マーク・ロスコのすべて──初期の具象画から晩年の作品まで網羅する回顧展をレビュー
現在、パリのフォンダシオン・ルイ・ヴィトンでマーク・ロスコの大回顧展が開催中だ(2024年4月2日まで)。ロスコと聞けば、多くが無彩色に近い暗い背景の上に浮かぶ赤や暗褐色の色面を描いたカラーフィールド・ペインティングを思い浮かべるだろう。しかし彼は、一夜にしてそのスタイルを確立したわけではなかった。
ロスコ独特のスタイルが生まれた1950年代
この回顧展のカタログには、LVMH会長兼CEOでフォンダシオン・ルイ・ヴィトンの取締役会長、そして大物コレクターでもあるベルナール・アルノーが寄せた文章がある。その中で彼は、この展覧会は自分の愛するアーティストの1人を取り上げるという「長年の個人的な願いを実現したもので、すべての作品が唯一無二のものだ」と書いている。フォンダシオン ルイ・ヴィトンの芸術監督であるスザンヌ・パジェとロスコの息子クリストファーがキュレーションを担当したこの素晴らしい展覧会を見た後で、アルノーの言葉に反論するのは難しい。
今回のロスコ展では、約115作品がフランク・ゲーリーの設計による美術館の4フロアにわたって展開されている。
1階の会場に入るとすぐに目に飛び込んでくるのは、彼が新境地を開いたカラーフィールドの抽象画だ。そこには、私たちがロスコと聞いて真っ先に思い浮かべる独特のスタイルが生まれた1950年代の作品が並んでいる。
これらの1950年代の作品には、晩年の作品とは対照的な明るさと軽やかさがある。時系列的には彼の中期の作品にあたるが、展覧会の冒頭にこれを持ってきたのは正解だ。なぜなら、初期の具象画や、抽象に転じ始めた頃の実験的作品、そして色彩が深みと豊かさを増し、さらには暗くなっていったキャリア終盤の作品との対比が明確になり、これまで何度も見たことのある作品がさらに興味深く映るからだ。
ニューヨーク近代美術館(MoMA)から貸し出された《Light Cloud, Dark Cloud》(1957)では、中央の赤い色面の鮮烈さが、その上のバラ色と下の明るい白で和らげられ、繊細な美しさをたたえている。そしてそれは、ロサンゼルス現代美術館から貸し出された《No. 9 (Dark over Light Earth/Violet and Yellow in Rose)》(1954)の大部分を占める暗い紫色と振動しているような黄色によって、さらに引き立てられている。隣り合う2点の作品はどちらも、少し褪せたトーンのピンクがかったオレンジ色が背景に使われており、並べて見ると、その色調の微妙な変化がよく分かる。
ここでもう1つ目を引くのが、2004年にクリスティーズ・ニューヨークで890万ドル(現在の為替レートで約13億円)もの高値で落札されて以来、あまり公の場では見ることのできない《No. 15》(1958)だ(所有者の名前は明かされていないが、ここで展示されていることから見当がつく)。この絵では、下部の紺色からスミレ色に転じるグラデーションが魅惑的な効果を生んでいるが、それは背景のくすんだ紫色によって引き出されている。
1930年代の具象画に垣間見える空間の分割
他の優れた回顧展と同様に、この展覧会も、代表作はもちろんのことロスコのあまり知られていない側面にも光を当てている。彼の初期作品がほとんどが具象画であったことを知る人は、そう多くないはずだ。これらの具象画に触れ、多くの人は「ロスコらしくない」と感じるかもしれない。特に注目すべきは、1930年代に制作された無題の作品だ。地下鉄の駅に魅せられたロスコが好んで描いたシリーズの一部で、ホームの細い緑の柱の脇を、奇妙にひょろりと伸びた人物たちが通り過ぎていく。そこには、部分的にではあるが、のちに彼のトレードマークとなる色面の組み合わせを見ることができる。後の作品を特徴づける色の層にあるような、空間の分割にロスコが初期から関心を持っていたことは明らかだ。
ロスコはこの実験を、1941年から42年にかけて描いた無題の作品でさらに探究している。ここでは画面を3つの領域に分け、くっきりとした線で囲まれた各領域の中に複数の顔(緑色の領域)、胴体(ピンクがかった赤の領域)、手と足(黒と白の領域)を描いている。この不安定な構図で3分割された画面は、彼が最終的に到達することになる色面の配列を予感させる。
自然主義的なところもある具象画から、シュルレアリスム風の絵画、そして完成されることのなかった抽象表現へと作風が発展していく様子は実に興味深い。このように次々と新たなスタイルを試みていたロスコに対し、美術評論家は時に手厳しかった。しかし、今振り返ると、自分が進むべき道を模索していた彼の味方をせずにいられない気持ちになる。
テートの「シーグラム壁画」9点を含む傑作が並ぶ
1940年代の終わりに近づくと、いくつかの抽象画の中に複数の色のブロックが登場しはじめる。色面同士の境界線が緩んだことで色のグラデーションが現れ、それが彼の絵に振動するような効果を与えている。この時、彼は真に偉大な仕事を成す一歩手前まで来ていた。そして、1950年代の傑作が並ぶ展示室に足を踏み入れた観客は、その圧倒的な力に打ちのめされる。
これ以降の展示室では、私たちが知るロスコの真骨頂とも言える作品を見ることができる。それらは心を揺さぶり、力強く、美しい。そうしたロスコらしさを存分に見せるため、フォンダシオン・ルイ・ヴィトンは有名な「シーグラム壁画」(*1)シリーズの9点をロンドンのテート・ブリテンから借りている(テートはロスコ作品をめったに貸し出さないので嬉しい驚きではあるが、個人的にはJ・M・W・ターナーの絵画とのコントラストが味わえるロンドンの展示の方が好きだ)。
*1 ニューヨークのシーグラムビル内の高級レストランのために、1958年に依頼を受けてロスコが制作した全30点のシリーズ。この作品は結局、レストランに飾られることはなかった。
来館者の多くは、こうした代表作を前に、動けなくなるだろう。それほどに圧倒的だからだ。しかし、知名度ではやや劣るとはいえその前に展示されている作品もじっくりと鑑賞する価値がある。たとえば、鮮やかな赤と深い赤紫色を対比させた《No.9 (White and Black on Wine)》(1958)は、シーグラム壁画より明るく目に鮮やかな抽象画だ。この絵は、似た色調を使ったシーグラム壁画におけるロスコの試みを先取りしている。
ロスコ最後のシリーズとジャコメッティ彫刻との競演
ロスコほどのアーティストの場合、象徴的で真髄が表れているような傑作や、美術館の常設展示室に飾られている有名作品にばかり注目が集まりがちだ。しかし、今回の回顧展の本当の見どころは、格調高い近代美術館で最高の場所を占めているわけでもなく、一般の人の目に触れる機会もほとんどない作品群だ。
「Black and Gray, Giacometti」と題された展示室には、ロスコの最後のシリーズ「Black and Gray」(1969-70)の作品が、アルベルト・ジャコメッティの彫刻とともに並んでいる。背景には、ユネスコが1969年にパリの本部でこの2人の作品を組み合わせた展示を企画していたという経緯がある。
水平線のようなほぼ真っ直ぐな線で色面が分割されたこれらの絵では、深みのある黒がグレーの色面の上に配置されている。中には黄土色や茶色など、薄く色味がついたものもある。油彩ではなくアクリル絵の具が使われているという点も特徴的だ。アクリルを使った方がマットな質感を得られることが多く、時には厳しさを感じさせることができる。
一方で、これまで世界各地で開催されてきたロスコの回顧展と同様、フォンダシオン・ルイ・ヴィトンの展示も、やや唐突な終わり方で幕を閉じる。彼は1970年に自ら命を断っているが、ゆえにその仕事はまだ完成していないという印象を与えてしまうのかもしれない。
ロスコがもっと長く生きていたら、次にどのような展開があったか。残念ながら、それを知る術はないのだが、少なくともこの展覧会は、ロスコがこの世に生み出した作品の重要性と革新性、そして何より時代を経ても揺らぐことのない価値を証明している。半世紀以上経った今も、20世紀に生まれた中で、いや美術史の中でも傑出して内省的で瞑想的な芸術であり続けているのだ。(翻訳:野澤朋代)
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