を死骸として見たことはない。私は彼らをモデル、または被写体と呼んでいた。まだ人間としての存在感を持ち、魂の一部がそこに残っている感じがすることに興味を引かれた」とセラーノは語っている。
被写体の選び方に挑発的な要素があることは否めないが、セラーノの作品には独特な力強さがある。それは、体液、遺棄された死体、KKK団員、ホームレスなど、見下され、汚らわしいとされる対象を神聖な領域に引き上げてしまう、彼の美的な変換能力から来るところが大きい。
ジョエル=ピーター・ウィトキンと「肉体の変容」
セラーノは初期の作品に表現されていた怒りを捨て、カトリック的なバックグラウンドと和解したように見える。それに対し、ジョエル=ピーター・ウィトキンは、復活と来世を信じるキリスト教の考え方に激しく挑戦しながら、精神的絶望を表明している。
正統派ユダヤ人の父とカトリック信徒の母の間に生まれたウィトキンは、カトリック信徒として育てられたが、ユダヤ教の神秘主義にも強い関心を持ち続けている。彼は、カトリシズムが自分の作品に与えた影響について極めて饒舌だ。1976年にニューメキシコ大学で書いた修士論文が、95〜96年の回顧展(イタリアのトリノにあるリヴォリ城現代美術館とニューヨークのグッゲンハイム美術館で開催)の図録に再掲されている。「Revolt Against the Mystical(神秘主義への反抗)」と題されたその論文には、目に見えないものを可視化する写真作品を通して「神を地上に降ろしたい」というウィトキンの願望が綴られている(原注・出典11)。
永遠に凍りついたような完璧さを写真に収めようとしたメイプルソープとは違い、ウィトキンは奇形や、避けることのできない肉体の腐敗を熱心に描写するためにカメラを用いる。彼は完璧な肉体ではなく、変形や傷、入れ墨のある身体、極端な肥満や精神疾患のあるモデルを好んだ。
中でも目立つのが、両性具有者、シャム双生児、胎児、死体など、2つの世界が同居しているような身体だ。ウィトキンは作品の中で、生と死の境界を探求する。カトリック信徒にとってそれは、人間の領域と神の領域を隔てる究極の境界線だと言える。
歪められた図像
ウィトキンの仕事には、カトリック的な要素が容易に見つかる。たとえば、74年に発表された初期のシリーズのタイトルは、「Contemporary Images of Christ(現代的なキリストの図像)」だ。そのうちの1枚は、「あざ笑われるキリスト」というキリスト教美術の主題を取り上げ、第2次世界大戦時のパイロット用ゴーグルを付け、ハイヒールを履いたキリストに扮したモデルを写している。
それ以外にもキリスト教の図像に基づく作品はいくつもあるが、どれも奇妙な形で歪められている。ある写真では、十字架にかけられた裸の男性が写っている。仮面をつけ、糸のようなもので皮膚を縫われたこの男の両脇には、アカゲザルの死体を吊るした2つの小さな十字架が並んでいる。《Penitente, New Mexico(ペニテンテ、ニューメキシコ)》(1982)というこの作品のタイトルは、毎年復活祭に合わせてキリストの鞭打ちと磔刑を再現した儀式を行うニューメキシコ州の宗派にちなんでいる。
また、切断された男の首を皿の上に載せた作品が、洗礼者ヨハネの殉教を示唆していることは明白だ。さらに、頭部を布で覆われ拷問器具に囲まれた裸の女性の写真は、《Choice of Outfits for the Agonies of Mary, San Francisco(嘆きの聖母のために用意された衣装、サンフランシスコ)》(1984)と題されている。
カトリシズムへの絶望と神への愛憎
ウィトキンの作品にはキリスト教的なイメージが多用されているが、だからといって彼がカトリック的な主題に大きな関心を寄せているとは断言できない。彼は、ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》の主役を両性具有者として描くなど、西洋美術史上の有名なモチーフを再創造した作品も手がけている。つまり、キリスト教的な図像は、あくまでもそのサブカテゴリーだと考えることもできるのだ。
むしろ、ウィトキンのカトリシズムに漂う絶望感や悲観的な見方を理解するための鍵は、聖なるものを求めつつもそれが叶えられなかった、ある種の挫折感や幻滅にあるように思われる。彼は修士論文の中で、神を見たとされるラビに会いに行った17歳の時のエピソードを書いている。これは、彼が神と直接会おうとし、失敗に終わった一連の試みの最初の体験だった。そこでウィトキンが見たのは、「埃っぽい大きな書斎の隅に座っている、疲れて眠たそうな小さな老人」だったという(原注・出典12)。
ウィトキンの作品に通底するブラックユーモアには、神に対する彼の怒りが表れている。神は人間の前に姿を現そうとしないばかりか、人間に死と奇形の運命を与える。修士論文では、神に対する感情をこう表現している。「(神への)愛憎は、私が制作する全ての作品に表出するだろう」(原注・出典13)。
醜悪で嫌悪感を抱かせるイメージを嬉々として生み出しながら、ウィトキンは神の慈悲という考えをあざ笑い、普遍的な救済の約束に疑問を呈しているのだ。
キキ・スミスと「性」
カトリック的な感性を持つ女性は、しばしば男性とはまったく異なる方法でカトリシズムにアプローチしているように思える。歴史家のキャロライン・ウォーカー・バイナムは、その違いがどこからくるのかを以下のように論じている。
西洋文化において、女性は肉体を、男性は精神や魂を象徴するとされ、その考え方の名残は今日まで続いている。だが、キリストの肉体またはその人間性と女性が結び付けられていた中世のカトリック信仰では、この分類はさほど厳格な絶対性を持たなかったという。バイナムは、女性が神秘的な啓示を受けやすい理由の1つとして、この象徴的な結びつきを挙げている(原注・出典14)。
また、彼女は、中世のカトリック教会が信仰に身を捧げる女性を歓迎したのは、女性とキリストの身体との間にはつながりがあると考えられたからだとしている。後に出現したプロテスタントの宗派が肉体を穢れたものと見なし、肉欲や罪の領域に追いやったことと比較すると、この身体的な象徴性は特に印象的だ。
カトリシズムとフェミニズム
ある種の女性現代アート作家にとって、肉体的なものと神聖なものの間の連続性というカトリシズムの視点は、女性と男性、肉体と精神、自然と文化など、今振り返れば誤った二項対立に立脚した70年代のフェミニズムにとって代わるものとなっているようだ。さらに、カトリックの聖女たちが残した神秘体験の遺産は、ジェンダーの概念は人為的に造られたものであり、女性の身体を描写することは家父長制的権力の強化につながると主張する、最近のフェミニストの姿勢にもとって代わりうる。
こうしたフェミニズム理論は、それを支持するある世代の女性アーティストたちが、身体は知識や意味の源泉ではないと考える要因となった。キキ・スミスは、この両極の間を歩んできた女性アーティストの一例だと言える。その彼女がカトリシズムにインスピレーションを受けていることは不思議ではない。
スミスの父はカトリックの生まれでイエズス会系の学校で教育を受けており、母は英国国教会からカトリックに改宗し、後にヒンドゥー教に傾倒した。そんな家庭で育ったスミスは、カトリック的な図像やテーマに惹かれることを率直に認めている。
宗教的な図像を参考に作品を作ることが多いという彼女は、最近のインタビューでこう語っている。「体のパーツを作るときは、聖遺物を参照することがある。また、私が作品で表現している血液、乳、涙などは、カトリックでは神聖なものとされている。そして、体内にあるものだけでなく、身体そのものの彫刻をつくりはじめてからはもちろん、人形や宗教的な彫像を主なモデルとして使っている」
宗教彫刻の影響がはっきりと見られたのは、1995年の秋にニューヨークのペース・ウィルデンスタイン・ギャラリーで開催された展覧会だ。壁面に展示されていた腕を広げた女性像は、キリストを十字架から降ろす様子を描いた伝統的な主題に基づいている。こうしたカトリック的な題材を取り上げた作品はほかにもある。たとえば、マグダラのマリアやガラスの鳩として表現された聖霊、聖母マリアなどだ。ちなみに、マグダラのマリアの全身を覆う長い髪や足の鎖はドイツ美術の影響。初期キリスト教で砂漠での隠遁生活を送ったとされるマグダラのマリアはこうした姿で描かれていた。
ガラスの鳩と聖母マリアは、1993年にニューヨークのファーブッシュ・ギャラリーで開催された展覧会にも出品された。展示空間を聖母マリアに捧げるチャペルに見立てたスミスは、その中心に皮を剥がれた聖母の等身大のブロンズ像を置いている。彼女はこの像について、神の意志を伝えるための器の役割を担わされたマリアは、自らの肉体を奪われていたのだと語っていた。
魂の器としての身体
スミスは、キリスト教のシンボルに深いつながりを感じつつも、自身の母親のように他の信仰体系にも関心を向け、その図像を積極的に取り込んでいる。ファーブッシュ・ギャラリーでのチャペルを模した展覧会では、ヨーロッパの民間伝承、ギリシャ神話、旧約聖書からの引用も見られた。妖精、ギリシャ神話におけるニンフのダフネ、旧約聖書のロトの妻などを、スミスはさまざまなタイプの「女性神の属性」の具現化と捉え、それぞれ異なる素材を使って彫刻を制作した。小さな翼を持つ《Faeries(妖精たち)》は錫で作られ、《Daphne(ダフネ)》の石膏像からは青いガラスの枝が伸び、《Lot’s Wife(ロトの妻)》は石膏と塩でできている。
この記事で取り上げた他のアーティストの作品と同様、スミスが受けたカトリックの影響は図像学的なものにとどまらない。彼女のカトリック的なルーツが最も強く表れているのは、美術史から借用したモチーフではなく、身体を魂の器として捉える彼女の姿勢だろう。スミスはセラーノと同様に体液をモチーフにした作品も制作しているが、それよりも肉体そのものへの関心が強いようだ。この点を強調するように、彼女は「カトリックは儀式に重点を置いた宗教で、それゆえに肉体的苦痛にロマンを見出す」と分析している。
「私は偶像崇拝者」
赤い染料に浸した紙で作った人体の断片のようなオブジェ、ラテックス製の切断された手、ブロンズや陶器の内臓(子宮、心臓、胃)など、80年代後半に彼女が制作した人体の断片には特筆すべき生々しさがある。しかし、リアルであるにもかかわらず、さまざまな素材が醸し出す繊細さによって、医学部や手術室に置いてある物のような印象は与えない。全ての人間に共通する身体的な基盤に対するこだわりを見せながらも、スミスの彫刻は哀愁のある独特な魅力に溢れている。
スミスはまた、彼女がカトリックの「異教的な側面」と呼ぶ、信仰の魔術的な力にも着目している。たとえば、魔除けとして着用されるメダルや肩衣、死者のために灯されるロウソク、ご利益を期待して聖人像の上に置かれたコイン、悪い脚を直すご利益があるとされる巡礼地に捨てられた松葉杖などだ。
彼女はある意味、自分が作る作品もそうした力を内包すると考えている。断片としてであれ、全体としてであれ、人間の身体が超越的な神の霊の器であるように、芸術作品もまた創造の奇跡を宿しているのだ。「私は偶像崇拝者だ」とスミスは言う。「モノには力が宿る。それを作った人が込めたエネルギーが宿ると私は信じている。だからこそ、私はアーティストなのだ」(原注・出典15)。
カトリックの重層性が生む、挑発的な表現
ここで取り上げた4人の作品に見られるカトリック的な要素やテーマについて、私たちはなぜ関心を払う必要があるのだろうか。それが重要だと考えるべき理由はいくつかあるが、第一には、《Piss Christ》や「X Portfolio」のような作品が、なぜあれほど“炎上”したのかを理解する手がかりになる。
カトリックで見られる肉体と魂、地と天、人間と神の連続性は、聖なるものと俗なるものの必然的な結びつきを示唆する。地上の快楽は人間を破滅させるかもしれない。だが、同時にそれは天上の恍惚を垣間見せてもくれる。人間の性的表現の極限、腐敗していく肉体と死の恐怖、排泄物や体液など生理機能のあからさまな描写といったテーマは、カトリック信徒の専売特許では決してないものの、カトリック的な想像力と特に相性がいい。
こうした側面を認めることは、カトリック教会の社会的・政治的保守主義や、中絶や同性愛、婚前・婚外性交渉を禁ずる頑なな姿勢を無視することにはならない。むしろここで示したいのは、カトリックの世界観が持つ重層性だ。その世界観で育った者は、教会の正統な教義を捨てた後も、それを持ち続ける傾向がある。
これに対して、プロテスタントの原理主義者たちの直訳主義は、象徴や表象とそれが指し示すものを区別しない。この直訳主義こそが、《Piss Christ》を巡る論争を引き起こした一因だった。ある種の原理主義者たちが星条旗をアメリカ合衆国そのものだと思い込み、ポルノ的な画像と身体的侵害行為を混同しているように、保守派政治家やキリスト教右派は、プラスチック製の磔刑像と救世主キリストを区別できないか、区別することを拒んでいるかのようだ。
セラーノの作品は、その最も挑発的なものでさえも、カトリック教会から非難されることがなかったのは意味深だ。カトリック教会の高位聖職者との対談でセラーノは、教会が禁止する不必要な「種の流出」(生殖を目的としない射精)を示唆する抽象的な精液の写真よりも、《Piss Christ》のほうが問題は大きくないと言われたという。
原理主義的道徳観への反論
メイプルソープ、セラーノ、ウィトキン、スミスのような現代アート作家が持つカトリックのルーツや、彼らが作った賛否を呼ぶ作品について考察を深めていくと、必然的により大きな政治的問題について考えさせられる。宗教が今も重要な国家的課題として位置づけられる中、キリスト教原理主義者の多くは、自分たちの道徳観を国の法律に刻み込もうとしているからだ。
彼らの道徳観は、信仰、政治的言説、社会的アイデンティティ、経済活動、文化的表現、個人同士の関係性など、さまざまな次元の要求が絡まり合う複雑で矛盾を孕む問題を、「家族の価値(family values)」(*9)という言葉に集約した単純な図式へと還元する。彼らはグレイゾーンを排して白か黒で善悪を判断し、スポンサー企業の後ろ盾を持つメディアでの暴力表現は許容するが、合意の上での性行為の芸術的表現は徹底的に叩く。そして、イメージと行為、想像的な遊びや芸術的解釈と現実を取り違えるのだ。
*9 社会の基礎としての家族の役割を重視する考え方で、米国の選挙キャンペーンなどで頻繁に使われる。大黒柱の父と専業主婦の母など、伝統的な家族像が理想とされることが多く、しばしば女性や同性愛者などの権利抑圧のために持ち出される。
こうした状況において、前衛芸術と宗教的右派の戦いは、文化の領域をはるかに超えた意味を持つ。保守派が潜在的に目指しているのは、特定の宗派の道徳観を国の法律として定めることだ。宗教的右派は社会道徳の判定者として自らを打ち出すことに成功しており、これは、各方面に憂慮すべき影響を及ぼしている。たとえば、ポルノ規制、中絶や死刑に関する法律、学校カリキュラムへの祈りの時間の導入、さらには資源の公平な配分や社会正義と個人の責任の意味といった、より一般的な問題についての議論にも及んでいる。
物議を醸している芸術作品の宗教的なルーツを認識することは、原理主義的な道徳観が持つ還元主義的傾向に反論するために役立つかもしれない。同様に、これらの作品を作った著名なアーティストに宗教が与えた影響を理解することで、宗教と現代アートは敵対関係にあるという神話を突き崩せるのではないだろうか。
保守的な政治家やコメンテーターたちが純粋無垢の価値を説きながら現代文化に戦争を仕掛ける一方で、カトリック的伝統の中で育ったアーティストたちは私たちに多くのことを教えてくれる。欲望の暗い側面、肉体と精神の不可分性、道徳的判断に欠かせない複雑さといったことを。(翻訳:野澤朋代)
1. Patrick Buchanan “Losing the War for America’s Culture?” Richard Bolton編 Culture Wars(New York, New Press, 1992)32頁に再掲
Harold Bloom The American Religion(New York, Touchstone, 1992)264頁
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