• HOME
  • STORY
  • 鹿島茂
  • 鹿島茂評「コレクションという『作品』」メンズ リング イヴ・ガストゥ コレクション
「鹿島茂のちょっとフシギなクロスレビュー」
アートの面白さの一つは解釈が自由にできることです。鑑賞者の知識や背景次第で、読み取るメッセージは変わります。異分野の専門家たちは、どこに注目し、何を読み取るでしょう。博覧強記のフランス文学者、鹿島茂さんをホストに、一つの展覧会を複眼で読み解きます。二人のゲスト評と、それを踏まえた鹿島の文明論的社会時評をお楽しみください。(ホストの評は、ゲストの約2週間後に掲載されます)

鹿島茂評「コレクションという『作品』」メンズ リング イヴ・ガストゥ コレクション

Mar 28, 2022
STORY
鹿島茂

それぞれ異なる専門領域を背景に活躍する研究者や著名人が、各々の立脚点から同じ美術展を鑑賞、批評するクロスレビュー。第2回は、21_21 DESIGN SIGHTギャラリー3で3月13日まで開かれていた「メンズ リング エキシビション イヴ・ガストゥ コレクション」を取り上げる。フランス・パリで骨董(こっとう)商だったコレクターのガストゥ氏が収集した、男性用の指輪約400点の展覧会だ。17世紀のベネチア共和国元首の印章から、カトリックの司祭が儀式で用いたもの、1970年代に米国でバイカーたちが好んだものまで。「歴史/ゴシック/キリスト教神秘主義/ヴァニタス(空虚)/幅広いコレクション」の5テーマに沿って、時代も背景も多様な指輪が紹介されている。スタイリストの祐真朋樹氏と、立教大学の加藤磨珠枝教授(キリスト教美術)による批評を踏まえて、コレクターでもあるフランス文学者の鹿島茂氏が読み解く。

「メンズ リング エキシビション イヴ・ガストゥ コレクション」~なぜ人はモノを集めるのか

21_21 DESIGN SIGHTギャラリー3  鹿島茂(フランス文学者)評

パリの著名な骨董商イヴ・ガストゥがプライベートに収集したメンズ・リング展を見ながら、自身もコレクターである私は、コレクションという、ある意味、最も人間的である行為の本質について思いを馳(は)せていた。

つまり、人はなぜモノを集めるのかという問題である。

コレクションの本質、それは人間だけが獲得した言語の本質と深く関係しているので、まずは、言語というものについて考えなければならない。

キリスト教神秘主義の指輪 写真:ベンジャミン・チェリー © L’ECOLE Van Cleef & Arpels キリスト教神秘主義の指輪 写真:ベンジャミン・チェリー © L’ECOLE Van Cleef & Arpels

類似性の認識、差異性の認識

ここに言葉を覚え始めた一歳の子どもがいたとしよう。

その子どもを抱いた親が、ネコを指さして「ニャンニャン」と言ったとする。そのとき、子どもは、人間とは違う四本足の動物全体が「ニャンニャン」という音声で指示できるものと思い込む。だから、イヌを見ても、クマを見ても、ライオンを見ても「ニャンニャン」というだろう。子どもの頭の中では、「ニャンニャン」という言葉により四足獣の類似性が把握されているからだ。言葉はまさにこの類似性の認識によって生まれる。いいかえれば、個々の四足獣の差異を超えたところにある「四本足のイキモノ」という類似性を見抜く能力が子どもにない限り、それは「ニャンニャン」という音声記号とは結びつかないのである。逆にいうと、「ニャンニャン」という音声記号が発せられると同時に四足獣の類似性から生まれる漠としたイメージ(表象)が脳内に招喚されない限り、言葉は言葉として機能しないことになる。

だが、やがて子どもは「ニャンニャン」という音声記号で自分が指示している四足獣の中にはかなりの差異があることに気づく。大人が発している言葉を聞いているうちに、自分が「ニャンニャン」と呼んでいるもののうち、「ワンワン」と呼ぶべきものが存在していることを理解する。つまり、類似性に続いて差異性が認識されたのである。

類似性と差異性を交互に認識

では、なにがいったい「ワンワン」なのだろう。子どもは、大人が「ワンワン」という音声記号で一括するイキモノのうち、ネコやクマやライオンという他の四足獣とは明らかに異なるが、その異なり方において類似している特殊な四足獣がどうやら「ワンワン」と呼ばれているらしいことに気づく。ふたたび類似性が認識されたわけである。そして、その類似性が、「ワンワン」という音声記号と、差異性を超えたところで捉えられた漠としたイメージとの連結において理解されたときに言葉は言葉となるのだ。

さらに、差異性によって「ニャンニャン」から分枝した「ワンワン」が類似性によって認識されると、今度はその類似性から逆照射されて「ニャンニャン」が再検討される。大人が「ニャンニャン」と呼んでいたのは四足獣全般のことではなく、四足獣のうち、ある特徴を備えた個別的なカテゴリーではないかという反省が生まれ、「ニャンニャン」がその特殊なカテゴリーの四足獣の類似性と連結されたイメージと結びつくのである。

ことほどさように、言葉は、類似性→差異性→類似性→……という交互に繰り返される認識の過程を通じて子どもの頭脳に着床してゆくのである。

言語獲得に不可欠な要素は「複数性」

ところで、こうした言葉の獲得過程において、絶対的に不可欠な要素がひとつある。

それは「ニャンニャン」にしろ「ワンワン」にしろ、その言葉で指示される四足獣は、それが現実のイキモノであろうとバーチャルなイキモノであろうと、必ず「複数いなければならない」ということである。

なぜ複数いなければならないかというと、複数いないと類似性も差異性も認識され得ないからである。

この意味において、わたしは子どもが最初に覚える言葉がママやパパだという説には反対である。ママもパパもひとりしかいないからである。言葉は複数性を介してやってくるはずなのだ。

言語とコレクションに共通する本質、複数性

さて、ここまで書けば、言語とコレクションに共通する本質とは、「複数性」であることがご理解いただけたかと思う。

そう、言語もコレクションも、複数あるモノの中に類似性と差異性を見抜き、これを認識するところから始まるのである。

司教の指輪 写真:ベンジャミン・チェリー © L’ECOLE Van Cleef & Arpels 司教の指輪 写真:ベンジャミン・チェリー © L’ECOLE Van Cleef & Arpels

複数性が誘発するコレクションの情熱

というわけで、イヴ・ガストゥのメンズ・リング・コレクションに戻ると、「キリスト教神秘主義」の項で語られる彼の原体験、すなわち故郷のカルカソンヌで繰り広げられたカトリックの宗教行列に立ち会ったとき、イヴ少年が司教の指にはめられた指輪に魅了され、その指輪に接吻(せっぷん)するために何度も行列に並び直したというエピソードだが、思うにここから彼のコレクションが始まったわけではないにちがいない。なぜなら、司教の指輪「だけ」ではコレクションの情熱は誘発されないからだ。

イヴ少年が指輪コレクションに目覚めたのは、まちがいなく、司教の指輪以外の聖職者の指輪を見たときだろう。さらにいうなら、三つ目、四つ目、……n個目の指輪に触れたときにコレクションの欲望が加速したのだ。複数性が、類似性と差異性というコレクションの二つの方向性を彼に示唆したのである。

具体的にいえば、ガストゥの指輪コレクションは、まず、その類似性のベクトルにおいて、司教や大司教、枢機卿、さらには教皇などカトリックの高位聖職者がはめる「聖職者の位を示すと同時に、神とその花嫁である教会との象徴的な結婚のしるしとして、二重の象徴性(教会の権威、神との結合)を帯びている」(加藤磨珠枝氏)指輪を収集しようという方向に向かったと思われる。しかし、こうしたコレクションを続けているうちに、その中のあるもののうちには他の指輪とは異質な要素があることに気づいたにちがいない。差異性の発見である。すると、この差異性に沿った方向で、また別の指輪が現れてくることになる。差異性の中の類似性が顕現してくるのである。

分岐と収斂による「コレクションのニューロン形成」

ところで、こうした差異性と類似性の発見というものは、コレクションという行為の中に内在している本質の一つなのだが、しかしまた、それは外部からやってくるものでもある。すなわち、知識という外部の光がコレクションに当てられると、別種の差異性と類似性が新たに認識されることがあるのだ。

加藤氏が指摘するように「ガストゥが成長過程で身につけたヨーロッパの教養」がその知識という光の実態であり、それが差異性と類似性にさらなる多様性を与えることになる。

このようにしてガストゥのコレクションは、まるでニューロンが形成されていくように分岐を続けるが、分岐ばかりしているわけではない。分岐が一定程度続くと、かならずやそれは収斂(しゅうれん)の方向に向かっていくのである。かくて、コレクションのニューロン形成はひとつの宇宙となっていく。

ゴシックのテーマの指輪 写真:ベンジャミン・チェリー © L’ECOLE Van Cleef & Arpels ゴシックのテーマの指輪 写真:ベンジャミン・チェリー © L’ECOLE Van Cleef & Arpels

コレクターの限界、「資金」

だが、ここで、私はもう一つの糸を導き入れたいと思う。

それはコレクターでなければ感知できない糸である。

コレクターというのは、無限のコレクションを可能にするような巨大な富を有する資産家以外には、コレクションのための資金という限界をもっている。つまり、無限の分岐を続けては行けないのである。いいかえると、資金という有限性があるために、分岐はかならずやどこかの地点で収斂というベクトルに向かわざるを得なくなる。言葉を変えれば、コレクションに体系というものを設けなければならないのだ。

コレクションの掟――類似性と差異性、知識、資金

以上、要約すれば、コレクションを律している掟(おきて)は、

 ①コレクションという行為に内在する類似性と差異性

 ②コレクションとは別のところで獲得された知識(たとえば歴史的知識や地理的知識)

 ③資金の有限性

の三つであり、これが相互的にからんで、おのずと体系性が出来上がっていくのだが、しかし、③に関しては、これを回避するとまではいかなくとも繰り延べする方法が二つほど存在している。

一つは自分のコレクションのうちダブったアイテムをマーケットに再流通させるという方法である。これは最終的には自分のコレクションを商売(ビジネス)に変える結果となるが、しかし、この方法ではコレクションも商売もともに中途半端にならざるをえない。コレクションを優先すれば商売はロクなものにならないし、商売を優先すればコレクションはたいしたものにはならないという矛盾をはらんでいるからだ。

コレクションをビジネスとプライベートに分ける

そこで、第二の方法が模索される。それは自分のコレクションとはまったく異なるジャンルを商売にするということである。すなわち、コレクションと商売の対象をキッパリと分けるという方法である。こうすれば、対象は異なれど、集めるという過程において掟は同じだから、コレクションの快楽は満たすことができる。しかし、ビジネスのコレクションの対象は自分が本当に集めたいと願う対象とは異なるから、アイテムを売却しても痛みは感じない。さらにいえば、そこで得た利益でプライベート・コレクションを続けていくこともできる。

イヴ・ガストゥはあるときからこの道を選んだものと思われる。つまり指輪のコレクションはプライベートなものに限定し、これをビジネスとはしない。そのかわり、家具のコレクションはこれをビジネスにしてプライベート・コレクションとはしない。

だが、ここで不思議な相互干渉/相互影響(インターモデュレーション)が起きる。ビジネスを続けていくうちに獲得された知識やノウハウがプライベート・コレクションにも適用されるようになったのだ。

具体的にいうと、モダニティ(編集部注:現代性)の発見である。

幅広いコレクション 写真:ベンジャミン・チェリー © L’ECOLE Van Cleef & Arpels 幅広いコレクション 写真:ベンジャミン・チェリー © L’ECOLE Van Cleef & Arpels

「アル」を集めて「ナイ」を創出するコレクション・ビジネス

イヴ・ガストゥは指輪コレクションを続けるために家具コレクションをビジネスとして始めたわけだが、ある時点で限界に突き当たったにちがいない。

ヨーロッパにおいてはどこでもオークションという再流通マーケットが完備しているから、どんなに古いジャンルにおいても仕入れのアイテムが枯渇するということはない。つまり、アンティークな家具をビジネスにしていたとしても、ビジネスの永続性は保証されている。だから、扱う商品がなくなるという限界はない。イヴ・ガストゥが突き当たった壁はむしろ、商売が安定し過ぎて面白くないという限界だったのだろう。商売でも面白くなければ快楽原則は働かないから、続けていく気がなくなるのだ。

そんなとき、商売人としてのガストゥは、新しいがゆえにジャンク扱いされている家具に新しい価値を見いだすことを思いついたのである。

それは「アルものを集めてナイものを創り出す」というコレクションの原則にも見事に合致している。しかし、「アルものを集めてナイものを創り出す」には、コレクターが創り出したナイものの価値を真っ先に承認してくれる環境がなければならない。その環境が整備されているのはどこだろう? パリのサン・ジェルマン界隈(かいわい)以外にはない。

こう結論したガストゥは、アンティーク家具商からモダン家具商に転進するに当たって、そのロケーションをボナパルト街に選んだのである。そして、それは見事、図に当たった。ガストゥはセコハン家具屋の倉庫に眠っていたデザイナー家具という「アルもの」を集めて、モダニティという「ナイもの」の価値を創り出したのである。

祐真朋樹氏の評には、サン・ジェルマン界隈で展開された「アルものを集めてナイものを創り出す」という創造的コレクション・ビジネスに立ち会ったときの興奮が報告されている。

ビジネスで発見した現代性の価値、プライベートにも適用

こうした創造的コレクション・ビジネスを介してのことだろう。ガストゥが密かに続けていたプライベート・コレクションである指輪コレクションにも新しい方向性が示されたのは。

すなわち、指輪コレクションという、従来はアンティークものだけに限定されていたコレクション・ジャンルにもまたモダンな価値を導入することは可能かもしれないとガストゥは悟ったのだ。

本展覧会で「Ⅳ Vanitas(ヴァニタス)」「V Eclecticism(幅広いコレクション)」というジャンルにまとめられた指輪コレクションがまさにこれに当たる。ガストゥは自分がビジネスにおいて獲得した方法論をプライベート・コレクションにも適用したのである。いいかえれば、それまでは、 それこそ道端でヒッピーたちが糊口(ここう)のために制作販売していたような指輪にも「アルものを集めてナイものを創り出す」という方法論を適用することが可能であり、 それこそがモダニティの発見であると気づいたのだ。

以上のような意味合いにおいて、 イヴ・ガストゥのメンズ・リング・コレクションはコレクターとして生きた道筋を見事に反映しているのであり、それゆえに、コレクションそのものが彼の「作品」になっているのである。

メンズ リング展の会場 © L’ECOLE Van Cleef & Arpels メンズ リング展の会場 © L’ECOLE Van Cleef & Arpels

※「intermoduration」とは、ジム・ホールとビル・エヴァンズのジャズの名盤のタイトル

鹿島茂(かしま・しげる)

フランス文学者。元明治大学教授。専門は19世紀フランス文学。1949年横浜市生まれ。1973年東京大学仏文科卒業。1978年同大学大学院人文科学研究科博士課程単位習得満期退学。元明治大学国際日本学部教授。1991年『馬車が買いたい!』(白水社)でサントリー学芸賞、2000年『職業別パリ風俗』で読売文学賞評論・伝記賞。膨大な古書コレクションを持つ古書マニア。東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。書評アーカイブサイト「ALL REVIEWS」主宰。『渋沢栄一 上下』(文藝春秋)、『渋沢栄一「青淵論叢」 道徳経済合一説』(講談社)、『渋沢栄一: 天命を楽しんで事を成す』(平凡社)など渋沢栄一に関連する著作も多い。近著に『日本が生んだ偉大なる経営イノベーター 小林一三』(中央公論新社)、『フランス史』(講談社)『失われたパリの復元-バルザックの時代の街を歩く-』(新潮社)など。著書一覧はこちら
顔写真は鈴木愛子氏撮影)

展示会情報

展覧会名:メンズ リング エキシビション イヴ・ガストゥ コレクション
期間:2022年1月14日(金)~3月13日(日) 会期中無休、予約不要
開館時間:10:00~19:00
会場:21_21 DESIGN SIGHTギャラリー3
住所:東京都港区赤坂9-7-6 東京ミッドタウン ミッドタウン・ガーデン内
お問い合わせ:0120-50-2895 (レコール事務局)

Index
1
Jan 17, 2022
上野千鶴子評「ムズムズする」フェミニズムズ/FEMINISMS展
2
Jan 17, 2022
成田悠輔評「タコになりたい」 フェミニズムズ/FEMINISMS展
3
Jan 31, 2022
鹿島茂評「男のいない世界」フェミニズムズ/FEMINISMS展
4
Mar 02, 2022
祐真朋樹評「尽きない情熱」メンズ リング イヴ・ガストゥ コレクション
5
Mar 03, 2022
加藤磨珠枝評「死を想い、美に生きる」メンズリング イヴ・ガストゥ コレクション
6
Mar 28, 2022
鹿島茂評「コレクションという『作品』」メンズ リング イヴ・ガストゥ コレクション
7
May 12, 2022
石黒浩評「『ワタシとは何か』の探求」 森村泰昌:ワタシの迷宮劇場
8
May 13, 2022
谷本奈穂評「アートを現実が超えた」森村泰昌:ワタシの迷宮劇場
STORY一覧へ