ブリジット・バルドーの解体と「まなざし」の転換──アストリッド・クラインのNY初個展をレビュー
ドイツで最も著名なコンセプチュアル・アーティストの一人、アストリッド・クライン(1951-)のニューヨーク初個展が開催されている。写真や抽象画とテキストを組み合わせた彼女の作品が我われの認識や思考に何をもたらすのか、US版ARTnewsのシニアエディターが読み解く。
表象のメカニズムを暴き出すアストリッド・クライン
ジャン=リュック・ゴダール監督の映画『軽蔑』(1963)の冒頭で、ブリジット・バルドーの裸体をさまざまな角度からカメラが捉えた長いテイクがある。その中で彼女は、自分の肩や、口元、目、鼻、耳などを一つひとつ、好きかどうか恋人に尋ねる。彼は「ああ」と答え、こう続ける。「僕は君を愛している。その全てを、優しく、悲劇的に」
ドイツのアーティスト、アストリッド・クラインも、バルドーの全てを、優しく、悲劇的に愛しているようだ。《Untitled(je ne parle pas...)》という作品では、妖艶な肢体を見せつけるバルドーの写真を2枚複写し、街頭広告のサイズに引き伸ばしている。写真が大きく拡大されたことで印刷の網点が露わになり、バルドーの完璧な姿はバラバラに崩れていく。
グラマラスな写真の表層をかき乱すことでクラインが示唆しているのは、私たちがバルドーを隅から隅まで愛することは実際には不可能だということだ。私たちはあくまでも表象を通してバルドーを知っているのであって、彼女自身を知っているわけではない。クラインは表象の限界を暴き、彼女のイメージを掴みどころがなく謎めいたものとして提示している。
《Untitled(je ne parle pas...)》は、クラインが1979年に制作した「フォトワークス(photoworks)」シリーズの1点。この作品を含む同シリーズは現在、ニューヨークのギャラリー、スプルース・マーガスの展覧会で見ることができる(3月9日まで)。
ドイツにおけるフェミニストの象徴的存在であるクラインだが、ニューヨークでの個展はこれが初となる。彼女が同世代のアメリカ人作家シンディ・シャーマンと多くの共通点を持つ作品を発表してきたことを考えると、初めてというのは実に意外だ。クラインはシャーマンと同様、映画や広告に登場する女性像をもとにした写真作品を制作し、そうしたイメージに安易な読解を拒む不透明さを与えている。
クラインが題材としてよく取り上げる戦後ヨーロッパで作られたアートシアター系映画には、しばしば何を考えているのか分からない女性が登場し、ストーリーも掴みどころがない。
そうした作品に繰り返し登場するのが、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画で何度も主演女優を務めたモニカ・ヴィッティだ。今回のスプルース・マーガスでの個展でも、ヴィッティの写真を使った作品《Untitled(powerless…)》(1979)が展示されている。この作品では、ヴィッティのスチール写真を半透明の保護紙で覆い、彼女にまとわりつく性的な視線を半ばさえぎりながらも、映画研究者のローラ・マルヴィ(*1)が言うところの「見られるという位置付け(to-be-looked-at-ness)」を強調している。
*1 1975年に発表した論文「視覚的快楽と物語映画」で知られる。映画というメディアに深く組み込まれた「男性のまなざし」について論じ、見る側(男性)と見られる側(女性)の間にある権力構造の非対称性を指摘した。
暗号めいたテキストが生み出す緊張
しかし、この作品のタイトルが仄めかしているように、ヴィッティは本当に無力なのだろうか? 受動的に見える彼女は、別の形の力を持っているのではないか?「POWERLESS(無力)」と「REBELLIOUS(反抗的)」という一見相反する2つの形容詞を半透明の保護紙に並置することで、クラインはそう問いかけているようだ。
クーリエフォントのタイプライターで記されたこの2つの単語は、連打されたXの文字と共に何度も繰り返される。伏せ字のようなXの羅列は、2つの単語が読解不能となった文章の一部である可能性を暗示しているようだ。
クラインは、1980年代後半から90年代前半にかけて制作した別の絵画シリーズ「White Paintings」の中でも、暗号のようなテキストを使い続けている。スプルース・マーガスの展覧会では、そのうちのいくつかを奥の部屋で見ることができる。
石英やアラバスター、亜鉛を素材としたこれらの抽象画には美しい光沢があり、その上にテキストが描かれている。ある作品では、「tragicmagic(悲劇的魔法)」というフレーズが、波打つカーテンを思わせるパターンの上で繰り返される。しかし、見る者に与えられる手がかりは少なく、その言葉はあまりにも捉えどころがない。
一方、フォトワークスに使われたテキストの断片は、不可解ではあるものの、絵画にはないある種の緊張を作品に与えている。それは、不安定な関係性を形成する言葉と写真の間に生じる緊張だ。
たとえば、《Untitled (painting my life...)》という作品では、口を開いた女性がどこか外を見ており、写真の上には作品タイトルと同じ「painting my life」という文がタイプライターの書体で記されている。化粧を施した彼女の顔は、さらに見つめるよう私たちを誘っているかのようにも思えるが、それは不可能だ。彼女の顔の大部分は白いベールが掛けられたようにぼやけていて、片目は完全に隠されている。
クラインは伏せ字をした言葉やテキストの空白を埋めるよう私たちを促すが、それと同様に、ベールの向こうの女性は私たちにほとんど手がかりを与えないまま、空白を埋めるよう、そこに独自の絵を描くよう求めている。ここでもまた思い知らされることがある。私たちはしばしば写真の中の人物を知っているつもりになるが、それは単なるイメージの投影にすぎないのだと。(翻訳:野澤朋代)
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