ヴィヴィアン・サッセンをいま見ることの意味と、「KYOTOGRAPHIE」が提示する現代写真の可能性。ヨーロッパ写真美術館館長サイモン・ベーカーが語る

今年も2024年4月13日から「KYOTOGRAPHIE 国際写真祭」が始まった。「SOURCE」をテーマに行われる多数のプログラムのなかでも注目すべきは、ヨーロッパ写真美術館(MEP)からの巡回展となる日本初のヴィヴィアン・サッセン回顧展「PHOSPHOR|発光体:アート&ファッション 1990–2023」Presented by DIOR。同芸術祭に長く携わるMEP館長のサイモン・ベーカーに、いまヴィヴィアン・サッセンの仕事を一望する意味やKYOTOGRAPHIEの可能性について聞いた。

Viviane Sassen “PHOSPHOR: Art & Fashion 1990-2023” The Kyoto Shimbun Bldg. B1F (Former Printing Plant) Presented by DIOR In collaboration with the MEP - Maison Européenne de la Photographie, Paris ©︎ Kenryou Gu-KYOTOGRAPHIE 2024

ファッションとファインアートのクロスオーバー

──サイモンさんは2014年からKYOGORAPHIEに関わられており、トークイベントやポートフォリオレビューへ参加するほか、さまざまな展示のキュレーションも担当されてきました。過去にはアーヴィング・ペンやココ・カピタンをフィーチャーされていましたが、今年は、パリのMEPで開催されたヴィヴィアン・サッセンの回顧展を日本に持ってこられるとのこと。サッセンの作品をどんなふうに捉えていますか?

現代写真を考えるうえで、ヴィヴィアン・サッセンは非常に重要な存在です。彼女はディオールルイ・ヴィトンのような大手ラグジュアリーブランドのキャンペーンや多くのコマーシャルワークを手掛けてきましたし、同時に、作家としての作品も精力的に発表してきました。その作品世界はますます洗練され、複雑なものになっていると感じています。

2013〜2014年頃は美しい色彩を特徴とするストレートな写真を発表し、その後はコラージュやインスタレーション、映像まで、幅広い表現を探求しています。今回、KYOTOGRAPHIEで発表する「PHOSPHOR|発光体:アート&ファッション 1990–2023」でも、彼女は写真のさまざまな可能性を見せてくれます。

──特に注目すべきポイントは?

彼女の作品には多くのテーマがあります。アフリカで育った幼少期の物語や、女性の身体の見せ方、女性の身体に対する視線が男女でどう変わるのか、あるいはアイデンティティの問題にも切り込んでいます。植物など有機的な存在が織りなす生態系のありようにも彼女は関心をもっていますし、さまざまなトピックが混ざり合っていますよね。

加えて、もはや写真家が写真だけを撮るケースが少なくなっていくなかで、メディアを横断しながらさまざまな形態で作品をつくっていることも、彼女に注目すべき理由のひとつでしょう。メディアに対する自由でクリエイティブな姿勢からは多くの人が刺激を受けるはずです。

──サッセンのように、商業写真とアート写真の間をこれほど自由に、かつ自然に行き来している作家は多くないように思います。

現代の写真家は、メディアやコマーシャルの仕事と純粋で洗練された芸術表現のバランスをとっていく必要があります。ヴィヴィアンの場合は両者のクロスオーバーが見られるところが面白い。それぞれが完全に分離しているわけではなく、ファッション的な作品で用いられているプロセスやテクニックが個人的な作品にも見られるし、その逆のパターンもある。

パリで「PHOSPHOR|発光体:アート&ファッション 1990–2023」を開催した際も、若い世代の写真家の多くは彼女の作品を雑誌やウェブメディアで見たことがあったため、実物をまとめて観られる機会にワクワクしていました。パリと同様に今回のKYOTOGRAPHIEでもこの展示を担当したキュレーターのクロティルド・モレットは、年代順ではなくテーマごとにヴィヴィアンの作品を構成しており、軽快で遊び心のある空間が生まれています。

写真家は世界をどう見ているのか

──多くのラグジュアリーブランドがサポートするKYOGORAPHIEは、いまやファッションとアートをつなぐプラットフォームとしても機能しているように思います。

そうですね。MEP(ヨーロッパ写真美術館)でも、とくにディオールは私たちの大切なスポンサーであり、今回の展示においてもサポートを行ってくれました。ほかにも、KYOTOGRAPHIEではCHANELやDIORなどの大手メゾンやファッショングループがさまざまな形で支援しています。こうしたメゾンがアーティストやアート機関の活動をリスペクトし、自由なクリエイティブの機会を与えてくれるのは非常に素晴らしいことだと思っています。

──サイモンさんはMEPを通じて、昨年のKYOTOGRAPHIEにも出展していたココ・カピタンや、レン・ハンといった伝統的な写真の世界とは異なる領域で活躍してきた写真家を多く取り上げています。

レン・ハンは限られたリソースのなかで本当に力強い作品をつくる写真家だったと思っています。彼は北京の小さなアパートで普通のカメラを使い、身近な友人たちとともにアイコニックな写真を数多く生み出しました。欧米でも日本でも複雑なカメラやレンズなど機材に拘る人はたくさんいますが、レン・ハンは非常にシンプルなカメラで優れた作品をつくっていた。重要なのは、脳と目をどう使うかでしょう。

いまやデジタル機器の性能は向上していて、誰もが簡単にピントを合わせて写真を撮れるし、iPhoneでコントラストや色調を変えたり、トリミングしたりできる。スマートフォンですべての画像処理を行えるわけです。そんな状況において、写真家に何を求めるのか。彼/彼女らはどう世界を見てどう考えるべきか示してくれる存在なのです。ココ・カピタンについても、レンズの後ろにある思考プロセスがとてもエキサイティングだと思っていました。

日本写真という特異点

──サイモンさんは、MEPのディレクターに就任される以前はテート・モダン初の写真キュレーターとして活動されていました。そこでは、日本の写真家の作品も多く収蔵されたと記憶しています。日本の写真にどんな価値を見出しているのでしょうか。

1960年代以降の日本では、雑誌や書籍の世界から非常に力強い写真文化が生まれました。というのも、日本では欧米のようにプリントを販売するマーケットが大きくならなかったため、写真家は、雑誌や書籍の世界を中心として活動してきたわけです。『アサヒカメラ』や『カメラ毎日』のような雑誌は非常に重要な場でしたし、写真家の働き方にも影響を与えていました。

その中で、多くの日本の写真家が非常に奔放で抽象的なコンセプトをもった、それこそ「作品」と呼べるような写真集を発表してきました。荒木経惟の『センチメンタルな旅』や森山大道『写真よさようなら』など、いま読んでも素晴らしい写真集がたくさんあります。日本には美しい写真集をつくる会社もありますし、欧米の写真家のなかには、日本に来たら一日中、神保町の小宮山書店で過ごしたいと語る人もいますから。

──日本では、アートの文脈から写真表現が長い間切り離されてきたようにも思います。

それは日本に限った話ではないと思います。2008年に私がテート・モダンで働きはじめたとき、ほかに写真のキュレーターはいませんでした。テートはとくに遅れていたといえるかもしれませんが、ほかの美術館でも同様の現象が見られます。例えば、ビクトリア・アンド・アルバート美術館は写真のナショナルコレクションがあるとはいえ、工芸品の枠組みで扱われてきました。

一方、独自の表現を追求する写真家たちは、写真だけでなくほかのメディウムとの関係にも興味をもつようになっていきました。写真とアートを分離できなくなってきたのだと感じます。

たとえばハイレッド・センターや草間彌生の行ったパフォーマンスは写真で記録されていたわけですし、近現代のアートと写真を切り離すのは愚かなことだと思いますね。日本でもかつて細江英公が土方巽のような舞踊家や俳優などとコラボレーションを行っていました。いまではパフォーマンスと写真を切り離して考えることは難しくなっています。

──サイモンさんは現代写真のどんなところに可能性を感じるのでしょうか。

新しくて異なるものをつくる能力です。たとえば2022年にMEPで企画した「Love Songs」という展示は、荒木経惟やナン・ゴールディン、ラリー・クラークのような写真家の表現を通じて、親密さと写真の関係を問うものでした。

もちろんいまでは誰もが写真を撮って、身近な友人や家族と共有するわけですが、こうした行為とパブリックに向けて親密さを表現することはまったく異なっています。とくに荒木や深瀬の作品は非常にラディカルで、日本の作家はほかの国の作家とは異なるやり方で親密さを表現していると感じています。

──この数年で生成AIのようなテクノロジーが急速に発展し、アートの領域における活用も進んでいますが、こうしたテクノロジーは写真家の表現や現代写真の世界にどのような影響を与えうるでしょうか。

Photoshopもそうであったように、AIのいい使い方もあればそうでないものもあるでしょう。私自身、すでに生成AIを活用したプロジェクトをたくさん目にしていますが、いまのところあまり面白いものはないように思います。

他方で、私たちMEPも生成AIの活用を進めています。とあるフランスのアーティストとともに、MEPの収蔵作家や作品について、ChatGPTにインタビューしながら美術館のコレクションに関する書籍をつくろうとしているんです。6月に出版される予定なのですが、とてもワクワクしています。

ChatGPTにシンプルなことを尋ねると、多くの人々がこれまであちこちで書いてきたような答えを返してくれますよね。たとえば「ウィリアム・エグルストンはカラー写真においてなぜ重要だと考えられているのか」と尋ねたら、すごく真面目な答えが返ってくるでしょう。「エグルストンの写真にはどんな色の花が写っているかおしえてください」という問いにも答えてくれるし、誰がどんな作品を収集してきたのか、人々にどうやって作品を売ればいいのか、「森山大道の写真集を読むときにはどんな音楽を聴けばいいでしょうか」なんて質問にも答えてくれるでしょう。

もちろん生成AIは膨大な量の情報を消化しているだけなので、議論の余地のないテーマについて尋ねるだけでは視覚的にも読みものとしてもまったくクリエイティブではありませんが、質問が面白ければ、これまでにない本が生まれるのではないかと考えています。

写真と社会をつなぐ「ダブルツーリズム」

──世界的にはアルルの国際写真フェスティバルなど地域に根ざしたイベントや、パリフォトやUNSEENのような写真にフォーカスしたアートフェアもありますが、こうした国際的イベントと比べてKYOTOGRAPHIEの強みはどんなところにあると思われますか?

もちろん世界には長い伝統をもち多くの来場者を集めるフェスティバルがありますが、KYOTOGRAPHIEは写真を通常のギャラリースペースから連れ出して、珍しい空間に展示しているところが非常にユニークです。「ダブルツーリズム」と呼べるような現象を生み出している。写真作品を観て回ることもできるし、京都を歩き回ることで街や建築を再発見することもできる。とくにKYOTOGRAPHIEが展示会場として利用しているスペースはどこも非常に美しいですし、通常はパブリックに開かれていないところも少なくありません。

こうした環境をつくることで、作品の鑑賞体験が非常にポジティブなものになります。私もアーヴィング・ペンを京都に招いたり、片山真理の作品を展示したりしてきましたが、ヨーロッパと日本の交流を促すKYOTOGRAPHIEの仕組みも面白いものだと思います。

さらに最近は「KYOTOPHONIE」と題したミュージック・フェスティバルも始動し、アートだけでなく音楽シーンとのつながりも生み出している。写真のためだけのニッチなフェスティバルではなく、ファッションや音楽のインスタレーションを通じて街に開かれた場をつくっていることが、KYOTOGRAPHIEの強みだと感じます。

──サイモンさんも何度も京都を訪れるなかで、街に愛着が生まれましたか?

お気に入りのバーやレストランもありますよ。「cafe la siesta -8bit edition!!!-」は古いコンピューターゲームがたくさん置いてあってとても楽しい場所ですし、「然花抄院」のカフェもお気に入りですね。抹茶を使ったケーキもお茶もすごく美味しい。どちらも京都を訪れるたびに行っています。夜になれば、カラオケに行くこともあります。前回京都を訪れたときはココ・カピタンと同じカラオケに行って、バックストリート・ボーイズを歌いました(笑)。今年は私自身が京都に行くことが難しいのですが、ヴィヴィアン・サッセンの展示は非常に素晴らしいものになっていますし、ぜひ多くの方に京都を訪れていただきたいですね。

Text: Shunta Ishigami Edit: Maya Nago

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭
会期:2024年4月13日(土)〜5月12日(日)
会場:京都新聞ビル地下1階(印刷工場跡)、京都文化博物館、京都芸術センターを含む京都市内12会場

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