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美術館でパッタイを──リクリット・ティラヴァニに聞く、「プレイ」という実験の意味

展覧会場で手料理を振る舞うなどのパフォーマンスで知られるタイのアーティスト、リクリット・ティラヴァニ。現在、NYのMoMA PS1で回顧展「A Lot of People」を開催中の彼に、アートを通じた「関係性」や「場」の可能性について話を聞いた。

リクリット・ティラヴァニ《untitled 1990 (pad thai)》、MoMA PS1での展示風景(2023年)。Photo Marissa Alper

「プレイ」は実験であり体験

人と人、人と周囲の状況とのインタラクション(相互作用)を作品化してきたリクリット・ティラヴァニは、これまでトルココーヒーやパッタイ(タイの焼きそば)、お茶などを来場者に振るまってきた。現在ニューヨークのクイーンズにあるMoMA PS1で開催されている回顧展「A Lot of People」(*1)では、これらすべてを味わうことができる。


*1 ティラヴァニの参加型作品では、キャプションなどに記載されている素材一覧の中に「a lot of people(大勢の人々)」を構成要素の1つとして挙げていることが多い。

ティラヴァニは、展覧会の中で「ある状況」を作り出し、来場者をそこに参加させることで、かれらが互いにどう影響し合っているのかを感じたり考えるよう促す。彼はこれを「プレイ(play)」と呼ぶが、コロナ禍によって人と人の関わり(あるいは接触を避けること)が大きく意識されるようになって以来、ティラヴァニの「プレイ」はさらに大きな意味を持つようになったと言える。

2024年3月4日まで開催されている「A Lot of People」では、こうした体験型の作品のほか、彼が手がけた映像やドローイング、紙を支持体とした作品も見ることができる。旧作を展示することや、自分が今置かれている状況について、ティラヴァニの思いを語ってもらった。

──アメリカの初回顧展をMoMA PS1で開催することについて、どう感じていますか?

いつも通りで、特別な感慨はありません。自分の作品が一堂に会するのは面白いと思いますが、そもそもそんなふうに見られることを前提として作っているわけではなく、どの作品もある種の実験であり、それぞれ特別な文脈や状況の中で作られています。

たとえば初期の作品の1つである《untitled 1993 (café deutschland)》は、ケルンに送信した1通のファックスからはじまっています。当時、ドイツでは様々なことが起きていました。それを念頭に、この展覧会をキュレーションした友人に、トルコ系移民が多く住む地区で私が指定したいくつかの商品を購入し、指示書に従って、それらをセッティングしてもらいました。

この作品を理解するためには、その背景を知る必要があります。友人は、こうした用事がなければ決して行かないような地区に行き、品物を手に入れた。それがこの作品の核心でした。豆を煮出す中東の方法は、コーヒーの入れ方としては最古のものですが、作品で供されるトルココーヒーにどんな意味を読み取るか、それはまた別のレイヤーです。

すべての作品の中には多様な関係性やレイヤーがあり、私はそれらを作り直さねばならないと考えたことはありません。ただ言えるのは、その多くが体験を軸としているということです。肝心なのはモノとしての作品ではありません。そこに込められた意味を理解するために、来場者が作品の周りに立ったり、それをじっと眺めたりすることを意図してはいないのです。それよりも、彼らがその場所に存在し、その状況に参加すること、そしてほかの人たちと一緒に時間を過ごすことが重要なんです。

重要なのは、どう見えるかではなくどう関わり合うか

──あなたの作品の多くは文脈によって変化します。また、ソーシャルメディアが登場する前に考案された作品もたくさんあります。ソーシャルメディアは、私たちが周囲と関わったり、それを経験したりする方法を大きく変えました。

この展覧会は2つのパートで構成されています。1つは、より活動的でオープンな空間です。もう1つはそれと比べるとより多くの指示に沿って展開される、いくつかのプレイから成り立っています。

この展示では、様々な可能性や状況について検討する必要がありました。たとえば、「ある条件のもとで作品を見せるとしたら、どんな形でアイデアを提示できるだろうか」ということもそうです。今はどんな場所でも料理ができるわけではありません。ギャラリーや一部の私設アートスペースでは可能かもしれませんが、公共の美術館では無理です。もちろん、《untitled 1990(pad thai)》という作品はそもそも、そうした難しさや美術館という施設が自らをどう捉えるのか、その認識の変化を扱ってきました。

プレイは一種の実験であると同時に、もう少し生き生きとした「何か」を提示するための方法でもあります。また、「生きていること」についての問題も扱っています。そもそもこれが「プレイ」である時点で、リアルではないという事実を暗示しています。観客は現実の時間と空間の中で起きていることを見るように促されますが、それはパフォーマンスでも演劇でもありません。「プレイ」という言葉は、見ることと経験することの中間、その間を行ったり来たりできる可能性を内包しています。舞台はあるけれど、その高さはとても低く設定されている、というようなことです。

リクリット・ティラヴァーニャ《untitled 1993 (café deutschland)》のMoMA PS1での展示風景(2023年)。Photo: Marissa Alper

──プレイは作品に参加する機会を提供しています。コーヒーを淹れたりパッタイを調理するなど、あなたの作品に命を吹き込んでいる人々は、どうやって選ばれているのでしょうか?

たいていは会場に来てもらいやすい人で、多くは学生や元学生です。長く教育に携わってきたので、参加したいと思っている人を大勢知っています。最初にプレイをやろうと思ったときは、誰かをキャスティングして役割を演じてもらうことも考えました。でも、大事なのは演技や行為ではなく、アイデアの流れを理解してもらうことです。

指示書のようなものはありますが、とてもざっくりした内容です。指示を出すと、人はそれに忠実になりすぎる傾向があるし、展覧会場で起きることもそれに沿ったものになってしまいます。なので、指示書はいったん脇に置いて、何も考えずただやってほしいんです。重要なのは、どう見えるかではなく、そこにいる人たちが互いにどう関わり合うか。その空間に存在して、コーヒーカップを置く。ただそれだけです。それをどこにどうやって配置するかについて細かいことは考えない。それがあるべき姿です。それこそが、プレイの本質だと思います。

人々が判断するためのスペースを作る

──作品は、そこでの行為や偶発的な動きから生じるセレンディピティ(予期せぬ幸せな発見や出会い)だと言えますね。

この世に固定できるものなんてありません。現実を固定することはできないのです。成り行きに任せ、コントロールしようとしないことが大事です。

今回の展覧会では、アイデアや実施方法を含め、昔の作品がどのように捉え直されるかが楽しみです。足を運んでくれた人には、細部まで感じ取ってほしいと思います。小さなスクリーンを眺めているだけでは、いろんなことを見逃してしまいます。周りを見渡して観察する、あるいはある空間に身を置くことが大事なんです。そうすれば、自分のペースを緩やかにすることができます。

──人々が同じ空間に集まって交流し、自分なりの体験をする。そんな機会を設ける今回の展覧会は、何をするにもスクリーン越しが当たり前になったコロナ禍を経た今だからこそ感じられる面白さもあります。

コロナ禍の間、私はそれまでより静的で、関わる人の数が少ない作品に取り組み始めました。人間の持つスピード感や注意力、そして人と人の間にある緊張感について考えさせるようなものです。タイで開いた展覧会では、部屋の中央にガラスの壁を置き、人々が両側からアプローチできるようにしました。ガラスの障壁を間に挟んで出会うことができるというものです。

──MoMA PS1の展覧会を体験することで、来場者に何を得てほしいですか?

一度といわず、5カ月間の会期中に何度も来てほしいと思います。来るたびに違うことが起きているはずですから。コーヒーやお茶を入れたり、人と会ったり、音楽を聞いたり、そんな時間を過ごしてみてはどうでしょうか。楽しむために展覧会を利用してください。友達も誘って。

この展覧会には、何かをしたり、考えたり、注意を払ったり、読んだりする時間と空間があります。動きや、空間を移動することについての作品もありますが、それを経験するには時間が要ります。私の意図は、人々が判断するためのスペースを作ることです。物事には、はっきりとした始まりと終わりがあるのではなく、連続した時間と空間があると私は考えています。作品はここで終わり、ここから始まる、というものではありません。私の作品はオープンなものです。最初に「特別な感慨はなくて、いつも通り」と言ったのは、こうした考えから来ているのかもしれません。(翻訳:野澤朋代)

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