文:羽田圭介
本連載の最終回に行ってみる展示として、担当者より「大竹伸朗展」をおすすめされた。ただ本業の他に、盛岡で行われる文士劇に歌人・若山牧水の役で出演するための稽古もあり、なかなか足を運べないでいた。ある日の午前中、テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」の出張鑑定コーナーへのゲスト出演のため、東西線竹橋駅で降り歩いて撮影スタジオへ向かっていたところ、「宇和島駅」という、ここらの地名ではない駅名看板が目につき、でもなんか見覚えがあるなと立ち止まっていたら、雑誌等で目にしたことのある大竹伸朗作品だと思いだした。周りをよく見ると、その建物が東京国立近代美術館であり、行くつもりであった大竹伸朗展はそこで開催されていたのだと初めて知った。
「開運!なんでも鑑定団」では文豪特集コーナーの撮影が行われ、明治から昭和にかけての有名な文豪たち五人にまつわるお宝を、依頼者の方々がお持ちになられた。それに対する真贋を鑑定士の方々が鑑定し、価格も算出するのだが、芥川龍之介や谷崎潤一郎の手紙の他に、若山牧水が筆で書いた歌の書まで出てきた。文士劇で牧水を演じる直前だったので、なんたる偶然。牧水の書は本物で数十万円、出された他の文豪の品を含めても、つけられた最高評価額は100万円だった。同番組が放送開始となった頃、小学生だった僕はたまに見ていたりもしたので、その時の記憶からすると、日本人の文豪が書いた貴重な書物の評価額が100万円というのは妥当であるようにも思いつつ、安く感じてもいた。では、なんで安く感じたかというと、アート作品につけられる値段と比べて、安く感じたのである。
たとえば本連載を通じて行ったこともあるアートオークションでは、存命どころかまだ30代の若い作家の作品なんかにも、競り合いで数百万から数千万円の値がつけられていた。いっぽう、日本の文豪は既に故人であるため、直筆の品についてはこれから消失や損壊で数が減りはしても、決して増えることはない。手紙や原稿ならアートではなく文字情報に分類されるからという理由ものめるが、歌人が筆を手にとり自分で歌を書いたのなら、それは視覚的なアート作品として分類されるべきだろう。それでも、数十万円の価格しかつかない。勿論、鑑定士一人による価格の算出であるため、競り合った場合の価格はもっと高くなる場合もあるのだろうが、神田の古書店なんかでたまに見る他の文豪の品々にも数千万円の値などつけられてはいないから、落札額も評価額と大差ないように思える。文字で意味が生じると、それも限られた人にしか理解できない日本語で書かれてしまうとアートから離れ、価格が下がるのだろうか? 現代アートの展示に行くと、作家が描いたオリジナルの象形文字、みたいな作品に数百万円の価格がつけられていたりもする。
人々はいったい、なにをありがたがり、大金を払いたがるのだろうか。価値と価格は違うのかもしれないが。そんな思いにとらわれつつ夕方に「鑑定団」の収録を終えた僕は、そのまま東京国立近代美術館へ歩いて行った。
「時憶/断層10」という作品は、紫外線で劣化したセロファンテープ等で、剥がれかけた内装のような不快さそのものを切り取ったような作品で、最初に僕の目をひきつける。「放棄地帯」も、テレビ番組の収録スタジオにあったりする、美術の人たちが作ったセットの裏側のような、見てはいけないもの感が面白い。
それらの作品に対しては、作品というよりも、場所であるかのように感じた。有機性に結びつくような要素は徹底的に排除され、無機物感しかない。無機物に時間が流れたことが最もあらわれるのは、建てられて放置された建築物であろう。だから、場所のように感じられる作品群となっているのか。廃墟ビルのようでもあれば、古びた喫茶店のようであったりもする。人の記憶は場所と結びついているから、初めて目にするそれらの作品が、自分の中にある特定の記憶を呼び起こしたり、あるいは断片をかき集め、今までありもしなかったセピア色で哀愁のある記憶を捏造したりした。
作品の種類は多種多様で、写真や雑誌かなにかの切り抜きに描き込んだりした数々のスクラップ帳は、サブカル界隈の人たちがよくやっているものにも見えたし、自動装置によりギターが奏でられていたりする小屋など、その作品単体の中で目移りする大がかりなものもあった。終盤、音の作品が置かれているエリアに来て、本当に色々な種類の作品があるなと思っていると、窓の近くにある等身大の人型の作品が気になった。近づいてみると、椅子に座り微塵も動かない、痩せたおじいさんだった。
前々回の李禹煥展くらいまでは、アートへふれればふれるほど、自分の中の物差しの種類が増え、作品を見る目の解像度も上がってきたかのような感覚があった。ただ、約1年間アートを集中的に見てきて、右肩上がりだった成長曲線が伸び悩み、また少しわからなくなってきた感もある。そして不思議なことに、わからなくなってきた、ということにネガティブさは付随していない。
1年前と比べて成長しているか、と問われれば、見る目自体は実のところさほど成長していない気もする。自分の中にある物差しの種類や、引き出しの数が豊かになっていっても、それらは成長とは違うのではないか。そもそも成長するものでもないのかもしれない。
誰しも、作品を前にしたときに、自分の中に浮かんでくる純粋なる感想というものがある。ただ、それをなるべく加工しないで表に出すのは、かなり難しい。「理解できない」「難しい」「つまらない」という感想ですら、それらは“正直な感想”なのではなく、否定的な感想であるにしても、心で感じたことを無加工では言い表せていない。作品と対峙して自分の中にたいして感想がわいて出てこなかったとしても、他者の言葉からの引用や嘘で塗り固めてしまうよりは、たいしてなにもわいてこないという己の泉の枯渇具合を認めるほうが、はるかにマシだ。
アート作品の解釈においては純粋な感想とは別に、いかに作品の背景や文脈を理解するかという社会的なタグ付け行為も必要で、それらまったく異なる要素を融合させたうえでの“感想”を、自分なりに表さなければならない。数々のアート作品とそれらに接する人々総じて、人間の側は常に問われ続けている。だから今後も、わからないものにふれ続けようと思う。
今回訪れた展覧会:「大竹伸朗展」
1980年のデビュー以来、絵画、彫刻、版画、映像、絵本、巨大な建造物など幅広い制作活動を続ける大竹伸朗(1955-)の16年ぶりとなる大回顧展。最初期の作品から近年の海外発表作、コロナ禍に制作された最新作まで、およそ半世紀にわたる創作活動を総覧する約500点が集結。2023年2月5日まで東京国立近代美術館で開催。その後、愛媛県美術館(5月3日〜7月2日)、富山県美術館(8月5日〜9月18日)に巡回予定。
はだ・けいすけ/1985年東京都生まれ。明治大学商学部卒。17歳の時に「黒冷水」で文藝賞を受賞し小説家デビュー。2015年「スクラップ・アンド・ビルド」で芥川賞受賞。近著に『Phantom』(文藝春秋)、『滅私』(新潮社)、『三十代の初体験』(主婦と生活社)がある。