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「鹿島茂のちょっとフシギなクロスレビュー」
アートの面白さの一つは解釈が自由にできることです。鑑賞者の知識や背景次第で、読み取るメッセージは変わります。異分野の専門家たちは、どこに注目し、何を読み取るでしょう。博覧強記のフランス文学者、鹿島茂さんをホストに、一つの展覧会を複眼で読み解きます。二人のゲスト評と、それを踏まえた鹿島の文明論的社会時評をお楽しみください。(ホストの評は、ゲストの約2週間後に掲載されます)

谷本奈穂評「アートを現実が超えた」森村泰昌:ワタシの迷宮劇場

May 13, 2022
STORY
鹿島茂
森村泰昌《ワタシの迷宮劇場 M149》1987 © Yasumasa Morimura

それぞれ異なる専門領域を背景に活躍する研究者や著名人が、各々の立脚点から同じ美術展を鑑賞、批評するクロスレビュー。第3回は、京都市京セラ美術館で6月5日まで開催中の「森村泰昌:ワタシの迷宮劇場」を取り上げる。他者に扮して撮影したセルフポートレートで知られる森村の、1984年以来のインスタント写真約800点を軸にした展覧会だ。美容整形や化粧など「装うこと」を通して、現代人の身体文化現象やコミュニケーションについて研究している谷本奈穂・関西大教授が、文化社会学の観点から読み解く。

「森村泰昌:ワタシの迷宮劇場」~「複数の身体を持つ/他者とつながる」現代の「ワタシ」との乖離

京都市京セラ美術館 谷本奈穂・関西大教授(文化社会学)評

1 はじめに
ARTnews JAPANさんから原稿の依頼をいただいた時、とても戸惑った。アートについての知識がほとんどないからだ。自己紹介をしておくと、私は文化社会学の立場から、約20年のあいだ美容整形に関する調査を断続的に行っている者だ。アンケートを計8854名に、経験者や医師に対するインタビューを計45名に、そのほかメディアの内容分析などを行って、身体加工とアイデンティティの関係を探ってきた。どうやら「身体文化研究」「文化社会学」の立場から、森村泰昌さんの展覧会を見てみるとどうなるか?という趣旨の依頼であったようである。結局、他分野の先生と文章の上でコラボできることに惹(ひ)かれて、(素人で申し訳ないが)引き受けてみることにした。先に、構成を述べておくと、2では面白いと思った点、3では逆に違和感のあった点、4で「身体文化研究」の立場からの感想という順番で書いていく。

森村さんといえば、名画の中の人物や画家本人、女優、政治家などに扮したセルフポートレートで有名な方だ。私ですらいくつかの作品は見たことがある。京都市京セラ美術館の説明では、それらの作品を通じて「ジェンダーや人種を含んだ個人のアイデンティティの多重性を視覚化し、個人史と歴史の交錯点を表現して」きたという。


森村泰昌《ワタシの迷宮劇場 M211》2007頃 ©︎Yasumasa Morimura(写真はすべて京都市京セラ美術館提供)

展示は芸術家とスタッフらの「団体演技」

2 エンタメ劇団の座長

会場入り口は5つありどこから入ってもよく、順路も決まっておらずどう回っても良い。セクションは4つに分かれていて、「M式写真回廊」=インスタント写真約800枚の展示、「声の劇場」=森村さんが書いた小説を自ら朗読したサウンドインスタレーション、「夢と記憶の広場」=映像のインスタレーション、「衣装の隠れ家」=映像作品で使用した衣装や靴や本などの展示に分かれていた。一度足を踏み入れると、うねうねとした曲線のカーテンによる壁。どうやら人間の体内をイメージして作り、一人の体の中にたくさんの<ワタシ>がいるという設定らしい。

一点、余談。作品鑑賞に入る以前の、細部に気を配って作られた展示空間のデザインや造形、ライティング、作品の配置などに心打たれた。展示には、森村さんだけではなく、美術館のキュレーターや展示制作スタッフを含めた「チーム」の力が結集されていることを改めて実感し、展示とは芸術家だけのものではなく「総合」的な作品――こういってよければ団体演技――なのだなあと思った次第である。


「京都市京セラ美術館開館1周年記念展 森村泰昌:ワタシの迷宮劇場」 展示風景 撮影:三吉史高

笑わせようとしている? 諧謔を通した批判?

さて、肝心の作品の話に入ろう。「M式写真回廊」には、ベラスケスのラス・メニーナスの登場人物たち、あるいは画家サルバドール・ダリ、女優のオードリー・ヘップバーン、マリリン・モンロー、原節子もいる。『キャバレー』『ひまわり』『エマニエル夫人』など映画からの引用もある。膨大な自撮り写真の洪水は、うねうねした道と相まって、溺れそうな感覚を呼んだ。

写真を見ていると「なんだこれ」という不思議な感覚に陥る。しかしだんだんおかしくなってきてクスッと笑ってしまう。小難しい顔をして鑑賞すべきだったのだろうか。だが、「笑わせようとしているのではないか」という感覚がふつふつと湧いてきたのであった。

左)森村泰昌《ワタシの迷宮劇場 M274》1988 ©︎Yasumasa Morimura、右)森村泰昌《ワタシの迷宮劇場 M165》1988 ©︎Yasumasa Morimura

エドワール・マネの「笛を吹く少年」の少年(上写真左)が、後ろから見ると、ズボンがずり下ろされ股間に手が置かれている(上写真右)。小学生男子が思いつきそうな悪ふざけだ(←ほめてます)。

途中経過なのか、ダビンチのモナリザも、カラヴァッジョのメデューサも、毛沢東も、ヘンテコだ。観光地にある記念写真用の顔ハメ看板みたいだ。特に政治家を模倣した作品は、諧謔(かいぎゃく)性を通してある種の批判力をも持っていた。

「夢と記憶の広場」の《夢と記憶が出会う場所》という映像インスタレーション(下写真)では、森村さんがたくさんの人に扮し、大真面目な顔をしながら、身体のどこかをゆらゆらさせている。大真面目が笑いに通じることを見せてくれている。

京都市京セラ美術館開館1周年記念展「森村泰昌:ワタシの迷宮劇場」展示風景 撮影:三吉史高(同館提供)

作品全体が、観客にエンターテインメントをサービスしてくれる喜劇劇団のようでもあった。子供のいたずらのようでもあり、諧謔を通した批判でもあり、真面目と笑いのあわいを見せてくれるものでもある。森村さんはいわばエンタメ劇団の座長といったところであろうか。

光、音、匂いの演出がすばらしい「声の劇場」

3 典型的な去勢不安

次に違和感があった部分について正直に書いておく。(以下ネタバレを含みます。未見の方は注意してください。)

京都市京セラ美術館開館1周年記念展「森村泰昌:ワタシの迷宮劇場」声の劇場《影の顔の声》2022年 🄫 Yasumasa Morimura撮影:三吉史高

「声の劇場」セクションのサウンドインスタレーション(上写真)は、光や音や匂いの演出はすばらしくて、とても感動した。ただ、朗読された小説の内容には、既視感(音声作品なので既聴感?)があった。語り手の男性が、行方不明になった友人をたどって、失踪と関連していると思(おぼ)しき女性を発見するのだが、彼女の股間には顔がついており、ペニス(体)を食べられるというものだ。

しかし、身体の別の箇所(特に性器の部分)に顔があるとか、女性器が男性器を食いちぎるとかいう物語は、映画・マンガ・文学で、あるいは昔話や伝承でも、さんざん見聞きしてきたものだ。女性器に顔が宿る姫野カオルコの小説『受難』、全身のいたるところに人面が出てくる韓国のホラー映画(チョ・ギョンフン『整形水』)、頭に口のある女が夫を食べようとする「食わず女房」という日本の昔話。女性の膣(ちつ)内に歯が生えていて挿入されてきた男性器を切断する映画も、米映画・邦画ともある(ミッチェル・リヒテンシュタイン『女性鬼』、岡部哲也『歯まん』)。膣内にピラニアが潜んでいて同じく男性器が食われてしまうという映画だってある(ジョン・ギャラガー『ピラニアリターンズ』)。

典型的イメージの固定化、ユーモアでは乗り越えられず

そもそも膣に歯が生えていて男性を去勢する話は、映画オリジナルというよりもヴァギナ・デンタタ伝承として世界のあちこちに存在する物語である。フロイトがこの伝承を「去勢不安」と関連づけて説明しているほど、典型的でよくある話なのだ。

ここで語られた物語には、多重性とはむしろ逆の、伝統的で固定化したジェンダーイメージが現れているように感じた。もともと模倣(パスティーシュ)を構成要素にしているアーティストなので、意図的に「典型的な物語」を下敷きにしたのかもしれない。しかし、こういった固定的な物語に対して、「男性が主体となって作られてきたために、女性が客体として誘惑と恐怖の対象となった」という批判もすでに数多くなされているのは周知のことだろう。

森村さんは、この話のラストに少し別のオチを付け加えていて、ただでは終わらないユーモアの精神を見せてくれている。エンターテインメント精神は健在で、そこは感じ入った。だが、上記のようなジェンダー固定化に対する批判を、乗り越えるところまでは届いていない気がした。


森村泰昌《ワタシの迷宮劇場 M084》2011 ©︎Yasumasa Morimura

誰もが簡単に他者になれる現代

4 コスプレ、加工アプリ、なりきり、美容整形

最後に「文化社会学の視点からは森村さんの作品がこのように見えた」という話をしたい。美術館の説明には「何者かに成り代わることで自己を解体し、一個人における複数の顔を露呈する森村の表現」とある。実は、このような文化現象は、今の社会には広く見いだせる。

例えば、現実の世界で、アニメやマンガやゲームのキャラクターになりきるコスプレ(コスチュームプレイ)がある。1990年代以降広まり、新型コロナ以前の2016年度の時点でコスプレオタクを自認する者は日本に約50万人いるという(矢野経済研究所の推計)。洋服や小物、カツラ、メイクを通して、異性になるのはもちろんのこと、人間以外のものになることもしばしばだ。あるいは、加工アプリを使い「盛った」自撮りも盛んである。加工するだけではなく、動物、怪獣、絵画上の人物に変身したり、映画の人物・動物の顔を自分と入れ替えたりできるアプリも普及している。また、ネット空間でアバターとして違う人間になることもしばしばである。アプリを使えば、あるいはネット空間であれば、誰もが簡単に自己以外になれるのである。


森村泰昌《ワタシの迷宮劇場 M163》2007 ©︎Yasumasa Morimura

種さえ超越して「何者かに変わる自己」

フィクションの世界でも、マンガやアニメ、ライトノベルではもはや「転生モノ」が飽和状態である。主人公はスライムになったり、魔法使いになったり、ゲームのキャラクターになったりしている。ジェンダー役割も固定的ではなく、男性主人公がジェンダーレス男子のもの、ヒロインが動物に入れ替わってしまったもの、ヒロインが好きな男性の親友(男)と入れ替わって(表面上はボーイズラブの)実質ヘテロ恋愛ものなど、バリエーションは様々だ。

これらに共通するのは、「自己の多重性」「何者かに変わる自己」の鮮やかな姿である。性別やジェンダー、あるいは人としての種さえ超えるのだ。

「なりきり」の自己像をコミュニティで共有

それだけではない。何かに変身するだけで終わりではないのだ。新たな特徴として、SNSや各種技術の普及を通じて、①現実とフィクションの境界は融解していること②そこでの自己像は他者と共有されることを挙げることができるだろう。

①についていえば、例えば「なりきり」と呼ばれる、キャラクターとしてツイッターアカウントを持ちつぶやく、あるいはキャラクターとしてメールを書くなどの行為がある。この人々は、ただの愛好者や消費者ではなく、「リアルな他者」として存在し、ある意味で「キャラクターとして生きている」のである。あるいは、2次元のキャラクターを3次元の世界で表現する2.5次元の役者は、舞台上でキャラクターを演じるだけではなく、日常生活でも内面をキャラクターに近づけるようにするという。そしてファンたちもそれを期待するのだそうだ。ここでは、現実とフィクションははっきりと分かれておらず、境界は融解しているといえよう。

②についていえば、コスプレもなりきりも、キャラを作り上げるだけではなく、「作り出した像を他者と共有していく」ことが重要になる。コスプレイヤーたちは、レイヤー同士でファンコミュニティを構築することで知られている。撮影会などで対面する場合でも、写真をSNSなどにアップロード/ダウンロードして交流する場合でも、相互の共感やつながりを醸成していく。このつながりがレイヤーたちの原動力になることもしばしばである。なりきりでも、キャラを演じることだけで終わらず、掲示板やチャットで実際に交流することが分かっている。その交流を通じて、告白したり付き合ったりということまで生じている。他者とつながり、そのコミュニティで自己像を共有されることで、<ワタシ>の証明になるという感覚が芽生えているのである。


森村泰昌《ワタシの迷宮劇場 M073》2007頃 ©︎Yasumasa Morimura

「一人の中のワタシ」から「複数の身体性を持つワタシ」へ

この感覚は、実際の身体に加工を加える美容整形実践者にも見られる。筆者の調査からはいくつかの知見が引き出されているが、そのひとつに整形実践者は「異性ではなく親しい同性の影響を受けている」という特徴がある(統計的に有意な差として確認できている)。実践者同士のつながりが美容整形を後押ししているのである。インタビューでも、家族や同性の友達に、身体加工を勧められ、支えられ、美容整形に踏み切る例がしばしば見られる。「Aちゃんに推されて、推されて、整形をやってよかった!」「よかったねと言ってもらえて。整形後の顔こそが私の顔」といった言葉が寄せられている。つながりのある他者に身体加工を促進され、その他者に認められる過程を通じて自己の感覚を得ることが調査から明らかになっている。

今では「一人の体の中に複数の<ワタシ>がいる」というのは、芸術家が可視化するまでもなく、多くの人が文化の中で実践していることである。むしろそれ以上に、ワタシが1つの身体に内在するものではなくなっていることが重要な変化かもしれない。現実空間で/ウェブ空間で/現実とウェブの溶け合った空間で、ワタシはすでに複数の身体性を持つ存在なのである。学校や職場にいるワタシ、コスプレをしてキャラクターと化したワタシ。キャラとしてアップロード/ダウンロードされるワタシ。キャラとして他者とSNSで交流するワタシ。それこそ複数の身体性を持ったワタシが存在する。


森村泰昌《ワタシの迷宮劇場 M010》1994-95頃 ©︎Yasumasa Morimura

複数の空間で複数の身体が他者とつながる現代

そして、もう一つ重要な変化は、そのワタシが、他者とつながり、コミュニティ内で共有されることで、自己の感覚を得ることだろう。身体の複数性によって、自己の再定義が必要になったのである。自己像が共有されることで<ワタシ>になるという感覚。コスプレや美容整形などの文化事象からはこの感覚が見えてきているのである。

森村さんのアートが、一つの身体の中にある複数の自己を表現してきたとすれば、現代の文化現象は、複数の空間でそれぞれの(複数の)身体が存在し、そのことで自分と他者とのつながりを構築していることに特徴があるだろう。「自己の複数性」ではなく、「身体の複数性」そして身体の複数性を通じた「他者とのつながり」なのだ。何者かになり変わることは、自己を解体するよりむしろ、自己と他者を結びつけることになる。文化社会学の視点からは、現代アートが牽引(けんいん)してきた時代が、近年急激に速度を増してアートに追いつき、追い越したようにも見える。


森村泰昌《ワタシの迷宮劇場 M081》2008 ©︎Yasumasa Morimura

作者の熱量と執念、現代を予言したアート

5 時代の先駆者

最後に。展覧会を通して感嘆したのは、長い間にわたり無数の<ワタシ>を提示してきた森村さんの執念である。観客は、作品に内在する熱量、自己にこだわり続けるエネルギーに圧倒されることは間違いない。先に「時代が追いついた」と書いたが、それは森村さんが「時代を先取っていた」ということでもある。膨大な作品群を今の文化現象の予言として捉え直し、芸術家の先駆性に想いを馳(は)せることもできる展覧会であった。


「京都市京セラ美術館開館1周年記念展 森村泰昌:ワタシの迷宮劇場」 展示風景 撮影:三吉史高

谷本奈穂(たにもと・なほ)
関西大教授、文化社会学者

関西大学総合情報学部教授。1970年生まれ。大阪大学人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。専門は文化社会学。著書(単著)に『美容整形というコミュニケーション』(花伝社2018)、『美容整形と化粧の社会学』(新曜社2008)、『恋愛の社会学』(青弓社2008)。共編著に『身体化するメディア/メディア化する身体』(風塵社2018)、『博覧の世紀』(梓出版社2009)、『メディア文化を社会学する』(世界思想社2009)など。

展覧会情報

展覧会名:京都市京セラ美術館開館1周年記念展「森村泰昌:ワタシの迷宮劇場」
会場:京都市京セラ美術館 新館 東山キューブ 
会期:2022 年 3 月 12 日(土)~6 月 5 日(日) 
開館時間:10:00~18:00(最終入場は 17:30) 
休館日:月曜日(祝日の場合は開館) 
料金:一般:2,000(1,800)円、大学・専門学校生:1,600 (1,400)円、高校生:1,200(1,000)円、 小中学生:800(600)円、未就学児無料
※( )内は前売・20 名以上の団体料金。
※e-tix からの購入で各当日料金から 100 円引き。
※京都市内に在住・通学の小中学生は無料。
※障害者手帳等をご提示の方は本人及び介護者 1 名無料。確認できるものをご持参ください。
前売券:美術館ウェブサイトで販売中

Index
1
Jan 17, 2022
上野千鶴子評「ムズムズする」フェミニズムズ/FEMINISMS展
2
Jan 17, 2022
成田悠輔評「タコになりたい」 フェミニズムズ/FEMINISMS展
3
Jan 31, 2022
鹿島茂評「男のいない世界」フェミニズムズ/FEMINISMS展
4
Mar 02, 2022
祐真朋樹評「尽きない情熱」メンズ リング イヴ・ガストゥ コレクション
5
Mar 03, 2022
加藤磨珠枝評「死を想い、美に生きる」メンズリング イヴ・ガストゥ コレクション
6
Mar 28, 2022
鹿島茂評「コレクションという『作品』」メンズ リング イヴ・ガストゥ コレクション
7
May 12, 2022
石黒浩評「『ワタシとは何か』の探求」 森村泰昌:ワタシの迷宮劇場
8
May 13, 2022
谷本奈穂評「アートを現実が超えた」森村泰昌:ワタシの迷宮劇場
9
Jun 03, 2022
鹿島茂評「『ワタシ』とは顔である」 森村泰昌:ワタシの迷宮劇場
10
Sep 08, 2022
赤坂真理評「孤独な戦後処理」ゲルハルト・リヒター展
11
Sep 08, 2022
斎藤環評「アウシュビッツの換喩」ゲルハルト・リヒター展
12
Oct 04, 2022
鹿島茂評「ビルケナウは隠喩である」ゲルハルト・リヒター展
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