国家権力の暴力に対してアートは無力なのか? ウィキリークスが暴露した機密文書が並ぶ展覧会から考える
今春、内部告発サイトのウィキリークス、ロンドンの非営利団体a/political、ドイツに拠点を置くワウ・ホランド財団のパートナーシップで、「States of Violence」というタイトルの展覧会が開かれた。アートは政治や国家権力に対し何ができるのか、あるいはできないのか、いくつかの作品を取り上げながら考える。
政治的アートの複雑さを体現した「States of Violence」展
ロンドン南部の元食肉加工工場に、政治的なテーマに取り組む16のアーティストやコレクティブを集めた「States of Violence」展。言論の自由を守り、国家権力による残虐行為を非難するという高い志を掲げ、アイ・ウェイウェイやフォレンジック・アーキテクチャーなど、国家による人権侵害や暴力に異議を唱える活動でアート界以外にも広く知られる作家も参加した。
しかし、展示作品を見渡すと、誰が権力を握っているのか、なぜ権力を持てるのかを示唆する視点が陰謀論に近いものになりすぎて、その民主主義的な志を損なっているように思えた。ある意味、「States of Violence」展は、今日の政治的アートの持つ複雑さの産物であり、それを体現したものだと言えるだろう。
リベラルな民主主義国家の内部にある腐敗を非難する作品を制作・展示することは、その民主主義国家で法制化されている自由を拠り所としてのみ可能となる。たとえ、多くの点で、その国家が自らの基準を満たしていなくてもだ。
そこには、奇妙で皮肉な寛容さがある。過激派を自認する者たちが公然とテロや暴力を起こそうとしない限り、リベラルな国家は、国家を倒そうとする反乱のエネルギーに突き動かされた人々を押し潰したりはしない。むしろ、社会や政治から切り離され、実際には大したことのできないアートの中だけに存在させることで無力化するのだ。
たとえば、スペインのコレクティブ、デモクラシアによる等身大の大理石の彫像《Silencio(Royal Courts of Justice)》(2023)は、暴徒鎮圧の装備に身を包んで銃を携え、腰に弾薬ベルトを巻き、唇に人差し指を押し当てた険しい表情の警察官を描いている。これは、法の遵守は法の執行官による暴力的な脅しによって確保されるということを、文字通りに表現したものだ。
組織化・制度化した暴力を占有している政府が、暴力以外の戦術を採用する、あるいは採用できるだろうという考えは、よく言えば将来の社会のありようを過度に楽観視し、悪く言えば批判対象である権力の本質を軽信しているように思える。
「政治とは、異なる手段をもって継続される戦争である」というミシェル・フーコーの言葉がある。これは、『戦争論』を著したカール・フォン・クラウゼヴィッツの有名な、しかし、しばしば誤って引用される言葉(*1)を、フーコーが面白おかしく言い換えたものだが、おそらくこの警句は忘れられているのだろう。
*1 クラウゼヴィッツの元の言葉は、「戦争とは、異なる手段をもって継続される政治に他ならない」。
ジュリアン・アサンジがリークした機密文書の持つオーラ
しかし、この展覧会には1つだけ見逃せない重要な展示があった。
ウィキリークスの創設者ジュリアン・アサンジは、イギリスで最も警備が厳しいとされるロンドン南東部のベルマーシュ刑務所に4年間投獄されている。ここは、テロ容疑者を罪状なしで長期間拘留することから、「英国のグアンタナモ湾(*2)」とも呼ばれる。アサンジは、米軍の機密情報、イラク戦争時の米軍の現地報告、そしてこの展覧会で最も重要な1966年12月から2010年2月までの外交公電の暴露(通称ケーブルゲート事件)に関与。そのため、1917年にできたスパイ活動法違反で175年の刑を受ける可能性があり、アメリカへの引き渡しが近いと見られている。
*2 キューバ・グアンタナモ湾のグアンタナモ米軍基地にある収容キャンプは、テロ容疑者の超法規的な拘束や拷問などで問題視されている。
アサンジによる告発をテーマとしているのが、インスティテュート・フォー・ディセント&データラブの『Secret+NoForn』(2022)だ。これは、アメリカ政府の機密情報分類における「Secret(機密)」と「NoForn(外国人不可)」という最高レベルの機密文書を集約したもので、イギリスにおけるウィキリークス機密文書の物理的出版物としては最大のものだ。
『Secret+NoForn』の展示では、66巻からなる白黒のハードカバーの資料が、整然と時系列に並べられ、表紙にはこれがウィキリークスの公開した文書全体の6.2%にすぎないことが示されている。ここには2つの重要なポイントがある。1つは、政治的な情報(アートではないもの)を、ミニマリスト的オブジェという形で展示することの可能性。もう1つは、この作品が提起している具体的な政治的問題が、展覧会の他の作品の新たな読み解き方を示していることだ。
単に白黒の硬い本が並んでいるだけの《Secret+NoForn》は、シンプルであるからこそ効果的で、そのそっけない見た目よりずっと驚くべきことを成し遂げている。この作品は、世の中には膨大な量の不都合な情報があることを伝えているのだ。そして、世界中の権力の裏側で起きていることがここに記されているだけではなく、私たちもそれを知ることができると暗示しつつ、私たちをそこから遠ざける。この作品を眺めるだけでは何もわからないし、鑑賞者がこの中の1巻すら読む可能性はほとんどない。しかし、仮にそれを読んだとして、そしてそれが思索を促すこのミニマリスト的オブジェの完全性を損なうものだったとしても、結果としては厄介な法的問題が持ち上がるだけだ(この資料を開いた者は、1917年に制定されたアメリカのスパイ活動法によって訴追される危険性がある)。
《Secret+NoForn》は、他の作品に見られる反権威主義的な主張以上に、「実行できる違法性」とも言うべきスリルを鑑賞者に与える。ここに収められた情報はネット上でアクセスが可能で、それをもとに報道を行うジャーナリスト記者もいる。しかし、この情報にアクセスするだけで、一般の人々もアサンジが告発されている犯罪に加担することになる。この文書を読むのは違法であり、逮捕されるリスクもあるが、展覧会場には法的な保護は用意されていない。この作品が持つオーラは、たとえばデモクラシアの彫刻や、サンティアゴ・シエラの《Political Prisoners in Contemporary Spain》(2018)における24人の投獄された活動家の写真など、他の作品が示唆する暴力への抗議とは異なる力を放っている。
今ひとつ不満が残る作品とその理由
南アフリカのアーティスト、ケンデル・ギアーズの「Wonderland」シリーズ(2014/22)は、『Secret+NoForn』が扱っている問題の別バージョンとは言えないものの、少なくともある構造を共有している。これは、ディボンド素材(*3)のミラーパネルに、「HERE LIES TRUTH(ここに真実がある)」という黒い大文字のテキストを、丸焦げになった木で記した作品だ。トートロジー(*4)としては、これは欺瞞にすぎない。自己言及の連鎖の中で際限なく先送りされない限り、ここに真実が見い出せないのは明白だからだ。しかし、言論の自由や芸術的表現の死を示す墓標としては、「States of Violence」展全体のナイーブさと共通するものがあるだろう。
*3 ポリエチレンとアルミニウムの複合材。
*4 「同語反復・同義語反復」を意味する修辞技法の一種。 論理学においては「常に真である論理式」を意味する。
ギアーズのシリーズでは、そもそも語られることのなかった政治的・芸術的な真実を大いに嘆き、私たちが何かを失ったと主張している。しかし、それをいつ手に入れたのかは教えてくれない。この作品は、政治における嘘は何か新しいものであると暗示しているのかもしれない。プラトンの『国家』やマキャヴェリの『君主論』、あるいは西欧哲学を政治哲学として再生させようとしたレオ・シュトラウスの教え子たちによって唱えられた「大きな嘘」や「高潔な嘘」を、これまでの権力者が学ばなかったかのように。ヒトラーやゲッペルス、リチャード・ニクソン、そしてイラクのサダム・フセインが「大量破壊兵器」を保有していると主張し、2003年のイラク侵攻を正当化したイギリスのブレア政権などの事例があるにもかかわらず。
「Wonderland」シリーズには、『Secret+NoForn』が持つ複雑で内省的な構造の一部が含まれている。しかしそれは、リベラルな民主主義国家が愛情をもって与えてくれる自由の厳格な境界線の中に留まっている。なぜなら、アーティストの主張を見ることは、その作品を見ること以外の活動に私たちを関与させるものではないからだ。真実は死んだとか、芸術はこういうところで役割を果たすとか、そういうことを考えてトラブルに巻き込まれようという人などいないのだ。少なくとも今のところは。
アイ・ウェイウェイの「Study of Perspective(遠近法の研究)」シリーズ(1995-2003)には、彼本人が国家権力を象徴するさまざまな場所で中指を立てている(侮辱を意味するポーズ)9点の写真がある。このシリーズは、自由が存在しない場所、つまり好き勝手なことを言えば政府に拘束され、言葉にできないような行為をされかねない場所で行われる反体制的行動を私たちに見せてくれる。
9点の写真の中には、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、ベルリンの議事堂、ワシントンD.C.のホワイトハウス、ロンドンの議事堂などがある。アイは、カトリック教会や(おそらく)ナチズム、民主主義国家の二枚舌を非難しているのだろう。また、こうした行動が深刻な結果を招きかねない中国での写真もあるが、そこに潜むモラル・イクイバレンシー(*5)が彼の意図を不明瞭にしている。成都市の警察も、1989年6月に人民解放軍が民主化運動を武力鎮圧し、数百人とも数千人とも言われる(正確な数字は不明)参加者を殺害したとされる天安門広場も、他の国とは違うからだ。
*5 Moral Equivalency(道徳的同等性)とは、無関係な物事を比較し、一方が他方と同じくらい悪い、あるいは他方と同じくらい良いと主張すること。
ロンドンで、『Secret+NoForn』を手に取って読んだら、トラブルに巻き込まれるかもしれない。しかし、長年不祥事を起こしてきたロンドン警視庁であっても、ドアを蹴破って乱入し、あなたを逮捕することはないだろう。しかし、アイはそれよりずっと大きな危険を抱えている。
アートは政治的に無力なのか?
サンティアゴ・シエラの《Political Prisoners in Contemporary Spain》は、カタロニア独立を支持したためにスペイン政府によって投獄された政治家、活動家、アーティスト、ジャーナリストなどの24枚の写真からなる作品だ。名前は示されているものの、低解像度の写真に写った顔にはモザイクがかけられ、世界から葬られたかのように見える。
それぞれの写真の下には、彼らに対する告発内容、逮捕の経緯、判決の詳細が記されている。これは、民主主義の重要な機能を果たしていると言える。たとえ見る人が、彼らの考えや行動が取り締まられることに同意できないとしても、あるいは彼らとは政治的立場が異なるにしても、リベラルな民主主義国家の市民にとっては、彼らが誰で、どんな罪に問われているのかを知ることは、国家が主張する法的透明性を目指す意味でも極めて重要だ。
おそらく、怒りは最初の政治的感情なのだろう。そして、「States of Violence」展で表現されている具体的な感情が初めて広がりを見せたのは、ウィキリークスが公開した文書の最も早い時期である1966年頃だろう。しかし、その政治的な空気が目に見える形で噴出したのは、反グローバリズムの無政府主義者たちが1999年にシアトルで行った、世界貿易機関(WTO)への抗議デモが最初だったのではないだろうか。
「States of Violence」展には、反抗はしながらも自由な民主主義国家の枠組みの中に留まり、闘争の夢をアートの中に落とし込もうという意志表示は感じられる。また、国家の法的正当性が部分的に拠り所としている偽善を指摘してもいる。そこには、ラディカリズムを帯びた反抗的なムードが潜んではいるが、政治的には無力になりがちなのが現実だ。(翻訳:平林まき)
from ARTnews