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「問題はどの作品とともに死ぬか」──アート界の鬼才ジョージ・コンドが語る「奇妙な人間」を描く理由

コロナ禍で最も価格が上昇した作家の1人、ジョージ・コンドは、ジャン=ミシェル・バスキアキース・へリングと同世代の作家であり、映画『アートのお値段』にも登場している。コンドのロサンゼルスでの個展を前に、彼が作品に込めた思い、これから取り組みたいこと、そして、なぜ実在しない人物の肖像画を描くのかについて聞いた。

ジョージ・コンドは1957年生まれのアメリカ人アーティスト。Photo: Michael Avedon/©George Condo/Courtesy the artist and Hauser & Wirth

オールドマスター(18世紀以前の巨匠画家)の肖像画やシュルレアリスム絵画のスタイルを取り入れながら、まるで幻覚を見ているかのようなデフォルメを加えるジョージ・コンドは、その独創的な作風で確固とした地位を築いている。

1957年にアメリカ・ニューハンプシャー州に生まれたコンドは、ウィレム・デ・クーニングフィリップ・ガストンといった戦後の著名画家たちと、ダナ・シュッツやニコール・アイゼンマンなど今まさに最先端を走る作家との間をつなぐ「ミッシングリンク」と言われている。さまざまなスタイルを巧みに混ぜ合わせるコンドの力量は他に類を見ないもので、その作品にはネオ・キュビスム、マンガのような祝祭性、人間の意識の層の微妙な積み重なりが、見事なバランスで共存している。

彼はまた、グローバルな人気を誇る作家でもある。世界中のコレクターが、ギャラリーやアートフェアなどのプライマリーマーケットでも、戦後・現代アートのオークションでも、競い合うようにして彼の作品を手に入れようとする。

メガギャラリーのハウザー&ワースは、2月中旬に開催されたアートフェア、フリーズ・ロサンゼルスに合わせてこの地で2軒目の支店をウエストハリウッドにオープンした。そのこけら落としとなったのが、コンドが2022年に制作した新作を紹介する個展だ。US版ARTnewsは、この展覧会のプライベートビューの1時間前にコンドに会場を案内してもらい、インタビューを行った。

──今回の個展のタイトルを「People Are Strange」(奇妙な人々)としたのはなぜですか? そもそも、あなたの描く人物はみんな奇妙で幻想的なのですが。

この展覧会は、もともと去年の9月に開かれる予定だったので、準備に時間をかけることができた。作品に取り組んでいる間、ハンプトンズ(*1)にあるスタジオに出かけることもあったが、そこでずいぶん久しぶりにドアーズの「People Are Strange」を聴いて、なんていい曲なんだろうと思い、それ以来頭にこびりついてしまった。


*1 ニューヨーク州のマンハッタンから車で2-3時間の別荘地。

今の時代、ニュースを見れば見るほど、リンゼー・グラハム(*2)やテッド・クルーズ(*3)、ジョージ・サントス(*4)のような人物を見れば見るほど、この国の人々はものすごく奇妙だと思わされる。もしかしたら、今は彼らですら、自分のことが奇妙に思えるんじゃないだろうか。何が現実で何が非現実か分からなくなっているから。人間らしさが、突然剥奪されてしまうようにも感じた。そんなことが展覧会のタイトルにつながっている。


*2 サウスカロライナ選出の上院議員。共和党の重鎮。2020年の大統領選の結果は「不正があった」からだと発言するなどして物議を醸した。
*3 テキサス州選出の上院議員。共和党の保守強硬派。
*4 ニューヨーク州選出の共和党の下院議員。2022年の中間選挙で当選後に経歴詐称が発覚。詐欺への関与も疑われている。

人々は自分自身からも、自分の信念からも、すっかり切り離されてしまっている

《Insanity》(2022) Photo: Genevieve Hanson/©George Condo/Courtesy the artist and Hauser & Wirth

──経歴詐称や詐欺への関与を暴かれた共和党のジョージ・サントス下院議員は、いくつもの実体のない人格を寄せ集めたような人物です。もしかしたら、自分でも自分のことが異様に思えるほどかもしれません。これに似た表現で、評論家はあなたが描く人物を説明しています。バラバラに分解された人間の多様な心理状態がそこにある、と言われることについてどう思いますか? 

そういう見方をされても構わない。バーネット・ニューマンやウィレム・デ・クーニングが活躍していた50年代後半に生まれた私は、抽象をリアリズムへと再構築する立場で絵画を見ている。私の中では、世界はあまりにも抽象的になってしまった。今ある狂気や奇妙さを反映したリアルなものを構築しようとすると、それを再構築するためにある種の脱構築が必要になる。まるで模型のキットみたいに、箱を開けるといろんな部品が入っていて、それを接着剤で組み立ててロケットか何かを作り、上から色を塗るような感じだ。人々は自分自身からも、自分の信念からも、すっかり切り離されてしまっている。そうした現状や、社会の分断が作品の背景にある。

──あなたの絵にはグロテスクで滑稽なところがありますが、一方でその中に描かれている想像上の人物に対して、あなたは大きな共感を持っているようにも感じられます。絵の中の人物に、どのような感情を抱いているのでしょうか?

私が架空の人物を描く理由は、その人物の中にある尊厳を表現できるからだ。ゴミ収集作業員であれ、スクールバスの運転手であれ、セントラルパークでゴミ拾いをしている人であれ、肖像画のフォーマットで描くことで、ある種の威厳を持たせることができる。それに、想像上の人物なので、年代や直線的な時系列を解体することが許される。つまり、オランダ絵画黄金時代のフランス・ハルスと抽象表現主義のフランツ・クラインのスタイルを同じ絵の中に同居させることができるし、全てが交換可能な言語となる。確かに、自分の描く人物には共感できる部分がある。そして、それを描くことが私の使命だと思っている。

「自分の絵に私のことを覚えていてほしい」

──先ほど展覧会を案内していただいて、あなたがこの1年間に制作した作品を拝見しましたが、幅6メートルを超える二連画の《Transformation》をはじめ、巨大な絵がたくさんありました。ところが、マンハッタンのグラマシーパークとイーストハンプトンのスタジオは両方ともかなり狭いので、それを知ったらみんな驚くだろうと話されていました。これほどのキャリアを築いているのに、なぜもっと大きなスペースに移らないのですか?

小さなスタジオが好きなのは、ここに1つ、あっちに1つ、後ろに1つ、というように、絵に囲まれている感じがするからだ。こっちが乾くまで別の絵でちょっと作業をして、目の端には向こうにある絵のディテールが見える。作品同士が300メートルも離れているとか、バスケットボールコートのようなスタジオで、ギャラリーに納品するばかりのような状態で作品が並んでいたら、絵のために絵を描いている気持ちにはなれないと思う。ザ・ブロード(ロサンゼルスの現代美術館)で展示中の、幅3メートルほどある赤い背景の絵《Double Heads on Red》(2014)は、車1台用のガレージで描いたものだ。60センチくらいの距離で作品が目の前にあると、触覚的な感じもあって、作品との間に友情が芽生える気分になる。

──作品がアトリエを巣立った後も、それに近しさを感じるのでしょうか? 他人の家に引き取られてその人たちの暮らしの一部になったり、遠く離れた美術館に置かれるようになったりしたときはどう感じますか?

私が感じているのは、アートは唯一の友人だということだ。そういう思いがあるから、作品たちにはずっと私の味方であってほしいと願っている。だから、どんな絵を描いているときも、その絵が永遠に生き続けられるように心がけている。絵の内面世界がずっと保たれていれば、鑑賞者がそれを見た時に、生き生きとした生命力を感じることができるだろう。そうすることで、絵が私に忠実であり続けてくれるよう願っている。不思議なことに、これは今初めて思いついたんだが、私にとって一番大事なことなのかもしれない。絵画は私にとって子どもと同じで、世の中に送り出した後も、私に忠実でいてほしい。私が育てた価値観から大きく外れずに生きていってほしい。私は、自分の絵に私のことを覚えていてほしいんだ。

本当にアートそのものにしか関心がなかったあの頃は、どんな感じだっただろう

《Snowstorm》(2022) Photo: Sarah Muehlbauer/©George Condo/Courtesy the artist and Hauser & Wirth

──「People Are Strange」の会場に足を踏み入れると、こう考えずにはいられません。「このアーティストは、この先どこへ向かうのだろう? これまで多くを達成してきたジョージ・コンドの次なるステップは? まだやっていないことは何だろう?」と。今後については、どう考えていますか?

私は子どもの頃、4歳くらいからずっと絵を描いてきた。母は心配性で、「腕を痛めるから、手を痛めるから」と言って、私にスポーツをさせてくれなかったけれど、YMCAの絵の教室に通わせてくれた。最近のことだが、マンハッタンのアッパーイーストサイドで育った私の子どもたちに、昔住んでいた家を見せてこう言った。「あの小さな裏窓がある小さな家、あそこで僕が10代の頃に描いた絵が、これからミッドタウンのモルガン・ライブラリーで展示されるよ」と。その展覧会が始まるのは2月24日だ。

質問に戻ろう。つい最近、その展覧会に出す昔の作品を見ていた。実家に住んでいた頃、いろんな夢や憧れを抱いていた頃に描いた2枚のドローイングだ。それを見て、まだアートの世界を知る前の、10歳や12歳の自分よりも果たして良い作品を作れるようになっているだろうかと自問自答した。ドローイングを見て、「これを描いた時、どんな感じだっただろう。アート界というものがあると知る前、本当にアートそのものにしか関心がなかったあの頃は?」と考えさせられた。今やアート界とは40年来の付き合いだ。

その頃の感覚に一番近づいたのは、コロナ禍で大規模なロックダウンがあったときだ。私はマンハッタンから離れてハンプトンズに行った。そこでは一人きりで、子どもたちでさえ、私が感染するのを恐れて来るのを控えていた。その時は、まるで子ども時代に戻った気分だった。実家にいた頃みたいに、誰も私の仕事を見ることができない。アート界の関係者は誰も訪ねて来ることができなかったし、なんだかプライベートで秘密めいた感じがした。どこにも行けないから、ひたすら絵を描くことができた。

この世を去る前に見る最後の作品に何を選ぶか

《Abstract Portrait Composition》(2022) Photo: Thomas Barratt/©George Condo/Courtesy the artist and Hauser & Wirth

──あなたの絵は、まるで美術史上の「狂気の天才」を体現しているかのようです。普段は一心不乱に絵を描いているのでしょうか?

こんな風に説明しよう。私は好きなときに絵を描く。夜中の2時に目が覚めて、あの絵のあそこが気になると思ったら、絵を描くための小さな部屋に行き、そこを直して、また寝る。朝起きてスタジオに行くと、みんなが本やなんかのプロジェクトに取り組んでいる。それを横目に「さて、この絵に取りかからないと」と言う。そんな感じだ。

──描く対象について、何らかの物語や構造を考えることはありますか? それとも、対象は描かれた瞬間にだけ存在するのでしょうか?

私はいつも、自分の絵を文学作品のように捉えている。本の中の登場人物のように、それぞれの人生があるのだと。このキャラクターが絵に写し取られる前に何があった? この後は何が起こる? 彼はどこに行く? と考えたり、シェイクスピアバルザックの物語の登場人物について考えてみたりする。その中には、美しい人もいれば悪魔的な人もいるし、不誠実な人、そして時には信頼できる人物もがいる。人間のもろさは、今の世の中や、私たちが日々向き合わなければならないプレッシャーと関係していると思う。どんな角度からプレッシャーを受けるかによって、その人らしさが決まるんだ。

《The Runaway》(2022) Photo: ©George Condo/Courtesy the artist and Hauser & Wirth

──ずっと聞きたかったことがあります。あなたはとても意図的かつ独特な方法で、美しさと醜さの境目のギリギリのところを攻めています。その2つはどのような関係にあるのでしょうか?

カントの美学論に「美とは、関心とは無関係に喜ばせるものだ」というのがある。なんとも興味深い言葉だ。では、醜さとは何だろう? 醜さは時に、人類を向上させる役割を果たすことがある。美しさの仮面の下には、しばしば非常に醜いものがあり、醜さの仮面の下には、しばしば非常に美しく、謙虚で、魂のこもったものがある。もし私が「これまでの人生で最も美しい絵を描くぞ」と言って絵を描いたとしたら、それはきっとひどいものになるだろう。

2019年にフリック・コレクションで講演をしたとき、「良い絵と悪い絵をどう区別しているのか」と聞かれたが、私にとってそれは不毛な質問だ。「無人島に1枚だけ絵を持っていけるとしたら、どれにする?」というのと似ている。「何とともに生きるか」ではなく、アートに関して言えば「どの作品とともに死ぬか」が問題だ。つまり、この世を去る前に見る最後の作品に何を選ぶか、ということだ。(翻訳:野澤朋代)

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