ルネ・マグリットの革命の軌跡──普通を装い続けたシュルレアリスト
一見ありふれた光景、ありふれた人物や事物でありながら、不条理に満ちた世界が絵の中に広がる──そんな作品を残したシュルレアリスムの画家、ルネ・マグリットは、いったいどんな人物だったのだろうか。幼少期の体験から晩年の成功まで、彼の残した言葉とともに見ていこう。
「目に見えるすべてのものは別の何かを隠している」
ベルギーのシュルレアリスト、ルネ・マグリットが入念に描いた絵の中で、見かけ通りのものは何もない。たとえば《イメージの裏切り》(1928-1929)という作品。パイプを描きながらも、その下に「Ceci n'est pas une pipe(これはパイプではない)」と筆記体で書き加えられている。
マグリットが作品を通して訴えているのは、外見は当てにならないということだ。そして、彼が現役で活躍していた20世紀から21世紀の今に至るまでずっと、アートファンやアーティストたちはその不可思議な絵が何を意味するのか頭をひねってきた。
そこに描かれているものは、ありふれているのに不気味な印象を与える。夕闇の街角の上に広がる真昼の青空、絵画と同化した田園風景、空が映り込んでいるのかもしれない青い瞳。こうしたイメージを生み出したマグリットは、晩年のインタビューでこう語っている。「目に見えるすべてのものは別の何かを隠している。私たちはいつも、目に見えるものに隠されている何かを見たいと思う。しかし、それは不可能なのだ」
彼の絵では、意図的に絵画性が消されている。その平面的で写実的な絵によって、私たちの関心は絵画の技法から逸らされ、代わりに描かれたものの奇妙さに向けられる。
マグリット自身も、絵を描くときと同じような方法で自分の存在感を消していた。ブリュッセル郊外に居を構え、中産階級の紳士として暮らした彼は、その絵によく登場する山高帽の男たちと似ている。マグリット自身も、「私は自分自身を特別な存在に見せたくない」と説明していた。「彼は秘密工作員だ」と評したのは、評論家のジョージ・メリーだ。「彼の目的は、ブルジョワ的な世界の仕組みへの信頼を失墜させることにある。全ての破壊分子がそうであるように、彼は目立たないよう皆と同じ服装や振る舞いをしているのだ」
今も人々を惹きつけてやまないマグリットの絵画
マグリットの不思議な魅力は今も健在だ。2007年にロサンゼルス・カウンティ美術館で、マグリットが現代アートに与えた影響を探る展覧会が開催され、2011年にはモナコ新国立美術館で、彼が発行していた雑誌の名前にちなみ「La Carte D'Après Nature(自然に従った地図)」と題されたグループ展が開かれている。マグリットを出発点としたこの展覧会では、何の変哲もない物をモチーフに、不穏な世界を描いた作品が集められた。
2009年にはマグリットの母国ベルギーで、約200点の作品を収蔵するマグリット美術館が開館。2021年にはイギリスの美術史家アレックス・ダンチェフとサラ・ウィットフィールドによるマグリットの詳細な伝記が出版された。さらに、2022年にはサザビーズ・ロンドンで《光の帝国》の連作の1枚(1961)が7980万ドル(約96億円)で落札され、それまでのマグリット作品のオークション最高落札額の3倍を記録した。
では、マグリットとはどのような人物で、なぜ今なお価値ある作家と見られているのだろうか。
母を自殺で亡くした幼少期から画家になるまで
ルネ・フランソワ・ギラン・マグリットは、1898年にベルギーのレシーヌで、帽子屋の従業員だった母レジーナと仕立屋の父レオポルドの間に、3人兄弟の長男として生まれた。彼は美術アカデミーに入学する何年も前の1910年からデッサンを習っていた。
うつ病で自殺未遂を繰り返していた母親は、マグリットが13歳だった1912年の2月にシャトレという街の自宅近くの橋からサンブル川に飛び込み、命を絶った。17日後に川辺で発見された彼女の遺体の頭には、ナイトガウンが巻き付いていたという。マグリットが公に認めることはなかったが、彼の作品に頻出する顔を覆われた人物はこの出来事から着想されたのかもしれない。たとえば、1928年に描かれた《恋人たち》では、頭を布で覆われた2人の人物がキスをしている。ちなみに、マスク姿の人々が街に溢れたコロナ禍では、この作品を真似た画像がソーシャルメディアで数多く拡散されていた。
その数年後の1916年、マグリットはブリュッセル王立美術アカデミーに入学し、1918年まで断続的にそこに通った。若き日の彼は印象派風の作品やキュビズム、未来派に影響を受けた作品を描いていたが、やがて物足りなさを感じて学業を中断している。1920年になると、兵役のためベルギー軍の歩兵隊に入隊。翌年には退役し、壁紙工場でデザイナーの職を得た。
1922年には10代の頃から知っていた女性、ジョルジェット・ベルジェと結婚。夫妻に子どもはいなかったが、ブリュッセルの自宅では犬、猫、鳩などたくさんのペットを飼っていた。ポール・サイモンは1983年に発表したバラード「René and Georgette Magritte With Their Dog After the War」の中で、夫妻が飼っていた子犬のことを歌っている。
閑静なミモザ通り沿いの家に暮らす彼らの結婚生活は、退屈なほど安定しているように見えたが、実は2人とも浮気をしていた。マグリットはシュルレアリスムのパフォーマンスアーティスト、シーラ・レッジと(彼は売春宿に通っていた可能性もある)、ジョルジェットはシュルレアリスムの詩人ポール・コリネと関係を持っていたが、夫妻は最後まで別れることはなかった。
短いパリ生活とシュルレアリストたちとの交流
1926年にブリュッセルのサントール画廊と契約を結んだマグリットは専業画家になり、翌年には同画廊で初個展を開いた。だがシュルレアリスム風の絵は批評家に酷評され、落胆したマグリット夫妻は、より前衛的な芸術を求めてパリに移り住んだ。彼らはパリ東部の郊外、ル・ペルー=シュル=マルヌに居を構え、アンドレ・ブルトン、サルバドール・ダリ、ジョアン・ミロといったシュルレアリストたちと親しく交流した。そして1年も経たないうちに、彼らと一緒に作品を展示するようになる。
しかし、著名人に囲まれたパリでの生活は長続きせず、(おそらく経済的な理由から)1930年にジョルジェットとともにベルギーに戻ったマグリットは、シュルレアリスム運動の中心的メンバーではなくなる。実際、周縁に身を置くというのは、彼の人生で繰り返されたテーマだった。数年間だけパリに住んだほかは、彼はアート界の中心とは距離を置き、最晩年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開かれた自身の回顧展を見にいく前は、ニューヨークを訪れたことさえなかった。
とはいえ、シュルレアリストたちとの交流は続き、制作中の作品のことなどを手紙で書き送っていた。完成したばかりの《人間の条件》(1933)については、1934年にブルトンにこう書いている。「絵の背後に広がっている光景は、そこに見えているものとは異なっているかもしれない」
絵画を描いた絵画である《人間の条件》では、イーゼルの上に乗った風景画が背後の風景と一体化して、ほとんど見分けがつかない。表面上は一方がイメージで、他方が「本物」であるはずだが、どちらもこの絵と同じようにシミュラクル(実体を欠く虚像)なのだ。
画家としての評価が上がった1930年代
1930年代には、画家としての節目となる出来事が相次いだ。1933年にブリュッセルのパレ・デ・ボザールで個展を開催し、1936年にはニューヨークで2つの展覧会が行われた。1つはジュリアン・レヴィ・ギャラリーでの個展、もう1つはMoMAで開かれた「幻想芸術・ダダ・シュルレアリスム」というグループ展だ。この年、マグリットはロンドンで開催された国際シュルレアリスム展にも参加し、そこでコレクターのエドワード・ジェームズの目に留まる。
ジェームズは、ロンドンの自宅に飾るための作品をマグリット(とダリ)に依頼。舞踏室に掛けるための作品を依頼されたマグリットは、黒い蒸気機関車がまるでトンネルを抜けてきたかのように暖炉の中から現れる《貫かれた時間》(1938)を制作した。この作品についてマグリットは、後にこう語っている。「私は機関車の絵を描くことに決めた。謎めいた雰囲気を出すために、謎めいたところのないもう1つのもの、見慣れたダイニングルームの暖炉と組み合わせたのだ」
第2次世界大戦中の贋作制作
それまで順調だったマグリットの運は、第2次世界大戦の勃発によって突然尽きてしまった。ナチス占領下のベルギーで彼は、自宅にこもって時を過ごしている。生活を支えるためか、あるいは、権力に楯突くためか定かではないが、彼は新旧の名画の贋作を作り始めた。偽造したのは、ティツィアーノや17世紀オランダの画家メインデルト・ホッベマのほか、同時代のジョルジュ・ブラックやジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンスト、パウル・クレー、パブロ・ピカソなどの作品だった。
これを暴露したのは、ベルギー人シュルレアリストのマルセル・マリエンだ。贋作の販売に協力していた彼は、マグリットの死後に出版した自伝の中でこのことを書いている(ジョルジェットはマリエンを訴えたものの敗訴した)。彼の偽造行為は絵画にとどまらず、戦後には偽札まで造っていたという。しかし、マグリットの名誉のために付け加えるならば、彼はずっと警告していたのだ。「物事は見かけによらない」と。
共産党に入党し、作風が一変した時代
マグリットは1945年にベルギー共産党に正式に入党し、長年抱いていた政治信条を公のものにした。「詩人や画家がブルジョア的な経済体制と闘う唯一の方法は、その根底にあるブルジョア的な価値観を否定する作品を作ることだ」と、彼は1946年に手紙に認めている。
第2次世界大戦の末期には作風を一変させ、鮮やかな色彩で印象派風の絵を描くようになる。ルノワール時代(1943-47)とヴァシュ(雌牛)時代(1948)に分けられる、この時期の作品の評価は芳しくない(一部の批評家からは酷評された)。この時期のマグリットは、ルノワールやフォーヴィスムの視覚言語を借用し、明らかに自分のものではないスタイルで制作していた。
1944年にマリエンに宛てた手紙の中で、自らの美的転向について彼はこう説明している。「私は芸術の理想世界に避難している。現実世界が騒がしくなればなるほど、そこから逃げ出すことにためらいを感じなくなってきた」。また、別の手紙の中では、「ドイツの占領が私の芸術の転機となった。戦前の私の絵は不安を表していた。だが、芸術で重要なのは魅力を表現することだと戦争体験が教えてくれた」と書いている。
コレクターたちを魅了した《光の帝国》
数年にわたり、ほかの画家のスタイルを取り入れていたマグリットだが、1940年代後半には自らの画風に回帰していった。その帰還を知らせる合図となったのが《光の帝国》(1949)だ。彼はこれを皮切りに、1960年代半ばにかけて同名の油彩画を17点とグワッシュ画を10点制作した。それぞれの作品は少しずつ異なっているが、どれも2つの時間帯が同居する不思議な住宅街の情景が描かれている。絵の中では真昼の明るい空と、暗がりの中にぽつんと立つ街灯に照らされた家が対比されているが、真の光源が自然光なのか人工光なのかは判然としない。
この連作は、すぐにコレクターたちの心を掴んだ。1枚目はネルソン・ロックフェラーが秘書への贈り物として購入し、2枚目はマグリット作品を数多く集めていた有力コレクター、ドミニク&ジャン・ド・メニル夫妻が手に入れ、後にMoMAに寄贈した。8番目に描かれた最も大きな作品は、1954年のヴェネチア・ビエンナーレに出品された後にペギー・グッゲンハイムに売却された。2022年の3月にマグリットのオークション記録を塗り替えた1961年版は、彼のパトロンだったピエール・クロウェの娘、アンヌ=マリー・ジリオン・クロウェのために描かれたものだ。
この連作に取り組んでいたのと同じ時期に、マグリットはクシや石けんなどの日用品を巨大に描いた作品をいくつか制作している。《個人的価値観》(1952)では、人間ほどの大きさのワイングラスが部屋の真ん中に立ち、巨大なシェービングブラシが戸棚の上に横たわっている。ブルジョワ的な空間の中で、ふてぶてしくも自らの巨大さを誇示しているこれらのオブジェは、見る者を身の置きどころのない気持ちにさせる。
「ポップアートはただの広告美術」
1950年代から60年代にかけては抽象画が隆盛を極めていたが、マグリットはこの時期も相変わらず世界のアートファンを魅了し続けていた。ニューヨーク、パリ、ジュネーブに拠点を置くアレクサンダー・イオラス・ギャラリーで何度も展覧会を開催したほか、1960年代にはアメリカ各地の美術館で個展が開かれている。1965年のMoMAでの大回顧展(81点の作品が展示され、マグリットが初めてアメリカを訪れるきっかけとなった)の前にも、ダラス、ヒューストン、ミネアポリス、アーカンソー州リトルロックの美術館で個展が開催された。
MoMAのマグリット回顧展が開催されたのはポップアート全盛の時代で、ほとんどの展評がマグリットとこの新しい芸術運動との共通点について触れていた。マグリットもポップアートも、日常生活の中のありふれたものをモチーフにし、それをリアルに描写している──批評家たちはそのように指摘したが、マグリット自身はその関連性を認めていなかった。1965年に彼はこう語っている。「ポップアーティストたちは私を超えたと言えるだろうか? 申し訳ないが、ポップはまやかし、ただの広告美術だと思う」
売れっ子作家もマグリットを買い求め、価格が急上昇した晩年
美術館での展覧会が度々開かれたこと、ポップアートとの関連性が取り上げられたことで、1960年代にマグリット作品の市場価値は急上昇した。既存のコレクターに加えて、アーティストたちもこぞって彼の作品を購入するようになり、1960年代初頭にジャスパー・ジョーンズが《The Interpretation of Dreams》(1935)を、その直後にロバート・ラウシェンバーグが《The Literal Meaning》(1929)を購入。1965年には1959年の8倍の価格で取引されるようになっていた。
マグリットは、こうした商業的成功を見届けるまで生きていたが、1967年に膵臓癌で亡くなった。彼は最後まで、退屈だが穏やかな小市民的生活を送っているように見せかけていた。1966年のエスクァイア誌に掲載された「This Is Not Magritte(これはマグリットではない)」という記事からは、その人物像が垣間見える。
「彼の生活は、その絵画と同じように拭い難い凡庸さに覆われているが、彼はあえてそうしているのだ。めったに旅行はせず、外出するより家にいることを好む。料理や食べることが好きだが、乾燥したビスケットなど、口にしたとたん電気ショックが走る食べ物もあるという。彼は哲学書、そしてダシール・ハメットやレックス・スタウトの探偵小説の愛読者だ。以前ほどではないが、グリニッジという薄暗いカフェでチェスをし、それ以外の時間は引退した曲芸師のように疲れた体を甘やかしている。1日の終わりに最も喜びを覚えるのは、『もう寝るよ』と言うことだ」
1967年8月のある日の終わり、3週間の入院生活を終えて間もなくマグリットは自宅で息を引き取った。しかし、これによって彼の功績に終止符が打たれたわけではない。半世紀を経た今もなお、その絵は私たちを戸惑わせる。淡々としているが不条理に満ちたマグリットの作品に、時代を超えた魅力があるのは間違いない。(翻訳:野澤朋代)
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