「ムカムカする」寄稿:上野千鶴子(社会学者) ~クロスレビュー「フェミニズムズ/FEMINISMS展」成田悠輔氏・鹿島茂氏評を受けて

フランス文学者の鹿島茂氏をホストとして、計3人の評者が展覧会を読み解く企画「鹿島茂のちょっとフシギなクロスレビュー」。初回の批評対象は金沢21世紀美術館で3月13日まで開催中の「フェミニズムズ/FEMINISMS」展です。社会学者でフェミニズム研究の第一人者である上野千鶴子氏と、経済学が専門で、事業家でもあるイェール大学助教授の成田悠輔氏に続いて、鹿島氏が批評を寄せました。二人の批評について、上野氏から再度の論評が寄せられました。番外編として、ご紹介します。

撮影:木奥 惠三

先日、こちらに、金沢21世紀美術館で実施中の「フェミニズムズ/FEMINISMS」展についてアートレビューを書いた。

上野千鶴子評「ムズムズする」フェミニズムズ/FEMINISMS展

同時にふたりのアートレビューを掲載して、それをさらに鹿島茂さんが複眼的に講評するという試みだ。もうひとりは、成田悠輔という若い男性。多方面に活躍する俊秀らしいが、鹿島さんも成田さんもそして上野も、アート界の専門家ではない。アート界の「池」に外から石を投げるように、多様な見方を読者に提示してアートレビューを活性化させようという試みなのだろう。

その成田さんの書いたアートレビューを読んだ。ムカムカした。

成田悠輔評「タコになりたい」 フェミニズムズ/FEMINISMS展

わたしの評も決して好意的とはいえない。展示には不満がいっぱいある。

だが成田さんの評に感じたのは、批評のスタイルのマッチョ的なクリシェ(編注:決まり文句)だ。 

誰が「こわい」を判定するのか

 冒頭は、この一行から始まる。

「フェミニズムってなんかこわい」

クリシェと見せてただちに「いや、その言い方はフェアじゃない」と受けた後は、「既得権のヘドロにまみれたマジョリティに背後から殴りかかり、必要なら容赦なく刺し、血祭りに上げなければならない」のがマイノリティの運動の使命であり、「血の流れないマイノリティ問題・運動は、問題というほどの問題ではないとすら言える」と煽(あお)る。

さらに、「そこで流れた血の海に無実の青い血が混じっていないと信じられる者がいるとすれば、よほど頭の中がお花畑な人だけだろう」と留保をつける。自分が痴漢冤罪(えんざい)の被害者にも目配りのある公平な立場であることを示唆するためだろう。

そう言っておいたあとに、この展覧会は「こわくない」とくる。

「こわい」「こわくない」と判定するのは誰か? 判定する資格を持っているのは、成田さん自身を含む「マジョリティ」ではないのか。「こわい」「こわくない」と判定する立場にいることをこんなにも無邪気に表明するのは、自分がその批判の対象になっているという前提があるからではないのか。「刺されそうでその場から逃げ出したくなる感じがない」としたら、自分が刺される側にいることを自覚しているということだ。

自分を刺さない、だから「こわくない」としたら、そのこと自体で成田さんは自分がマジョリティ側に立っていることを告白している。

この展覧会を女が見たら、その判定は「こわい」「こわくない」になる理由がない。共感できるかできないか、納得できるかできないか、だ。女の闘いは複合的で多元的だ。目に見えるような「こわさ」ばかりではない。にっこり笑って「鼻毛を読む」こともあるし、男の期待する役割をグロテスクなまでにやりすぎることで反転するドラァグクィーン戦略もある。女は何千年もさまざまなやり口で闘ってきたのだ。「こわい」だけが能ではない。

その多様性を見せてくれるのがフェミニズムズ展だと期待したわたしにも不満は残った。男女逆転だけではもはや芸にもならないことには同意しよう。

脱ジェンダー化の政治

そして成田さんの批評の焦点は性器の不在と性差の蒸発へと移る。北斎の「蛸(たこ)と海女」の春画のパロディを「男体盛り」に還元して、タコを他己に変換する。

結論はこうだ。

「男も女も捨ててしまい、蛸に、そして他己になろうとする。そんなフェミニズムの更新こそが求められている」

こう来たか。やっぱり、というオチだ。これこそ脱ジェンダー化の政治というべきだろう。

批評のスタイルのクリシェとはこのことだ。まず「やりすぎぐらいでないと社会は変革できない」とマイノリティに理解を示す(だが、フェミニズムがこれまでどれだけ「やりすぎ」だと非難・攻撃されてきたかには触れない)。自分のマジョリティ性を反省してみせ、だがやりすぎの功罪も見ているよと自分の公平さを示すことにもぬかりない。攻撃されるマジョリティに自分は含まれないような身ぶりをしながら、その実、告発の強度を判定するのはそれが向けられた他ならぬ自分であると示すことで自分がマジョリティに属することを認める。「性差の蒸発」は成田さんの関心であって、出展作家の共通の関心ではない。にもかかわらず自分の関心に強引に批評を導いて、最後は「男も女もない」と「性差の蒸発」を唱えることで、フェミニズムズ展の試み自体を脱ジェンダー化する。あまりに見慣れた景色だ。「フェミニズムの更新」という表現で、ジェンダーにとらわれたフェミニズムを、「もう古い」と宣告するかのように。そしてそれを宣告する権利を自分が持っているかのように。

ジェンダーの越境ではなく「見える化」

わたしたちはジェンダーにとらわれた世界に住んでいる。あたかも重力のようにそこからは逃れられない。そこから自由になれると考えるのは、妄想にすぎない。フェミニズムズ展の意図は、かろやかにジェンダーを越境してみせるふりをすることではなく、その現実を視覚化つまり文字通り「見える化」して、これでもかとそれに向き合い、また観(み)る人々を向きあわせることだったはずだ。なぜならアート界は長い間、すぐれたアートにはジェンダーがない、かのようにふるまってきたのだから。だからこそ男性には決して向けられない、「ジェンダーを超えた」という評価が、女性のアーティストに対する褒め言葉になってきたのだ。

成田さんはその批評のスタイルで、みごとに彼自身のジェンダー性を暴露してしまった。

***

二項対立を「回避」しているか?

上記を書いた後に、鹿島茂さんのレビューが出た。読んで同じような感想を持った。

鹿島茂評「男のいない世界」フェミニズムズ/FEMINISMS展

鹿島さんは一元論、二元論、三元論を解釈の枠組みとして参照する。当然だろう、ジェンダーは言語だ。しかも屈強の、おそらく最強の二元論だ。とりわけ鹿島さんが専門のフランス語は、ジェンダーまみれの言語である。この二元論からかんたんに逃れられないことを彼はよく知っているはずだ。

その彼が「未分化の一元論」を感じとるのが、ユゥキユキの《「あなたのために、」》である。「未分化な一元論的世界」とは「『男』という項が元々存在しない環境世界」のことらしい。男に対しては「終わったらさっさと出ていけよ」という「メッセージが放たれる」ことによって、鹿島さんは「居心地の悪さ」を感じ、「本作品はフェミニズムという枠組みを超えて、強く訴えるものがある」と評価する。なぜポジティブな評価を「フェミニズムという枠組みを超えて」と表現しなければならないのか。その言説パフォーマンスによって「フェミニズムの枠組み」を超えない(と彼が見なす)表現をわざわざ二流化してみせてまで。そしてご丁寧にも批判を先取りして「二項対立性を回避していると批判されるアナザー・フェミニズムであることは確かなのだ」と断言する。アナザー・フェミニズム? なるほど複数形のフェミニズムズ展にふさわしい。だがこの作品はほんとに「二項対立性を回避」しているのか?

母系制への退行ではなく家父長制の陰画

ユゥキユキの作品が母子関係を示しているのは明示的である。《「あなたのために、」》の発話の主は母で、あなたと名指されるのは娘だ。母が自らを封じ込めた繭(まゆ)に、娘をも閉じこめようとする。子宮とおぼしい場所で再生産しない同性のカップルが編まれた糸をほぐし続けるのはたしかに「男無用」のメッセージに見える。だが裏返せば、ここにあるのは、強烈な「男の不在」の記号である。「未分化な一元論」、単性生殖の母系制への退行などではない。二元論のもとにあるからこそ、「男の不在」がくっきりと可視化される。これは家父長制の強烈な陰画なのだ。支配する毒母と虐待される娘の葛藤の傍らには、無視・傍観を決めこむ石像男と化した夫であり父がいる、いや、いてもいない。その男の不在こそが暴力なのだ。わたしがクリシェというのは、これがすでに多くの女たちが辿(たど)ってきた道だから新しさを感じないという意味だが、ユゥキさんに限らずフェミニズムが一度はここを辿らなければならなかったとすれば、アートもまた歴史的な民俗資料となろう。 

それにたじろぐのは、鹿島さんの感受性だろう。たじろぐのはたじろがないよりましだ。そしてその感受性は、そのメッセージの宛名に自分も含まれているという彼のジェンダーアイデンティティのありかをも示す。

二元論を「なかったこと」に、したいか、できないか

ジェンダーは非対称な二元論である。そしてその非対称な二項のうち、優位な側に同一化する者たちは、よほどその二元論を「なかったこと」にしたいようだ。反対に不利な側に同一化する者たちは、それをどのようにしても「なかったこと」にはできない。ふたつの「男性」評を読んで再び確認するのはそのことだ。

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展覧会情報

展覧会名:フェミニズムズ / FEMINISMS
会場:金沢21世紀美術館 展示室11・12・14

展覧会名:ぎこちない会話への対応策̶第三波フェミニズムの視点で
会場:金沢21世紀美術館 展示室7~10、交流ゾーン

※両展は、会期、休場日、開場時間、料金は共通。観覧券は共通観覧券。
会期:2021年10月16日(土)~2022年3月13日(日)
休場日:月曜日
開場時間:10:00~18:00(金・土曜日は20:00まで)  ※観覧券販売は閉場の30分前まで
料金:一般 1,200円(1,000円)/ 大学生 800円(600円) 小中高生 400円(300円)/ 65歳以上の方 1,000円 ※( )内は団体料金(20名以上)及びウェブチケット料金

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