地中海に浮かぶアートの島──美食、自然、歴史が揃ったメノルカのハウザー&ワース
世界のアート業界の一角を担うハウザー&ワースは、ロンドン、チューリッヒ、ニューヨーク、ロサンゼルス、香港など世界十数カ所に拠点を展開している。2021年に同ギャラリーは、こうしたアート市場の中心地から遠く離れた小島に新たなアート空間を作り出した。その魅力を紹介しよう。
美しい海に浮かぶ小さな島に出現したアートスペース
ハウザー&ワースが新たな拠点に選んだのは、ユネスコ生物圏保護区に指定されているスペイン・メノルカ島の入江に浮かぶレイ島だ。バルセロナの南東にあるメノルカ島の主要都市マオンからフェリーで15分の場所にあるこの「島の中の島」は、18世紀には度々イギリスの占領下に置かれたが、1802年にイギリスとフランスの間で締結されたアミアンの和約によってスペインに返還された。
広さ約1500平方メートルの展示スペースは、イギリスの海軍病院だった18世紀の建物をアルゼンチン人建築家ルイス・ラプラスが改装したもの。地中海性気候に適した植物で彩られた庭園の設計は、ランドスケープデザイナーのピート・アウドルフが担当している。
公共のものである島と建物は、ハウザー&ワースが非営利団体レイ島病院基金とともに管理している。同基金はこれまで18年間、世界中から集まった献身的なボランティアの協力を得て、この場所の修復と保存に取り組んできた。
レイ島の展示スペースを訪れるには一手間かかる。マオンの港で船に乗り、15分ほどでレイ島に着いた後、船着場からギャラリーまでは彫刻が並ぶ坂道を登っていくことになるからだ。現在このギャラリーで個展を開催中の画家、クリスティーナ・クォールズはこう語る。
「ちょっとした旅気分が味わえる展示スペースは大好きです。見るためのプロセスがゆっくりしたものになり、鑑賞に向けた心の準備ができますから」
来場者は、クォールズの展覧会を見る前に屋外でかなりの数の作品に出会う。ハンス・ヨーゼフソンの抽象的な真鍮の像や、3つの石壁に囲まれたステファン・ブルッゲマンのネオン作品《OK》、道を曲がるように促すサインにも見えるエドゥアルド・チリーダの彫刻などだ。そして最後に、ディズニー・キャラクターを寄せ集めて固めたようなポール・マッカーシーの真っ赤な彫刻作品がある。
レジデンス作家による企画展とクリスティーナ・クォールズの個展を開催中
マッカーシーの彫刻が設置されているパティオからは、2つの室内展示スペースにアクセスできる。現在、片方のスペースでは、研究者のオリオル・フォンデビラがキュレーターを務め、地中海と周辺地域の環境問題に焦点を当てた展覧会「After the Mediterranean」が行われている(10月29日まで)。
ここには、ハウザー&ワース・メノルカの最新レジデンシープログラムに参加した7人のアーティストの作品が並ぶが、その多くは制作に地元の人々が関わっている。たとえば、ガーナ人アーティストのアジョア・アルマは、レジデンスに滞在中、地質学者のロレーナ・ラセロ、考古学者のイレーネ・リウダヴェッツ、海洋生物学者のリタ・パブストとともに、砂を入れた12個の透明な容器を吊り下げた時計《(when) time turns, space turns》を制作した。
アリージ・フニティとイライザ・ゴルドックスのアーティストデュオ、フニティ・ゴルドックスは、版画スタジオのサルビニアや塩鉱山のサル・デ・メノルカの協力を得て《Rising up from Halite》を制作。青い波状のシートで覆われた半円筒形の構造物の内側には、少しずつ変化する水や雪に覆われた風景の映像が投影されている。この作品について、2人はこう説明する。
「干上がった地中海を想像した物語をデジタルで表現するため、私たちは塩という物質を抵抗の象徴として使いました。また、物理的なインスタレーションにも塩を取り入れています」
もう1つの展示スペースで開かれているのは、ロサンゼルスを拠点とするクリスティーナ・クォールズのスペインでの初個展、「Come In From An Endless Place」だ(こちらも10月29日まで)。この展覧会では、カンバスと紙に描かれたペインティングのほか、彼女が自らの創作の出発点だとするドローイングが展示されている。多くのアーティストにとって、ドローイングはペインティングのための下準備だが、彼女はより実験的な方法でそれに取り組んでいるのだ。
「私は描くときの動きを通して絵を作り上げていきます。事前にスケッチはせず、カンバスの上で直接、スケールやテクスチャー、色彩を探っていくのです」
クォールズの絵の中では、絡み合った身体が融合し、重なり合い、ぶつかり合う。絵の中の人物たちは戦っているようにも、遊んでいるようにも見えるが、そこは意図的に曖昧にされている。彼女が描く身体に反映されているのは、自分自身のジェンダーやセクシュアリティ、人種的アイデンティティだ。クィアでありシスジェンダー女性(生来の性が女性で性自認も女性)であること、黒人の父を持つが肌が白いことは、彼女のアートをどんなレッテルや典型、枠組みにも当てはまらないものにしている。
クォールズのドローイングのタイトルは、どこかで耳に挟んだことのあるフレーズや詩、そしてレナード・コーエンの「ハレルヤ」やフランク・オーシャンの「Self Control」など、ポップスの曲名や歌詞を引用したものだ。このように作品を名付けることで、親しみやすさと親密さの感覚を生み出せると彼女は考えている。
《It'll Be Good》と題された新作ドローイングには、両手を後ろに縛られた女性の姿が描かれている。それでも前進しようとしているように見えるこの女性は、クォールズ自身なのだろうか? そう尋ねると彼女はそれを否定し、これまでに制作してきたどの作品も自画像ではないと付け加えた。仮にそう見えるとしても、それは作品を描く時の動きに彼女の創作過程が反映されているからだという。
多彩な関連プログラムや美食を楽しめるレストランも
ハウザー&ワース・メノルカでは、イギリスのサマセットやロサンゼルスの拠点のように、アーティストとさまざまな人々との対話を目的としたエデュケーションラボを運営している。メノルカ研究センター、ペドラ・ビバ(音楽とアートのフェスティバル)、エス・クラウストレ(教会の中庭を使った文化センター)、メノルカ・オペラ財団といった地元団体と提携してレイ島で行われた教育プログラムには、ワークショップや講演会、見学会、小中学校向けの活動などがあり、参加者はすでに7500人を超えた。
クォールズの個展に合わせて実施されたプログラムでは、マオンの美術学校クレアエ・エスパシオ・クレアティボの生徒たちが大きなカンバスに身体の一部を描き、施設内に展示した。このプログラムについてクォールズはこう語る。
「私自身も芸術教育によって多くの恩恵を受けてきましたから、教育プログラムを大事にしています。展覧会の会期が長く、学校の授業期間に色々な来訪者を受け入れる機会があるのも素晴らしいと思います」
また、ハウザー&ワース・サマセットやロサンゼルスの拠点と同様、メノルカのアートスペースにもレストランが併設されている。「カンティーナ」というこの店を運営するのは、メノルカ島のワイナリー、ビニファデットのオーナーで、複数の飲食店を展開する企業メノルカ・ボニータ・プロジェクトの創設者でもあるルイス・アングレスだ。
地元の農水産物を使った季節ごとのメニューにこだわるアングレスは、長い間フランス人が作ったと思われていたマヨネーズが、実はマオン生まれのソース「マオネーズ」を真似たものなのだと教えてくれた。マヨネーズを考案したのはルイ13世の宰相だったリシュリュー公爵に仕えていた料理人で、バレアレス諸島に滞在したことのある人物なのだという。
アート、おいしい料理、そして島の歴史を堪能できるハウザー&ワース・メノルカは、目と舌、そして心を喜ばせてくれる。アングレスは、その創設者たちを評してこう語った。
「彼らは、美食と旅、アートが最高の組み合わせであることをよく分かっています。ハウザー&ワースが作ったこの場所には、魂と個性があります」(翻訳:野澤朋代)
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